【小説】ある夜 いる夜

 暑い朝に思い起こすのは寒い夜のことだ。正確には思い起こせているわけではなく、脳内だけでもどうにか、温度を下げたくて、無理矢理引き出しをあけて引っ張りだしているのに近い。

 家から最寄り駅までは徒歩八分。朝の準備に使う八分は非常に短い。しかし、セミの鳴き声にうなされながら、少々きつい坂道をのぼり、住宅街の中、日陰のない道を歩くのに、八分はあまりにも長すぎる。最寄り駅の改札を通り抜ける頃にはシャツはじわりと染みてきている頃で、電車の冷房でなんとか我に返る。会社にたどりつくまでの間が地獄Aなら、会社についてからの地獄はB。生まれてから何度か探してみたものの、人生に地獄はあれど天国はない。

「おい、これ」と書類を渡した上司は、そのままの足取りで詳しい説明を何もせず去ってしまった。上司と接していると、自分が新妻になった気持ちになる。新婚生活というのを想像しても、やっぱり地獄だ。生きていると、地獄の種類ばかりが増えて、選び放題になっていく。しかし正しくは、選び放題ではなくて、全部選ばされる、お涙頂戴お得なセットコースだ。

 天国はなくて地獄はいっぱいあるのが人生であり現世だけれど、現世に天国がある人もいるのだろう、多分。帰りの電車で前に立つカップルが、小指を絡めているのを見て思わず自分の鞄を抱きしめてしまった経験がある。天国と地獄は隣り合わせで、選択科目のように選ばれるのを待っているのかもしれない。天国を選ぶ権利を持っていないし、地獄を選ぶ義務がある俺には、もう「関係ない」としか思えなかったけれど。

 熱帯夜にうなされて、何度も起きてしまう。アプリの更新通知で光ったスマホ画面を見やると、午前二時を過ぎていた。欠伸と伸びをしながらトイレに立ち、寝室のドアを開ける。途端、エアコンの最低温度を超えるような冷気が襲い、瞬きをしたと思うと、目の前に女が立っていた。

 あっと悲鳴をあげる前に、俺はへなへなと床に座り込んだ。寒い。冷たい。部屋の中がまるで冷凍庫になってしまったようだ。女が髪を軽くかきあげながら「ああ、あの、」と話しかけてくる。
 あの、ってなんだ。でも、あの、以外にあるか。いや、でも、と考えていると、女が「暑いかと思って」と続けた。

「暑い、あつ……暑かった、ですね」噛みながらも、震える声で続けた。
「暑いですよね」
「暑かったです、さっきまでは。でも今は、寒くて仕方ない」
「そうですか」

「……あの、もう少し、暖かくできませんか」
「わかりました。少し時間をください」

 そう言うと女は、目を閉じて祈るように手を組んだ。蛇口から氷柱が生えてしまいそうな、冷凍庫のようだった室内はだんだんと冷蔵庫に近づいていく。始めの冷気ですっかり麻痺していたが、外は熱帯夜だ。ちょうど良いと感じるところで制止する。そして、ようやく落ち着いてきた私は不満をもらした。

「あの、何度も言ってると思うんですけど」
「ええ」
「夜中に私の部屋の前に立つのはやめてください」
「ああ、すみません、えっと、そろそろ起きる頃かなって……」
「たしかに起きましたけど、トイレに行く度に腰を抜かしかけます」

 ああ、すみません。女は言葉の始めに「ああ」と言う癖がある。「あっ」ではなく、少し含みを持たせた「ああ」だ。初めてこの家に来たときから、ずっと。

「暑いし寒いしで、風邪引いたらどうすんですか、俺の会社、なかなか休ませてもらえないんですよ」
「ああ、だから、私を部屋に入れてくれれば毎日丁度よく、夜起きることもないように涼しくしますので」
「いやだからね、付き合ってない女の人と一緒の部屋で寝るなんて、嫌なんですってば」
「私のこと、女だと思うからいけないんです……」

 ああ、また。このままでは終わらないラリーを強制的に終えることにして、私はトイレに立った。毎日同じような会話をしている気がする。実家から、女が速達の宅配便で送られてきたあの日から。


