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【小説】綴り糸


私は生まれつき女で、これからもずうっと女でいるのだとわかったとき、空に凧をあげたいと思った。
蝉の形をした凧だ。小さい頃、近くの公園でお祭りがあったときに見たことがある。リアルな蝉の形と、そこに書かれたコミカルな顔がミスマッチで不気味だった。丸くぎょろんとした目で、私は空の上から見下ろされる。だんだん高度があがっていくと、全体像がただの円になり、身を任せて雲の中を流れていく。頃合いを見計らったようにまた見下ろされ、そのまますとん、と草原に墜落する。今度は私がそれを見下ろす。近所のおじさんの、凧を拾おうとする手が見える。その肉厚な手首まで、しっかり凝視する。背中に気配があって、あ、と思い振り返ると律子さんが平らな笑みを浮かべている。そろそろ帰ろう、と私の手を引いた。


律子さんは好かれる女だった。ひとではなく、おんな、と呼ぶのがあっていた。もうすぐ四十に差し掛かるようにも、小学生の息子がいるようにも見えなかった。叔母という肩書きを背負うには律子さんの背中は滑らか過ぎたので、私は律子さんのことを律子さんと呼んだ。月に一度くらい私の家に顔を出した。ももやらびわやら、その季節毎にお土産を持って。丁度良く食べられるくらいのときもあれば、遊びに来ていた私の友達にも分け与えられるようなときもあり、いつであってもそれは適度で正確な按配であった。律子さんは車で一時間程度かかる隣町に住んでいた。私たちの居住地から見て車で半径二、三時間くらいは、町をまたごうと峠をまたごうとあまり景色は代わり映えしない。いつ窓の外を見ても、風景はおろか天気も日の出も日の入りも、全て手抜き映画のカット割りのように揃っている。

「お蕎麦食べてこうか」
律子さんはたまに、私を母に内緒でお店に連れて行った。私のお腹ではなく、律子さんのお腹の具合に合わせて決行されることだったので、私はおやつの時間に蕎麦を食べることになったこともある。そういう日は当然夕飯を残し、母に叱られた。それでも私は律子さんの誘いを断ることができなかった。律子さんに問いかけられると、首を横に振ろうとする反応が抜け落ちたようになって、ただ重力に任せて縦に落とすことしかできなかった。田舎町故に律子さんが選ぶお店は大抵決まっていたが、範囲は広かった。食べるものが先に決まり、その後は私を連れて、ときには雪がぱらつく町を車で走った。スケジュールが不規則な個人が経営するお店ばかりだったが、律子さんが食べたいと向かうときは、いつも開いていた。
同時に、母は外資で働いており出張が多かったので、本当に夕飯としてお店に行くこともあったし、律子さんが家で料理を作ることもあった。私はよく律子さんの煮物と母の煮物の味を比べては、不思議な気持ちになった。母の作る煮物はいつも味が同じだったが、律子さんのは甘かったりしょっぱかったり、ころころ変わった。律子さんは料理に関してはあまり上手ではなかったのだと思うそれでも律子さんが私に料理を振舞ったのは、私が子どもであり、律子さんが私を子ども扱いしたからなのだろう。


梅雨の終わりだったと思う。私は高校二年生で、靴下の色合いとスカートの丈を気にするのをようやく終えて、周りの視線ばかりを見返す時期になっていた。毎時間のようにノートの切れ端が教室の端から端まではずみまわっては、誰かの含み笑いが聞こえた。休み時間になり、決まった一人の机の周りに群がる。誰が集合をかけたわけでもないけれど、そうしないと自分が消えてしまうのだと信じていた。

「今朝、蛙の死体見ちゃってさ、もう、すんごい気持ち悪かった」
アユが二の腕を摩りながら言ったそれに、数人が同調する。
「ひっくり返ってつぶれてんの。手足広げてさ、こうよ、こう」
続けて手を広げ、お腹を天井に向ける真似をすると今度は笑いが起きた。
「なにやってんのお」
「顔芸かよー」
何故か私はそのとき、私も朝に多分同じものをみたということが言い出せないでいた。それには理由があった気もしたし、理由などないような気もした。

朝、律子さんと一緒にそれを見た。母が出張で何日か留守にしていて、律子さんがご飯を作りに前の日の夜から家に泊まっていた。朝ご飯は昨日の夕飯の残りの煮物とかぶの漬物だった。父は新聞に目を落としながら黙ってそれを食んでいる。父は下まつげが長かったので、その様は駱駝を思わせた。私はふと、子どもの頃からこういう日があった、と思った。それまでは思いすらしなかったことだった。律子さんがいて、母がいなくて、父が俯いている朝が何度かあったのだ、と私は口に出さずに言ってみた。父が先に食べ終え、食器も片付けずに出て行く。私はかぶを噛み締めながら、あったんだよ、とさらに声に出さずに続けてみた。ブレザーのジャケットを羽織る私を見送ろうと律子さんが外に出て、かえる、と囁いた。夏の始まりを予感させる照り付けで、アスファルトがまぶしかった。乾ききった体はアユの言ったように手足を広げて、だらしない腹を空に見せびらかすようにしていた。玄関から出ようとする私は律子さんのうなじを見た。いってきます、と蛙を見下ろし、そして正面から律子さんを見た。その顔には哀れみと不快に隠れるように、静かな興奮が浮かんでいるように思えた。

