【引きこもり「問題」の根深さと支援の限界について考えてみた】

引きこもりのドキュメントを見た。

助けを求めることの恥ずかしさは、人に助けを求めることに慣れることは人に迷惑をかけ、疎まれることを経験的に知っていたり、助けられる資格がないという引け目、親からのプレッシャー、自らの力だけで生きていくことの「当たり前さ」など理由はたくさんあるのかもしれない。

何が他人に迷惑をかけるかということ、助けを求めるとはどういうことかということ、どういう状態になったらどこに助けを求めても良いかということ。


助けを求めても良い、というのは本人や家族にとって一種の救いだと思う。


自分たちの力で生きていくのに限界が来たとしても、かたくなに支援を受けようとしないのは「支援を受けたら負けだ」という気持ちがある場合もあるのかもしれない。
それは恥ではない、と伝えるのは支援側からしたら口にするのは導入の段階で必要だと思う。
だけど、当事者たちが支援を受けることは恥だ、と感じさせてしまう家庭、教育の現場、就労の場など。
人生の落とし穴はとてもたくさんある。

家庭、学校、職場。
これらが閉鎖的であって、絶対的で強制的な性質をもってしまっている以上、支援を受けることは恥である、という固定観念を取っ払うことは想像を絶する難しさがあると思う。

嫌だったら逃げても良い、という言葉は命の危険や自分の精神が脅かされる状態であれば積極的に使う「べき」だと思う。
だけど、逃げた後の居場所がないと、ただただ選択肢とその人の視野を狭めてしまう。
職場から逃げる、学校から逃げる、家から逃げる、病院から逃げる。残されるのは自分から逃げる。そこまで行ったら残されてるのは戻ることもできない崖っぷち。眼下に広がる断崖絶壁。


自分は生きていても価値がない。

お前は生きていても価値がない。


何かで関係が崩れようとも受け入れてくれる場所や人があるかどうか。
ここがダメだったらここがあるという自分の生活圏内の中に選択できるぐらいの居場所の数があるかどうか。

来るもの拒まず、去るもの追わずではこの問題の解決は無理だと感じる。

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