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【小説】どす黒いバラン

 母がお弁当のおかずの間に入れていたあれの名前を、私は知らなかった。小学校2年生のときだったか、初めてそれを見た私は、草と勘違いして口に入れ、喉に詰まらせたことがある。それから母はそれをお弁当に入れなくなった……のではなく、なんと色を塗るようになった。一つ一つ母が丁寧に墨汁に浸らせてから乾かしたそれはおどろおどろしく、流石に卑しい私にも食べるものには思えなかった。


 変わっていたのではなく、変わっていったのが母だった。母は異常に短く切りそろえた爪を、満足そうに私に見せてくるが、それを見ても私は黙って席を立ち、剛のいなくなった部屋を通り過ぎて自分の部屋へと戻っていく。

剛がいなくなったのは、母の所為ではない。いや、そもそも誰の所為でもない。しかし、誰の所為にもしない分、誰か彼かの無意識な意思が責任となって、水滴のようにばらばらにどこかに集まってしまうのは常だ。


「お姉ちゃん、ちょっと、話そう」
 背中に小さな囁きがぶつかって、消えた。母は、今でも私をこう呼ぶ。振り返って、椅子に腰かけると古びた音が鳴った。


 剛は弱かった。頭も、精神も。しかし身体だけはどんどん大きくなり、力も強くなった。私や母をぼろ雑巾のように扱っては、自分の足りない情緒を懸命に守っていたんだと思う。
「お姉ちゃんさあ、剛のこと大事にしてたよね、いつもかばってた」
「うん。お母さんも、そうだったじゃない。二人で剛を、守っていたのよ。無我夢中で、世間から」
 そうよね、と納得するように腕をまくった。母の手には、爛れた火傷の跡がいくつも残っている。私はそれを見るといつも、世界一嫌なお揃いだ、と思う。自分の首をこするように髪をかき上げると、ざり、と音がした。
そして母は、でもね、と続ける。
「本当は大っ嫌いだった。憎くて憎くて、いっそ、私が殺してやればよかったのにって、思うの」
 私は首をかきむしりながら、振りかぶるような動作をする母の手を必死で掴んだ。そうなの、私もそうなの、お母さん。私たちはやっと言えた気がした。


 剛はいなくなる前に、部屋に「お母さん、お姉さんごめんなさい」と書いたメモを残していった。そんなものではどうにもならないくらいに私たちは傷ついた。嫌だった。くそくらえだった。どうして私たちに頼まなかったのだろう、と思う。どうして。最後の恩返しをしてくれなかったのだろう。そんなことを考えなくてはならなかった。私の意思ではなく、きっと、無意識だった。


 どす黒いバランは、私たちの境目をいつの間にか影に変えて、包み込んでいた。大嫌いなことばかり、整頓されていく。




2015/01/13 お題:どす黒いバラン 制限時間:30分

もっと書きます。