【小説】天使が泣いている
「俺、生まれたとき天使だったみたいで」
洋一が鼻歌を口ずさむようにそう言った。
「肩甲骨の異常でさ。腕を上げると、くの字に折れ曲がっちゃうんだ。背中の皮膚ぼこぼこ動くの、皆気味悪がって、でも怖いもの見たさで、体育の着替えのときとかにさ、同級生とかがそろそろ近付いてくんの。でも俺が振り向くと、うわーっ、って逃げちゃう。そういうの、あるじゃない。半べそかきながらお袋に報告したらさ、あなたは天使なんだから、泣いたら罰があたるわよ、とか言うんだよ。今考えるとさ、可笑しいよな」
咥えた煙草が上下に揺れる。煙草を咥えているときの洋一は、最も正解に近い顔をしている気がするので、私もつられて笑った。どうして急にそんな話をするのかと問うと、今日シてるとき、市子がやけに背中を引っ張ったから。と顔も合わせずに言う。
「ひどいよなあ」
そうね、と同調すると少し間が空き、うちのお袋、と続いたので思わず顔を見た。洋一の目はまっすぐ正面に向いている。それを追うと、テレビの脇で電源がしばらく入っていない加湿器が捨て子のように立っている。
「もしかして、やっぱ俺天使だったんじゃないかなと思って。一年に三回くらいさ、思うんだよ。今でも」
ひどいよなあ、と反復した。洋一の背中の丸まりは白い丘のようだが、その奥には黒くうずくものがある。私はそれを見下すように視線をおくる。
私は洋一のことを好きではない。洋一は私のことを好きでいようとする。それがあまりにも当たり前に感じてしまうので、私は洋一を好きになるのが恐くなる。
洋一と私はあまりにも安易に出会ってしまったので、この世で出会った心地がしない。道行く人が皆止まって、蝋のようになった世界でたまたま私と洋一だけが動いていたので今に至るような気がする。それでいてともに三回目の夜を過ごしている。当たり前に。
私たちは昼に会うことがない。二人ともがなんとなく、夜に近いからだ。初めてが、昼に会ったんだか夜に会ったんだかも覚えていないが、今の私たちは夜に近い。
洋一と知り合う少し前、私は婚約していた男との関係を破棄した。添い遂げようとしている最中で、無理だと言った。昨日家のポストをあけると、親身になって話し込んだ式場からチラシが届いていた。白やピンクを多用したそれが恐ろしく、すぐに捨てた。男からも未だにCメールがやってくる。初めはWHY、を問う文面が最初は多かったが、だんだんと、HOW、に変わった。
「さっきここに来る途中、ブチ猫がいたの」
今日も二十分の電車と八分の路地道を経て洋一の部屋に来た。室内の空気を意識的に噛みしめる。私は洋一の部屋のにおいが好きだった。自分じゃないにおいに包み込まれると、修学旅行のような落ち着かなさがある。芯を静寂で擽られて、不思議とそれだけで高揚してしまう。
「目の前を足音たてて歩いても動かなかったのに、立ち止まって見つめようとしたら逃げちゃった」
「そりゃあ、ブチ猫がきみの存在に気付いてこわがったんだ。歩いてるときには、そういうモノなんだと思えるけど、止まったら、そうしようとして行動したことになってしまうから、きみが現れてしまうだろう」
だから、と頷きかけたとき、洋一の電話が鳴った。ごめん、と言いつつ電話を取ろうとはしなかった。洋一の交友関係を私はよく知らない。洋一もきっと私のそれを知らない。私たちは知り合わないくせに、好き合おうとしている。それが私には気味が悪い。
「電話、出ないの」
「出るよ」
そう言って洋一は電話を持って、寝室へ駆け込んだ。白いドアが閉まる。コール音が止むと、後は何も聞こえない。
一人だと素になるけど、誰かといると演技をしている。洋一と一緒にいる今は、何公演目なのかわからない舞台上だ。それはきっと洋一もそうなのだから、と思う。私たちは中途半端に生きた所為で、人に慣れっこになっている。
