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【小説】鳴らないタイムコール

「あ、あーあー、あー、三月五日。晴天。」
「三月五日。こちらは雨」
「洗濯物がよく乾く」
「皮肉だな。そちらはそうだろう」
「今日晴れなかったら、明日着るシャツがなかったので助かった」
「溜め込むのが悪いんだ。……昨日洗濯を忘れて、今日着るシャツすらない俺に言われたくないだろうけど」
 はは、と二人分の乾いた笑いが重なる。

 古物商から仕事のお礼にと贈られた古ぼけたラジカセは、無機質に白で統一した部屋の中ではすっかり浮いている。それでも、丁寧に拭いて、毎日食事を摂るこのテーブルに置いてやると、突然日常を着飾った様子で、部屋に馴染みだした。そうしていつの間にか毎日、こうやって会話にならない会話を始めてしまった。ラジカセの向こうの男は、毎日、朝あるいは夜の十一時十五分から五分間だけ、とりとめの無い話して去って行く。男は私の日常におけるパーソナリティであり、同時に話し相手でもあった。一方的な語りに、私が無理矢理話をつなげているだけなので基本的に会話は成立しないが、時折うまい具合に、噛み合っては嬉しくなる。

「えー……五月八日。曇り。」
「五月八日。こちらは晴れ。
「今日はすごいことを発表する。なんと、家に子猫が迷い込んできた」
「それはすごいことだ。猫はかわいいよな」
「猫はすごくかわいい。あ、今聞こえたか、後ろで鳴いたのを」
「聞こえたよ、高い声だ」
 ラジオからかすかに聞こえた子猫の声に呼応するように、私の家の猫も鳴き出した。その後も、男の猫と私の猫の鳴き声が重なり合って、私たちは黙って猫の声だけを聞いた。その日の五分間のうち三分間は、猫の声だけが旋律を奏でていた。


 五年ほど前から、製図を生業とするようになった私は、大抵の仕事をメールで受け取って自宅でこなすので、外出をすることが極端に少ない。毎日一心不乱に、製図を作り上げる。そのうちに、だんだんと頭の中で外の街並を想像しては、勝手に製図化してしまうことが増えた。家具に壁に床、全てが真っ白なのは、いつからか私が毎夜、意識のない間に何かしらの製図を作りあげてしまうようになったからだ。ある日は、床に図書館が。またある日は、壁に冷蔵庫が。そしてある日は、ゴミ箱に飼い猫の製図が記されていた。どうしてしまったのだろう、と思ってはみても、思うだけだった。実際にはどうもしておらず、ただ、寝ることと夢を見ることが、製図を書くことと同じになったのだろう。夜の製図は決して止まることはなかった。私が製図のことを考えなくなるのは、男と毎日会話にならない会話をするときだけで、そのときは自ずと、製図から逃れることができた。いや、できたような気がしていた、というのが近いのかもしれない。

「七月七日。曇り」
「七月七日。七夕だが雨」
「短冊に書いた。健康であれ、と」
「俺より若いくせに、じじくさい願いだな」

「八月三十日。晴れ」
「八月三十日。同じく晴れ」
「暑すぎるので雪が降ってほしい」
「雪は冬に降るからいいんだ」

 日が重なっていくと、ラジカセの置いてあるテーブルを製図が埋め、だんだんと隙間がなくなってきた。部屋の中はもう製図にまみれており、まだ書き加えられるとするなら、もはや外壁と、皮膚くらいだろう。私はそのうち全てを真っ黒に染めてしまうのかもしれない。そして残った最後の隙間には、きっと私の心臓の製図が埋まるのだと考えると、無性に怖くなっては、私は飼い猫を撫で、ラジカセを、そして中の男を、思い浮かべては耐えた。もう少しだった。


「十月三十日。晴天」
「こちらは曇り。今日は、元気がないな」
「史上最悪の日だ」
 男は、首でもしめられているかのようなか細い声を出す。音しかないのに、目の前に男の落胆が浮かび出てくるようだった。私はついに具体的に浮かんでしまった男の姿に鈍く息を吐き、いよいよ、と心を決めた。
「彼女が事故に遭った」
 奏でるように同じトーンで言葉を続けると、しばしの沈黙が流れた。

 いつか来ることとはわかっていても流石に堪えるものがあって、私は咄嗟に電源ボタンを探す。しかし、そういえば元々このラジオは、電源が入っていない。

 彼女が事故に遭った日は、つまりこの男の終わりを意味していたし、同時に私の製図病の始まりを意味した。男の語りを聞く度に、あの頃、私は何気ない日々を送りすぎていたのかもしれないな、と思うことがあった。だからこそ、何気なくない日の訪れに耐えられなかったんだろう。
 二人で旅行に向かう途中、前の車が減速したところに突っ込んだ。助手席に座っていた彼女は頭をうって即死。それを境に、私は日記代わりに声を吹き込んでいたカセットテープを全て捨てて、家に引きこもり、製図だけを書くようになった。

 偶然にも、忌まわしきラジカセが贈り物として届けられたとき、私はすぐに捨ててしまいたかった。しかし、少しの好奇心や懐疑心、そして何より、彼女がいたあの何気ない日々の、郷州の思いにあてられて、恐る恐る取り出してしまったそれは、突然目の前で勝手に動き出し、それからは毎日決まった時間に流れ出すようになった。電源どころか、カセットテープも入っていないのは知っている。あったとしても、とっくの昔に捨てたし、燃やしたんだ、この手で。それからは、製図病を煩いながらも、なぜか流れてしまう過去の自分のラジオを聞いていた。毎日のそれが、楽しみでもあったし、それでいて今日この日が来るのを、少しだけ待ちわびていた。これでいよいよ男は終わるし、私も、終わるのだろう。


