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「議論」がつくる未来の関係性

遅ればせながら、先週の #Nサロン未来会議 に参加した話です。

未来会議ゼミ参加者の多くが食いついたワード
「コンフォートゾーン」

このキーワードで過去にブログを書いていたことがあるのですが
これこれ
今回「コンフォートゾーン」を中心として「議論」をした中で
改めて感じたことがありました。

それは全ての人が「視点」も「安全感」も違う、ということです。

「コンフォートゾーン」というのは自分が安心安全で慣れ親しんだ範囲のことで
それは場所だけでなく考え視点行動などあらゆる習慣を指します。
自分の部屋、慣れ親しんだ味、得意な考え方、「いつもの」やり方、しっくりくる言葉、etc..

そこから出て習慣を離脱することで、新しい経験・体験を得ることができる
つまりそれは「ラーニングゾーン」です。
そこに行くためには、行ってOK☆とできる心身の安全性確保が必要です。

我々は動物なので、そもそも身の危険100%の場所に好き好んで出ていくようには設計されていません。
窮鼠猫を噛むことはあり得るけど、基本的にはわざわざ飛んで火に入るような真似はできないよう脳にインプットされています。
(なぜなら生き延びねばならないから)

安全な可能性があるから、もしくはそこに飛び出して得るものが大きいと見積もる理由があるから、
縄張りを広げていくわけですね。

ところで、コンフォートゾーンについて議論する中で
ラーニングゾーンで何かを得たいと思わない人をどうしたら引っ張り出せるか?というような話が何度か出てきました。

進歩したい、新しい経験をしたい、今までと違うものを得たい、
そういう考えが見えてこなくて、例えお膳立てして安全にしてあげても出てくることを拒否する人をどうしたらいいのか。

ここでちょっと思うところがありました。

それ、その人には安全じゃないんじゃない??

#Nサロン に来る人は、ある度合でコンフォートゾーンを出やすい人の集まりだと思います。
そこそこの金額を払って初めて企画されるゼミに切り込んでいくには、それなりの興味と勇気が必要かも。
なのだけど、それゆえに「『我々』はコンフォートゾーンを出れる人間だ」と定義するには視点が不足しているのではないかしら?

少なくともNサロンは社会的信用度抜群の日経新聞社と、今最も勢いのあるサービスのひとつである #note
ダブルネームで運営されていることが事前に分かっています。
費用対効果の面ではかなり安全性が保障されているし、例えばゼミに参加したら起業しなさい!てき無茶ぶりもない。
ということは、ひょっとすると参加者の中でNサロンがコンフォートゾーンの範疇内である人も多いのかも?
ひょっとして、属性や考え方によっては
Nサロンは習い事の延長、と考えている人もいるでしょう。
その場合は参加するだけならコンフォートである時間が長いはずですね。

新しいコミュニティに参加することがめちゃくちゃデンジャラスに感じられる人もいれば、
そうでない人ももちろんいます。
でも、死ぬこと以外あまりこわいものがないとおっしゃる方でも
習慣的に使う言い回しに一切のNGが出たらけっこう居心地が悪くなるんじゃないかなーと、思うんです。
新しい事業を始めることは簡単な人でも、
いつもと違う歩き方をしてみよう!には、気乗りしないかもしれない。

コンフォートゾーンの方向性も見え方も、みんな、違うんです。
私が簡単にやってのける仕事や楽しく立てた企画は
他の誰かには難しいものだったり、違うやり方の方がより良いと思えるかもしれないですよね。
世界最先端のビジネスをしている人の小さな一歩は
私が今の環境の中で清水の舞台から飛び降りるよりも大きい変化かもしれないですし。

「議論」が面白いのは、安全性を前提に、想像力をどれだけ働かせられるか
その間ずっと、自分に問い続けられるからだと思いました。
相手を否定し、揚げ足をとり、打ち負かすのが議論ではなく
視点を集め、摺合せ、刺激をもとに新しいアイディアが出てくるもの

「議論」の先には、豊かな関係性があるだろうなと、感じました。
未来会議では皆さん(参加者各人)の未来をつくると黒田さんがおっしゃっていましたが
その土台に「議論」があるというのは、当然の話でもあり、でも私にはちょっと新鮮な話でも、ありました(にっこり)

読んでくださりありがとうございます☆サポートで美味しいコーヒーショップのミルクティを飲んで、またよい記事が書けるようにお勉強します!