私は弱いのかもしれない、と思う。同時に、強いのも弱いのも誰かを基準にした話だ、結局のところ自身の問題であるのに、誰かを基準にしてなんの意味があるのだろうとも思う。いくら他人より強かろうが、はたまた弱かろうが、私が耐えられなくては意味がないのだ。誰かもどれもこれもXやYで、代入すれば補えるなら私はいらなくなるし哀しいんだけど、でも何もかも型が嵌らなくって代用品がないっていうのなら、それもそれで困ってしまう。よくあることに悲しむ癖に、いつもあまりないことばかり想像している。そうして私は破棄したんだった。分かり合おうとする関係を。それでいて、知り合おうとすることも捨てて、好き合おうとしているのだった。
お風呂入る? という問いかけには、一緒に、という意味が含まれていた。きっと。私は首を横に振る。後でいいわ。洋一は背中を窄めて棚からバスタオルをあさる。洋一がTシャツを脱ぎながら、はっとした様子でそそくさと風呂場へ入っていく。しかし私はその一瞬で見た。天使の名残が窮屈そうに沿っている背中を。腕を上げた途端に蠢きだした羽を、見た。
「あのさ、こういう風に異性と隣あって歩く自分が、自分だとは思わない時期ってなかった?」
洋一はくしゃみが出そうになりながら言った。洋一の家に初めて行く途中だった。
「自分じゃなくってさ、中学生には中学生の自分、社会人には社会人の自分、みたいに、それぞれの風景の数だけ自分がいないと、おかしくなるんじゃないかって、思ったんだよ。でもさ、俺は一人だった。他の人もそうなのかな。わかんないから、濁すけどさ」
俺は一人だった、ともう一度続ける。
「私も」
反射的に飛び出したそれは、ようやく出た洋一のくしゃみに重なるようで重ならなかった。
「私も、一人だった」
一人遊び、一人ぼっち、一人だけ、一人前。色んな一人の中で、私も、一人だった。洋一は鼻を擦りながらぐいっと目を見開いた後、寂しそうな顔をした。私は一人だった。幼稚園のときも大学生のときも今も、私は一人きりだった。大学生の頃のことを思い出した。真夏の夕暮れだった。長い夏休みの最中で、サークル帰りに彼と手を繋ぎながら坂道を下っていた。茹だった後頭部を逃がすように、自然と足元が日陰の方へ向く。彼が私の肩に手を置いた。肩も手も頭も頬も、全てが暑かった。唇も続けて暑くなった。私はこうやってずっとずっと他の力に流されて暑くなって、蒸されていくのだ。何度も何度も同じ演技を繰り返して、私はだんだんとできあがっていく。そう思わなくては、私は駄目なんだ、と思った。その彼とは数ヵ月後に別れて、私はまたできあがりそこねた。
ゆるくなったパーマを乾かしきらずにドライヤーを終えて、息を吐いた。後ろから肩をもみ込むように触ると洋一は一瞬驚いたようだったが、そこ、凝ってるだろう、と身体を預けるようにした。私は親指に力をこめて、暫くの間絨毯の伸びきらない部分のようなその凹みを押し続けた。
「ねえ、踏んでみてもいい」
そんなシュミがあったのか、とか、そんな反応はしないのが洋一だ。
彼の背骨の隆起を、足の裏で確かめる。彼は洋一だが、洋一ではなく彼なのだと思う。
私の後ろで、子どもの姿をした洋一が泣いている。そのさらに斜め後ろから、洋一の母が見守っている。天使の我が子を見守るその様こそが天使のようなのかもしれない、と私は振り返らずに思う。天使はどこにでもいる。でもどこにもいないのだとも思う。
「天使ってさ、あったかいのかな」
洋一は枕に顔をうずめたままもごもごと話す。私の足が背骨をなぞる。
「それともつめたいんだろうか」
うん、と小さな相槌をして、「洋一の背中はあったかい」と答えることが私には精一杯の返事だった。ぐ、と背中に上昇する力が生まれたので、私は洋一を降りる。枕に力一杯押し込んでいたのか、心なしか顔が赤い。私は振り返る。彼はそこにいた。目の周りを赤くしている。これ以上いたらもう取り返せなくなるくらいに、何かをぼろぼろにこぼし続けていた。どろどろしたゼリー状のそれらは、私たちの足元を暗く広がっていく。
「俺は天使じゃなかったよ」
洋一は笑って言った。私も笑う。笑わなくてはいけなかった。彼が見ているのだ。洋一の両頬をゆっくりと手で包み込む。足の裏の次は掌から温かさを享受する。この温かさを私はずっと待っていたのかもしれない、と思った。同時に足元の暗い暗いそれが嵩を増していく。
「ねえ明日、ピクニックに行こうよ。サンドイッチと、水筒持って」私は彼に力いっぱい微笑んだ。天使のように笑えたかはわからなかった。
もっと書きます。