「私のことは、女じゃなくて冷房器具だと思ってくれないと」
「いや、だからね、私の倫理観ではそれは難しいんですよ」


 そのときも同じような会話をした。地獄Aと地獄B、後は、縁の無い天国を眺めるだけでも疲れるのに、こういうよくわからない事象が隣り合わせにあると、この世を呪いたくなって困る。説明書と女を交互に見やりながら、ため息を吐く。

 そろそろ暑いから、冷房のない部屋は辛いでしょう。それにあんたどうせ恋人いないんだから……母はそう言って、女を送りつけた。たまたま売っている家電が最近よく人間の形をしているし喋るというだけで、母にとっては女は女ではなく、たしかに冷房なのかもしれなかった。
 ヒューマンとマシンとシングでヒューマシング計画。人体物質化実験。今や小学校の教科書にも載っている教養だし、ロボットもAIも飛び越えて、今では家電も家具もなんだって、人間の形をしていることが珍しくないのはわかっている。生まれたときからそうだったなら、おかしいとは思わないのかもしれない。しかし、一般化したのは十年くらい前の、私が中学生の頃だ。物心もとっくに付いた人間に、人だけど人じゃない存在が世の中に普及していくから、人として扱わないでほしい、というのは無理ではないだろうか。思考が凝り固まってる、とは小さい頃からよく言われてきた。しかし、よく喋るし、会話もそこそこできるものを、人間ではなくモノだと割り切る術がよくわからないのだ。十年以上経っても、未だに。

「冷房だと思うのは難しいので、雪女だと思ってもいいですか」
「ああ、構いませんよ。私は冷房ですけどね」
「わかりましたわかりました」

 女のいない部屋はたしかに暑かった。気が狂いそうになるほどに。温暖化がどうこう、というのは私が生まれてから毎日毎年、誰かしらが言い続けているが、実際にどのくらい温暖化の影響があるのかはわからない。調べれば数字として目の前にあらわれるのだろう。それでも今のところ私は熱中症になったことがないから、現実味がないのが本音だ。現実味がないのは隣の部屋にいる女もそうで、あの女を送った母親も含めて、全てがフィクションなのではないかと思うときがある。もちろん、私の人生全体も。


 母は私に恋人はいないから、と言ったが、恋人のような女はいなくはなかった。ヒビコとは、大学時代からの仲で、たまに飲みに行く。そして仕事や政治の愚痴だけを言い合って帰る。
 後、たまに家に転がり込んで、隣同士で寝る。私はこれを「恋人のような」ものだと考えては、その度に、ヒビコと直前までしていたジェンダーだの、恋愛ってなんだクソくらえだの、結婚の価値だの、そんな話を思い返して「恋人のよう」とはなんだろう、と首を捻る。それを繰り返しているうちに朝が来ていて、ヒビコと私の関係が測れないまま、また飲みに行く。

 ヒビコは、大抵いつも怒っていた。夫婦別姓がいつまで経っても認められない世の中に「これ以上生きにくい世の中になる前に、死んだ方がもしかしてマシなんじゃないかなって思うときある」と怒り、キャッシュレス決済の不便な点をつらつら並べつつ、「時代に取り残されてるっていうけどさ、進む時代がないじゃない」と悪態を吐いた。

 その日も、お互いひどく酔っていた。割りものを拒み続けていたら、ついに見かねたのか、バーのマスターが水の入った特大ジョッキを強制的に目の前に置いた。ジョッキというよりはまるで水槽のようなそれに指を入れて、水面を揺らしてみた。口を付け、溺れるように飲んだ。

「あ、そういやうちの掃除機、壊れたんだった」
 ヒビコがため息を漏らして携帯を取り出したのと、操作中の画面に私の目が釘付けになったのはほぼ同時だった。酔っているから視界はふらついていたが、ぼやけてはいなかった。ヒビコの携帯には大手家電ネットショッピングのウェブサイトが表示されており、スクロールする度にポーズを決めた男女が横に並んでいるのが見えた。

 人型掃除機だ。
 単語を脳で思い浮かべた瞬間、酔いが急に覚めると同時に、吐き気がこみ上げる。掃除機。ゴミを吸う機械だ。人が? どんな風に? 壊れた? どんな風に? ヒビコの家にはこれが? そして、新しく買おうとしている? 思考が自転していく。こみ上げるものをなんとか耐え、私は声を掠れさせながら冷静を装った。