その次の年の梅雨明け、父は膵臓を悪くして亡くなった。
死んだ父の顔は色合いも含めて茄子によく似ていた。見舞いに行く度病室に漂っていた甘酸っぱい臭いは、父が息を引き取ると同時に消えた。人が消えるとはそういうことなのだ、と私はそのとき理解したのかもしれない。蛙の死体と人の死体は全く違うけれど、決して似ていなくはなかった。葬式に真っ白な顔で参列した律子さんが、そこに水平線があるかのように遠い目をしていた。私はその日、律子さんばかりを見ていたからなのか、母がどんな表情をしていたのか、さっぱり思い出すことができない。
「でさあ、夏実、シたんでしょ」
蛙の話はいつの間にか終わっていて、目を行進中の芋虫のような形にしたアユが私の肩を小突く。
「夏実もついにソツギョーしたわけだ!」
「ていうか早くない? あれ、でも付き合い始めたの一学期のしょっぱなだっけ。じゃフツーか」
さらに二人に肩を小突かれながら、どうしてアユが私のそれを知っているのだろう、と思ったが、アユは野球部のマネージャーで、「部員とはオトコトモダチみたいに仲良いんだー」と得意気にしていたのを思い出した。それはどうやら教室で仲良く振舞っているその様のみ(所謂表面上で見せびらかす)、というだけではなかったようだ。アユのその態度は、女子の中では散々に言われていることを知っている。

今日はミーティングのみだから早く終わると言われ、野球部の部室前で待っていた。土臭いグラウンドを横目に小さく口笛を吹きだしている自分に驚いた。何故愛おしいかすらわからないのに、この愛おしい時間を抱きしめてあげたいと思っているから口笛を吹いているのだった。香具山くんが部室から出てくるのを見て、私は口をすぼめるのを止める。そのまま自然に繋がった左手の温もりが早めの夏を感じさせていた。
初めて入った香具山くんの部屋は、電気が点いていても白く濁っていて薄暗く感じた。入って左に私の家にもあるような勉強机があって、上に置かれているノート・教科書類は教室でも見たことがあった。ハンガーにかかっているシャツの代えも、床に転がるサブバッグも。ここは香具山くんの生活している場所なのだ、と物が主張しているようだった。
だんだんと日が暮れてきて、香具山くんが何も言わずに部屋の電気を消した。何も言わなくてもわかる関係性になるには私たちは早いような気がしていた。笑い話が尽きない方が似合う。しかし同時に、そんな私たちが無言を貫いている今こそが特別なことのようにも思えていて、兎にも角にも私はきっと、ジェットコースターに並んでいるときのような高揚感を覚えていた。行為は大体は思い描いていたように進み(時折予定通りとはいかないこともあったが)、ようやく事が済んだ後には私たちはへとへとになっていた。私はただ肌を寄せ合い、しばらく黙ったままでいたかった。しかし香具山君はむくりと立ち上がった。流石運動部は体力がある。そして私に背を向けて、パンツとジーパンをいそいそと履きだした。ベッドの上にある私の視界では、香具山くんの日焼けしていないお尻がごそごそと揺れていた。私が続けて立ち上がったのに気付いて、香具山くんは驚いたように振り向いた。その坊主頭と鷹のような目つきがたまらなく好きだったはずなのに、私は香具山くんの上半身すら見ることができなくて、トイレ、とだけ告げて下へ降りた。腰には違和感があったが、足だけはしっかりと階段を踏みしめられた。
便座に腰をかけて、香具山くんとの行為を振り返ってみたはずなのに、白いお尻ばかりが思い起こされた。
腰を動かす香具山くん、の前で足を開く私から見上げていたはずの顔や、たくましい肩・胸。そういった類のものは全て薄ぼんやりとしていて、はっきりと浮かび上がるのは香具山くんのお尻、とそれに連なるようにある四つんばいの脚だ。私はあのとき幽体離脱とかをしていて、意識だけは香具山くんの後ろにまわっていたのかもしれない。そして見上げていたのかもしれない。白を背に、糸ミミズのような毛だけがもじゃりと固まって生えているあのお尻を。


