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Equinox 花は誰がため。

秋分の候とは想えないほど暑い9月終盤でしたね、、
お彼岸も過ぎ行きました。

今夜は中秋の名月、そして満月。重なるのはめずらしいそうですが
この2つが次に重なるのは2030年とのこと
7年後、混沌の果て、みんなどうしているでしょう。

ススキの穂も開きはじめました。すっきり晴れた空、今夜は満月がきれいに見えそう。

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先日朝ふと思い立ち、じいちゃんが大好きだったおはぎ
いっぱい作りました、40個くらいかな。

当地方では、一般的な青海苔のおはぎポジションに代わり
「あぶらえ(エゴマ)」が使われます。
青海苔と同じく、エゴマも食べた後の歯がすごいことになります(笑)

じいちゃんにお供え

渋い食べものが好物の友人にも食べさせたくて連絡すると、
ちょうど夜勤明け。仕事帰りに寄ってってくれ、喜んでくれました。
誰かを想ってすることって、事前に予定なんてしていなくても
なぜかスムーズにいくものですね。

それにしても現代の女性は、とかく忙しい…社会での仕事が忙しすぎる…
昔は家の誰かが時候ごとの「ごちそう」を何気なく作ってくれたものですが、少し手間のかかるものを作る余裕がありません。(結局、出来合いの冷食や加工品が多くなり身体にいいわけもないですが)
伝統や役割、失われていくものもきっと多いのでしょう。
でも世は移り・進む。暇のある者がやればいい、ってことで食糧難にならない限りは(笑)誰かにあんころ餅をこしらえようと思っています。

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秋のお彼岸、遠方までお墓参りをされた方も多いでしょうか。

私が借りている森付きの畑は、周囲は墓地
それに加え『火葬場』がすぐそばです。
この場所で自給的な作物を育てている人が他に数家族いますが
普通だと「えぇ…」と思われるでしょうか。

たまたま縁あってこの場所を借りてからずいぶんと経ちますが、
お墓が多く、霊柩車が行き交い、それに関わる人々が交錯する、いわゆる「死にまつわる場所」の近くで菜園をしていると、色々な人の死生観、概念、妄想(?)が否応なしに目に耳に入ってくるわけですが、これもまた特殊な場所での人間模様を知る、学びの機会となっています。

お墓参りのスタイル(宗派も)もさまざま。
車を降り、色鮮やかで美しい供花を手にした人たちがお墓へと向かいますが、お参りが済み・帰る時には、なぜか手ぶらのことも。

周辺の山を散歩するのでよく気づきますが、前回飾った枯れた花の行方は
「草の茂み・山すそ・排水路」だったりもするのです。

物理的に言えば、花は枯れ・腐るので、若干お山の栄養となるくらいで(苦笑)個人的にはこれについて善悪を考えるものではありませんが、人間社会での一般的なマナーや風習の観点からすれば、そこはやはり「持ち帰る」がベターでしょうか。棄てて行く人も、周りに人がいる状況で「堂々とポイっ」と棄てるのではなく「わりとこっそりと」ではないかと想像します。

昔から『草葉の陰から見守る・〜で泣く』という言葉がありますが
仮にそういう言葉のイメージだとして、せっかく綺麗な花を飾ってくれたのに、数メートル離れた『まさに草葉の陰』へはゴミを突っ込んでいく…というのは、冷静に考えればプラマイゼロと言いますか…ご先祖様・故人もズッコケそうな状況が生まれているよなぁ…と常々不思議に感じておりました。

故人を想う気持ちを丁寧に紡ごうとする人も多くいる反面、古い慣習からくる死生観は形骸化、自分で感じる不思議さや感覚・死や生については、深く考えることが少なくなってきている証だろうなぁと感じたりもします。

道路からすぐ見えるような山すそにも飾り終わった花が棄てられます

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話は戻り、我が家の畑は火葬場がすぐそば、なわけですが、
そこで働く職員さんたちとも仲良くさせてもらっていて(笑)
挨拶や何気ない世間話も心和む時間となっています。

火葬案件が少ないときは、エリアを越境して私たちの畑近くまで草刈りをしてくださったり、鉄砲水が出たとき・豪雪で小屋が潰れそうになった時も当たり前のように助けてくださいました。

そんな職員の方々のいる施設に対しても、世間には心ない謎の「設定」を持ち込む人がいて…こういった職業に従事する方を影で蔑んだり、火葬場エリアに入ると霊を連れて帰りそうだからエリアに入らずUターンしようだとか、家の前を霊柩車が通ったら霊が憑くから困るだとか、周辺の私たちへも「煙突から死者の灰が降ってくるからあんたの畑の野菜はさぞ栄養豊富だろうね~」と悪気なく陰湿で滑稽な事を言ってくる人、もいるのです。
私はそういう「いい大人」の死生観や現実感が、ドラマや映画で見たことある様な…軽いイメージであることを…残念にさえ思ったりします…

無縁墓の問題もしきり、お墓参りのように形骸化したことをなぞっても、
本質を大切にできないのなら、それをすることに意味がない。
今までと同じやり方では、現代の人に本当に大切なことを伝えることができなくなっているということの表れ・限界が来ているのかもしれません。

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でも、こんな時代・今だからこそ、心の時代の到来、意識の世界の不思議・大切さについて話す人がなぜか急速に増えているように想います。
物質に翻弄された時代を経て、そういうことはもうたくさん、人が生きている間に真に気づき学ぶべきこと・人間とは一体、そういう本質的なことを求める人が、いっぽうでは増えているのかもしれません。

秋の日の早朝の墓地。
山のかわいい「ニホンリス」たちが墓石の上をぴょんぴょんと飛び回り、
木の実を探し回っていました。高い樹から木の実が落ちると、
ちょうど墓石に当たり打ち砕かれ中身が出るので、それを狙ってやってくる
鳥やリスたちをよくこの辺りで見かけますが、
あの子たちは、この場所で霊に取り憑かれたり・おどろおどろしいものを見て怖くなったり、といった「設定」は持ち合わせないように見えます笑

生きている人間の「設定」とは、まことに不思議なものです。

私の祖父。不思議なポージングで撮影を楽しんでいるようです(笑)
昔の人って写真館などで撮影されたきれいな写真を遺している方が多い気がするのですが
現在のInstaブーム然り、当時も承認欲求を満たす様なことが流行っていたのでしょうか。
いやはや…時代は繰り返すものですね…(苦笑)