 男は沈黙を貫いた後に、堰を切ったように話し出す。私はこの後自分がなんの話をしたのか鮮明に思い出すことができた。
「私の所為だ」
「そうだ、お前の所為だ」
「私の責任だ」
「その通りだ」


「でも、良かった」
 ふと、機械的な会話が止まり、私は驚いてラジオをにらみつける。
「良かっただと?」

「奇跡的に彼女は助かった」と男は続けた。


 私は男が何を言っているのかがわからなかった。

「彼女が助かって、本当によかった」
「やめろ、嘘をつくな」
「彼女を失ってしまったら、もしかしたら私は私じゃなくなっているかもしれない」
 おい、と潰しきったレモンの汁のように声にならない声をひり出すと、男は黙りこくったので、慌ててラジカセを思い切り壁に投げつけた。
 私は家中の製図をかきあつめるように漁った。男の声がずっと頭の中で木霊している。彼女が助かった? そんな馬鹿な。集めた製図を全て叩きつけて、ライターで火をつける。カセットテープを燃やしたときのことを思い出した。燃やしているのは紙だったが、あのときと同じにおいがする。壁や床の製図はどうすることもできなかったが、このまま待っていればきっと、結局自然と、すべてが真っ黒になることだろう。ふと煙の中で瞬きをすると、しばらく夢にすら出ることがなかった彼女の目や耳を、身体を、私の手が勝手に製図化していくのがわかった。走馬灯までもが製図となるなんて、と私は笑いながら、自分の左手の甲に彼女の製図を作り始める。ぱちぱち、と聞こえるのはお迎えの拍手ではなく火の粉だ。彼女の繊細な身体が私の中では鮮明に思い出されて……しかし、間もなくして、私は右手を止める。彼女を正確に製図化できているようには思えなくなったからだった。彼女を失ってから、自分の製図に疑問を抱いたのはそれが初めてのことだった。

 彼女は生きている、と男は言った。一方、私の彼女は生きていなかった。私が製図化している彼女は、どちらの彼女だろう。
 止まった右手はシャープペンシルを落としてから宙を舞い、そのまま恐る恐る室内スプリンクラーのスイッチを押した。瞬間、部屋には雨が降り、火は消え、足下には炭と化した製図と、炭にもなれない私、漂ったままの煙がそれぞれ残った。濡れた手を、ペットボトルの製図が書かれた絨毯で拭き、壁の近くに転がったラジオを手に取った。電源ケーブルをさしこんでみると反応が鈍かったが、何度も抜き差ししているうちに、ジーと声を出し、動き出す。

「十月三十日。曇り。あー、あ、あ……」

 電源しか入っていないラジオは、録音も再生もすることなく、じっとそこにいた。私はろくに息継ぎもせずに話し続ける。

「な、な、なんだか、腹が減った。無性に、カレーが食べたい。市販されてるスパイスからルーを作ることってできるだろうか。前に、作ってもらったことがあったような。後、あー、一緒に見た、超能力少年と宇宙人の女の子の…名前はなんだったか、ドラマ。あれの続編は出ただろうか。とりあえず部屋がこんなことになってしまったし、久々に、街にでも、出ようかと思っている」

 だんだんと煙が途絶えてくると、視界が開けた。私はたった今初めて入った部屋を見るように、壁・床をじろじろと、見やる。そのうち、私の視線に気づいた飼い猫もこちらを見た。見るし、見られている。話すし、聞かれている、誰かに。恐らく。

「初めて製図を書いたときのことを思いだした」と私は話しかけた。

「形を捉えるには下書きが何より大事で、その時点で狂ってしまうと、決して正確な製図にはならない。あの日、数え切れないほどの下書きと練習を繰り返していたのは、忘れるためだったんだ。君ならきっとわかっているかもしれないけど。正確にものを書こうとすればするほど、ぼんやりしたものが薄れていって、存在するものだけで埋まっていけばいいって。
でも、どうしてかな、いつからか下書きも練習もしなくなって、全てを捉えている気になってしまったんだな。私は。そうしたら、今日、君を書こうとしたら、久々に筆が止まったんだ。止めたのは、君なのかもしれない。
君を捉えられないのに、私の心臓を捉えるわけにもいかないよな。うん、わかったよ、わかった。多分、見て、触ってみなきゃわからないものが色々あるんだろう、な。そうだ、きっと……だから、まだ終われないよ。むしろ、再スタートか。部屋、こんなことになっちゃったし。だから、また、下書き、書いてみるよ、書いてみる、なあ、もっと練習して、きっといつか……」
 私はついには咽せて、もう言葉を続けられなくなった。足元に転がった、しばらく使っていなかった消しゴムを拾い上げ、壁にまっすぐかけてみると、飛行機雲のように白い線が浮かび上がった。飼い猫が近づいてきて、私の膝に寄り添う。その温度に、私はまだここにいる、と呟いてみる。

 電源を切ったラジオと私の音が止む。外のどこかから、廃棄品回収車の音が、子どもの笑い声が、かすかに聞こえてきた。消しゴムを大きく動かし、笑いながら、繰り返す。私はまだここにいる。私はまだここにいる。




もっと書きます。