「私なら、可愛いなあって思うけどな」
香具山くんのお尻の話は、律子さんにだけ話してしまった。お尻のことばかり考えてしまうようになってしまったこと。結局あの一度以来香具山くんとは何もしていないどころか、会話自体少なくなってしまったこと。
「かわいい?」
「うん。そんな情けない姿見せてくれてさ」
心なしか、いつもよりも言葉の端のイントネーションが鋭い。
「第一、不公平じゃない。女がひいひい言いながら、股広げてるところなんて、お尻なんかよりよっぽど醜いと思うよ。最終的には男の残し物を受け取って、女は育てるわけだから。器はおとなしくしてればいいの」
そのとき私は律子さんの余裕を持った笑みと口調に、少しだけ寒気がした。私は子ども過ぎるのかもしれない、と同時に、私は器になる器があるのだろうか? と思った。そして律子さんは女であると同時に、男のような気がしていた。女は女であればあるほど、男に近付くのかもしれなかった。


律子さんが亡くなったという知らせが来たとき、私はクッキーを焼いていた。普段なら煮物くらいにしか使わない砂糖をたっぷりとボウルにふるい落としているとき、自分がまるで少女であるような心地がした。オーブンからたちこめる甘ったるい空気が狭い台所を覆う。私はハートのクッキー型と律子さんの止まってしまった心臓を重ね合わせていた。
「明日、実家帰ることになったから」
久は寝転がりながら開いていた雑誌から目線をずらして、私の声をきっかけにするように唸りながら起き上がった。ソファに沈み込む腰がぽきりと軽い音を鳴らす。
「日曜まで?」
「かもしれないけど、決めてない。どうする?」
うちにいる? 家に帰る? 問われた久は少し考える振りをしてから、わからん、と言う。その声が欠伸で掠れて甘えたように響いたので、二人で顔を見合わせて笑う。今の今までくつろいでいた人間が、突然明日以降の自分の居場所を決めるのは難しい。合鍵も渡しているので、まあ好きにして、とだけ私は添えて、荷造りを始める。久は再び雑誌に目を落として、うまそう、と呟く。


「痩せたんじゃないの、あんた」
「ちょっと仕事が忙しくて」
「晩はちゃんと食べてるの。前送った漬物は?」
「炊飯器壊れちゃってるから」
私の融通のないレスポンスに対し、小さく「もう」、と牛のように呻く。数ヶ月ぶりに会った母は眉間の皺が濃くなったように見える。染めたばかりの黒髪と使い古された喪服の黒のアンバランスが、死の哀しさを身体で表現しているように思えた。

「律子さんに、いつから会ってないんだっけなあ」
「母さんもあんたと同じくらい会ってないと思うよ。あんたが家出てから、来なくなったから。ほら、あっちはあっちで武明ちゃんが色々あったでしょう」

私が大学生になった頃、律子さんのところの武明が学校に行かなくなりだした。原因はあまり知らないが、原因をあまり知らなくても納得がいくのは、律子さんのことを私が知っているからだった。今だからわかるが、あの人は叔母でもなければ主婦でもなく、家族という垣根の中に閉じこもっていない人に思えたのだ。律子さんの生活に「安心感」や「日常」といったパーツはうまく嵌らなくて、その分生まれたぼこぼこの穴に、武明は自身を連れ込んだのだ。
律子さんが私の日常から消えた途端にそんなことを考えるようになっていた。大学生活と社会人生活を経て、私は律子さんの不可解さを思い起こすことが増えていった。

「家で寝てるときに急変したって、大変だったね」一息吐くだけで、空気が白くなる。
「りっこちゃんもねえ、そんな、病院通い出した時点で、一言あってもいいじゃないねえ」

母は律子さんのことを「りっこちゃん」と呼んだ。母が律子さんより三つ年下であることよりも、母が律子さんの妹だという事実の方がいつになっても飲み込めなかった。
母がいつか、電話口で律子さんのことを話しているのを聞いたことがある。相手は恐らく、母のもう一人の姉の和江叔母さんだった。

「りっこちゃんと話していると、自分がいやんなるの。なんでなのかはよくわからないん
だけど、ほんと、いやなのよ。真面目に生きてることが、馬鹿みたいに思えてきて」

母のうなじを見つめながら、私はそっとその場を離れた。飲み込み難い塊を無理やり押し詰め込まれるような、まるで母に陰口を言われたような心地だった。
後にも先にも、母が律子さんの話を苦しげにするのを聞いたのはそれが最後だった。しかし私の想像でなら、それから何度もしてみた。母が気分の悪そうに発音する「りっこちゃん」。それは悪口でも陰口でもなく、ただただ嘆くような響きだ。爆発的な感染力のあるウイルスが、明日には自分の身体を蝕んでしまうことを知っているが、それを知っているからといってどうにもならないのと同じような。


