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omoutoiukoto

想うこという事。それは僕らがずっと信じている事。世間では恋と言ったり、愛と言うらしい。その気持ちは時間と共に消えてしまうらしい。とても脆く、刺激的で、恋しくて、簡単には手に入らない感情らしい。海は当たり前に広くて、太陽は明るいに決まっていて、それと同じように、僕らは人を愛せるに決まっていて、想えるに決まっている。当たり前に食事をして、睡眠をして、世間的な当たり前と言えば、学校に行ったり働いたり。川が流れたり、犬が鳴いたり、誰かを想うという気持ちはそんな当たり前に溶け込んでいるらしい。この火照ったコンクリートの下にも染み込んでいる。いつも寝るベットにも。音楽にも、文章にも溶け込むのが人の「想う」という気持ちだ。こんなふうに当たり前に存在している。ところで今日は誰を想ったのだろうか。

私はあの子が好きで、僕はアイツが好きで。あの子が大事で、君と結ばれたくて。そんな想うということは、願う事によく似ている。願うという行為には毎度嫌気がさす。自分勝手に生きといて、自分勝手に祈って神様に手を合わせる。神が人を作ったのか。人が神を作ったのか。僕は後者だと思う。人がまた、お得意の自分勝手で作り出したのだろう。お賽銭もお金を稼ぐ為の悪徳商法だ。僕はお金を入れたことがない。手も合わせない。神様はいないから。お金を入れて手を合わせるだけで、僕の今までの行いだとかが許されるわけが無い。僕は神様には祈らない。だから僕は、誰かを想う時、愚かだなとか、苦しいとか、良くないなとか、たまにそんな事を思う。どこかで願うと想うは違う事とはわかっている。それなのに僕は何処かで迷っている。神様はいない。想うことはダメな事なのか。願うとか祈るとかと似ている気がして、人の愚かさが露呈しているようで自己嫌悪に陥る。それでも人間の僕は、明日も誰かを想うだろう。何かを願うだろう。同時に、産まれたことを憎むだろう。僕は明日の結末がいつもいつも手に取るように分かる。だから僕は明日も苦しい。脳に循環しているのがまるで鉛のよう、酸素に形があるように、刺があるように、そんな風に感じる僕の明日は願っても祈っても来る。

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