「掃除機」単語を検索するように、呟く。
「うん。といっても、サブの方ね。隙間のほこりとか用。メインの方はまだ大丈夫」
 サブ。メイン。私の目線が上下する。後ついでに窓掃除の……と指を折るヒビコに耐えかね、愛想笑いとしか思えないような愛想笑いをした。

「そうなんだ、ヒビコの家に、そんなにいるんだ……」
「うん。あるよ。君ん家は何があるの?」

 ヒビコの口が鼻歌をうたうように綺麗に開閉したのを見て、私は頭をカナヅチで殴られたような気分になった。私はヒビコに会う度に、女の話をするか迷っては、口をつぐんだ。しかし、それが取り越し苦労だったことを知ってしまった。


 夜、今日は私の部屋で一緒に寝てください、と言った。女は、今まであんなに拒絶していたのにとか、どういう風の吹き回しでしょうとか、そういう言葉は一つも発さずに、わかりました、と頷いた。私はそのあっけなさが、良いのか悪いのか、さっぱりわからない、などと思っていた。それは当然私にとって良いか悪いかがわからない、という話で、女にとってではなかったので、私は女を女として見ていない、母親と何も変わらないんじゃないか、と考えた。そんな私の葛藤を知る由もなく、女は部屋に入ってきた。
 シングルの布団は当然、二人で寝転がるには狭いが、女は気にしないようだった。狭いからこそ身体は密着する。女の身体は驚くほど冷たい。できるだけ、触れないようにしようとすると、ああ、やっぱり立っていましょうか、と女が提案した。
「私は冷房なので、立っている方が自然ではないですか」
「いや、でも、立っている人がいる部屋で寝るのはちょっと不自然なので」

 そう言い繕いながら、私は女を消費しようとしている、と思った。それを女に問われないようにしたが、やはり問われることはなかった。先ほどまで熱がこもりきっていた部屋はすっかり涼しくなる。女と向かい合うのが気まずくなった私が上半身だけ起き上がると、女も同じようにした。隣の女は、やはり「ある」のではなく、「いる」ように思えた。

 涼しくなった自室でテレビを付けてみると、暑い中ではあんなに活発だった女との口論は簡単に途絶えたことに気づいた。テレビ画面には『速報』とテロップが流れて、隣の県の化学工場から、有毒性物質が五十キロ紛失してしまった、とニュースキャスターが早口で言った。私は女に、こわいですね、と言う。女は私に、そうですね、と相づちをうち、でも、きっと何事もなく明日は来ますから、安心してください、と言った。
 こんなにも部屋は涼しくなったのに、明日の通勤路はまたとんでもなく暑いのだろう、と想像すると嫌気がした。隣り合わせかもしれない地獄も天国も、雪女と暑い夜に寝ることも、全部が全部溶けたジェラートのように混ざり合っている。明日の私は暑い朝に、この冷たい身体のことを思って、近くのカップルの天国を見やって、地獄を渡って、地獄に行く。あの、と声に出す。

「あなたは冬になったら、温かくなったりしないんですか」
「無理ですね、私はあくまでも冷房なので、冷房機能しかありません。冷暖房完備のモデルか、暖房モデルが別にないと……」

 女の語尾が布団にこもって、少し悲しみをまとったように聞こえた。しかしそれは、私の人間性が聴覚に都合の良い意味を持たせただけだ。ああ、と女は口を開いて、よろしければカタログを取り寄せましょうか、と続けるので、私は眠ったふりをした。感情が動かないように身体を丸めると、私の指先が女の腕に触れ、やはり驚くほど冷たかったが、冷たくないふりをした。冬になれば、雪が降る。雪女には冬が似合うし、冷たい夜が似合う。女が本当の雪女になるは何が足りないのだろうか。もしくは、人になるには……。また思考を巡らせているうちに、自分が一人だと気づく。だんだんと自分の体温が、室温が、わからなくなる。ふりをすることばかりが、得意になっていく。女はああ、と言ってまた黙った。私はいつも女のああ、の次に続く言葉を待っている気がした。



2020.02.04 お題 池田澄子『さむいさむいと夜が好き雪が好き』

※狙ったわけではないのですが、過去に書いたこれと世界設定が同じになりました。こちらもよろしければ。

もっと書きます。