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【小説】紅茶とアレ

 飲むのはちょっと待って、欠かせないものがある、と言ってキッチンの奥に入ったマスターが戻らないまま、すでに三十分が経過した。客は私だけ、店員もマスターだけ。マスターは間違いなくこのキッチンの奥にいるはずなのに、その気配すらないので、店内には私一人と冷めてしまっている紅茶だけが存在しているように思えた。とはいえ、黙って出ていくには少し忍びない。手元には万札しかないので、お釣りはいらない、と置いていくには勇気がいる。それに、この店には今日入ったのが初めてだから、今日はじめましてのマスターは、顔すらしっかり覚えていないし、後たまたま客先との打ち合わせと打ち合わせの合間にふらふらと歩いて見つけて入ったというだけで、次にまたこの店を見つけられるとも限らなかった。
 室内は時が止まったような静寂に包まれている。マスターはもう二度と帰ってこないのかもしれない。この紅茶は冷めるどころかそのうち蒸発していくのかもしれない。私も、そのうち身体の表面が石化して、内臓には苔が生えて、いずれこの店のオブジェのような存在になるのかもしれない。カウンターの右横に目をやる。銅製の彫刻と目が合い、なんだか大変ですね、と独りごちる。この紅茶に合うアレというのはなんなのだろう、と考えながら、私は手元の手帳に書かれた次の打ち合わせ予定を消す。


即興小説トレーニング お題:紅茶とアレ 制限時間:15分

もっと書きます。