受付で「久しぶりだね」と声をかけられる。和臣さんの顔をすっかり忘れてしまっていたので、返事をするのに少し間があいてしまった。目尻のカラスの足跡と瞼にできた隈はどちらも濃い。しかし和臣さんは一家の大黒柱ではなく律子さんの手に持つための木刀のような人で、元々やつれていた気もした。
「律子、夏実ちゃんのこと最近も気にかけていたから。来てくれてありがとう」
「私のことを?」
「うん。僕にとってもだけど、律子にとって夏実ちゃんは高校生で止まっていたみたいだから、どんな大人になっているかなあって、よくドラマを見ながら言ってたよ。あの、ほらあれ見ながら。月曜にやってる、OLの恋愛物の」


焼香をしながら、私は薄く潤んだ目を拭った。私は律子さんに会いたかったんだろうか。私の中の律子さんと今の律子さんは違うだろうか。違ったら、もしくは違わなかったらどうなんだ、と思うとまたよくわからなくなった。覗き込んだ棺の中には、普段の律子さんより何倍も化粧の濃い人形が花の中で泳ぐように転がっていた。
母の言葉を思い出すわけではないが、武明の姿が見えないのが気になった。引きこもるようになったこと。高校に行く頃には回復していたこと。しかしその高校は中退したこと。今は地元で土木作業をしていること。無邪気に微笑んでいた武明の顔しか知らない私は、そんな年表に貼り付けるような事実しか知らない。葬儀の後、辺りをきょろきょろ見渡したが、武明はやっぱりいない。家の鍵をなくしてしまったかのように血の気が引いて、私は武明を探した。前も後ろも、黒の装束がうごめいている。負けの決まったオセロでも、私はマスを埋めてみたかった。濡れ縁を歩いて、角のトイレの方を見やってはまた向き直り、少しサイズが小さめのローヒールのパンプスにつま先を突っ込んだ。

境内の砂利道を抜けたところの木の影に、武明はいた。俯いて唇を噛み締め、嗚咽を押し殺すように泣いていた。時折アザラシが床を這うときのような低い声がちょっとだけ漏れた。殆どうなじしか見えないが、それでもわかる。武明は律子さんにちっとも似ていない。
武明のうなじをみていると、律子さんは母親にはなれなかったのだとわかった。
無垢な顔で、私の袖を引っ張っていた武明の姿を思い起こす。もじもじと顔を赤らめて、知らない人が近くに寄るとこそっと陰に隠れた。

帰り支度途中の立ち話で、自宅療養を宣告されてから、律子さんは最期の晩までほぼ家に帰らなかったのだと聞いた。昔読んだ児童書に、自分の星に帰らなくてはいけなくなった宇宙人が、それまで彼を人間だと思い込んでいたクラスメイトたちの枕元にたち、お別れの挨拶をするというのがあったのを思い出した。私は律子さんのことを知っていたし、知らないので、ただ妄想だけを風船のように膨らませては空へと飛ばしていった。


「ねえ、お母さん」
律子さんの葬式の帰り際、母は返事をする代わりに振り返り、同時に腰を軽く摩った。
「最近私ね、クッキー焼いたのよ」
「あんたが?」
「そうなの。バターと小麦粉と蜂蜜だけで作れるってレシピ、テレビで見て」
「珍しい。だけどさあ、炊飯器買いなさいよ。早く」
母はまた牛の真似をして向き直った。朝のみぞれが少し固まったのか、帰路には埃のような雪が散っている。私は母に紹介しなくてはいけない相手がいることを言えないでいた。アトピーのようにむずがゆい自分の身体をかきむしりながら、私は風船ではなく凧をあげたいと思った。凧が見たいのではなく、凧の漂う空が見たいのだ。律子さんは雲だった。私は凧糸なのかもしれなかった。蝉凧に見下ろされて、見上げて、引っ張られるのはあまり悪い人生ではないような気がしていた。もうすぐ誕生日がやってきて、私はまた歳を取る。早く器を作りきらなくてはいけない、と思うようになってきた。香具山くんと初めて身体を合わせたとき、クラスメイトは私に「卒業」と言ったけれど、あの頃の私たちにとってそういうことは、卒業するもので、入学するものではなかった。律子さんの鋭い目が、境界線を引くように私を見ていた。私はいつからか律子さんの線を越えたつもりになったが、律子さんはまた別の線をこしらえて、ついには自分を四角形の中に閉じ込めてしまった。父の葬式も律子さんの葬式も、なんだかとっても早すぎた。父や律子さんが早いのではない。私が遅いから早く感じてしまうのだ。もし私が律子さんと同じ歳になった頃には……と想像しようとするが、それこそ見えなくなってしまった凧のように、宙に浮いた話のように思えた。



2016.02.05









もっと書きます。