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「マディソン郡の橋」に思う

ハンドメイドの製作の傍らで観ていたはずなのに、私はいつの間にか涙を流し目を真っ赤に腫らしていた。
映画はミステリーが好きだけれど、同じぐらい愛をテーマにした作品も好きだ。
「マディソン郡の橋」はまさに愛の物語だった。
でも同時に大号泣した頭で考えていたのは、この物語は家族の重さについてを良くも悪くも描いているのだろうと思った。
そこまで考えられたのは、きっと2日にわたって映画を観ていたからかもしれない。
愛の裏にあるものを考える時間が少しばかりあったからこそ、大号泣しながらそんなことを思えたのだろう。
ということで、「マディソン郡の橋」には愛だけでなく家族の重さについても描かれている気がした。
私は今独り身とはいえ、家には5人の家族がいるし、つい最近までは6人いたりした。
私と妹が最年少。そんな2人もアラサーを迎えている。
家族が多いのはいいことだと思う。
賑やかで。何かあった時に頼りになるからだ。
でも私は時々、そんな中でも家族という集合体を悪意なく"重い"と感じてしまうことがある。
例えるなら自身の体に鉛の重りを3つも4つも付けている感じ。あとは背中からずっしりと重たい鞄を背負っているような、身動きができない感じ。
例えば。
もし私が一人で暮らしているのだとしたら。
私が私のことだけ考えていればよくて、ご飯の準備も適当でよくて、フットワーク軽く何処へでも行ける。帰る時間を気にすることもなければ、急かされることもない。
もし私が一人で暮らしているのだとしたら。
そう時々夜ご飯の買い物をしに自転車をこいでいる時に思う。
家、家族、そこに根が生えたみたいに大木にでもなったような気がする。
もしかしたらフランチェスカも、そんな家族という重さを心のどこかで感じていたのかもしれない。
ロバートと出会い、序盤にロバートが家の扉を閉める何気ないシーン。
扉の閉め方が静かな音を聞いて「いい人……」と呟くフランチェスカの心には、日々扉をばたんばたん開け閉めする家族の姿が浮かんでいたのだろうし、それがふっと消えていく瞬間を体験したのだと思う。
ロバートとの4日間のやり取りは正に家族という"重さ"からの解放だったのだろう。
家族が嫌いだからではない。
現にフランチェスカが選んだのはロバートではなかったわけだから。
家族という重さをいきなり投げ捨てることはできない。
ただその重さをこれからの人生抱えて生きていくために、フランチェスカはロバートとの愛を胸に、思い出に浸り、ロバートを想っては家族の重さから解放されていたのではないだろうか。
家族は良くも悪くも重い。
でもフランチェスカにとって、その重さに耐えることはロバートへの愛の証だったのだろうと、涙目で視界の悪い中ハンドメイドをしながら思ったりした。

雨の中で最後の別れ?の時、車が前後になってロバートがバックミラーにフランチェスカのペンダントを掛けた時なんていう演出なんだと思ったし、その後別れ道でロバートの車から旦那の横顔へのカメラの誘導がこれまたなんとも……夢から現実へって感じでうわぁ……となった。

また少し大人になったら、観たい映画です。











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