(2012)『ヴェルクマイスター・ハーモニー』評

 小さいときから芋虫が大嫌いだ。誤って触れたり食べたりしないように、芋虫の観察には人一倍の情熱がこもる。どこにいても、それと見分けられる。芋虫の質感、造形。目を見張るばかりである。解剖もした。こんなグロいものは、恣意的に生まれるはずがない。誰か(神とか)の意図的なデザインによってしか生まれ得ない、と思った。こんなグロいものを創ったやつ(神とか)の想像力ははかり知れない、と思った。芋虫をもって、神の全能を信じる、とまで思ってきた。

 ところがある日、庭を掃除していたら、上から芋虫が落ちてきた。
 自分は飛び上がり、泣き叫んだ。そして、瞬時に理解した。神は、その全能の想像力によって、芋虫を創りたもうたのではない、と。
 これが、神なのだと。
 強いて言えば、神は、自分の姿に似せて、芋虫を創っただけなのだ。想像力もなにもあるものか。神は、芋虫なのだ。
 そういえば、あらゆるものは(人間の身体とか植物の茎とか)どこかしら芋虫に似ている。あらゆるものは少しずつ、神の刻印を受けているのだ。

 どこかに、宇宙ほど大きな芋虫がいるのである。
 それは決して、人間を救わないのである。

 『ヴェルクマイスター・ハーモニー』という映画がある。白黒で静かな画面に淡々とした音楽がついていて、お話はただ、ハンガリーかどこかの小さい町に鯨が来て、すると暴動が起こるという、それだけである。 最近(2007年春)公開された『ニーチェの馬』を撮ったタル・ベーラという、ハンガリーの監督の2000年の作品である。

 映画は、小さい町に暮らしている郵便配達人の生活から始まる。彼は物静かなかんじのちょっとインテリで、住民に天体の運行を教えたりしている。人々は貧しく静かに暮らしている。

 町には音楽を研究している老人がいる。タイトル「ヴェルクマイスター・ハーモニー」とは、この老人の話に出てくる言葉だ。大昔は、今と異なる調律があった、と老人は言う。その「神の調律」はしかし、人間の作り出した「新しい調律」によって、歪められてしまった。ヴェルクマイスターとは、その新しい調律を広めた人の名前なのだと老人は言う。

 ある晩、サーカスのトラックが来る。サーカスは、巨大な鯨の標本と、「プリンス」と呼ばれる謎の演説家を乗せて広場にとまる。住民はサーカスに警戒心を抱きながらも、広場に集まってくる。郵便配達人も鯨を見に行く。

 広場は不穏な雰囲気になる。「プリンス」は言う、人間がやってきたこと、これからやっていくことはすべて無だ、幻想だ、すべてを打ち壊せ、と。住民は武器を取り、町を打ち壊す。

 一部の住民は、町に秩序をとり戻すための運動を始める。代表に推された音楽家の老人は、いやいやながら運動の先頭に立つ。やがて軍隊が導入され、暴徒を鎮圧する。すべてが終わったころ、郵便配達の青年はすっかり気が狂っている。

 これは、「神」について描こうと試みた映画であろう。神を描いたらこの鯨のようになろう。神は、決して人間を救いに来たりしないのである。なんか知らないが、それは突然来る、だけなのである。芋虫のように、落ちてきたりするのである。たまたま、監督の都合で芋虫が撮りにくいから鯨になっただけなのである。これはまた、「革命」について描いた映画であろう。革命を描いたらこの鯨と、「プリンス」と、暴徒のようになろう。なんか知らないが、やっぱりそれは突然来るのである。

 「神の法」に対抗して、人間はたとえばヴェルクマイスターのように「人間の法」を作ったのだが、それを打ち壊すものがときどき回帰する。この対立を、ニーチェなら「ディオニソス的なもの」と「アポロン的なもの」という。ホッブスなら「べへモット」と「リバイアサン」と呼ぶ。この対立構造に当て嵌めるとき、「革命」は「神」「ディオニソス」「べへモット」のグループである。対して「人間」「アポロン」「リバイアサン」に与するものは「変革」であろう。

 革命なるものは、決して人間を幸せになんかしないのだ、というのが『ヴェルクマイスター・ハーモニー』の主題である。
 人を幸せにする革命なんて、そんなものは嘘だ。
 人間は、町の一部の住民が望んだように、秩序に守られていたほうが明らかに幸せなのだ。

 郵便配達の気が狂ったのは、ちょっと誠実すぎる性格かなんかで人と神の板挟みになりどうしていいか分からなかったのであろう。その板挟みは、監督自身の板挟みであろう。町の静かな幸せな日常に比べて、広場に突然やってきた鯨を魅力的に描くところに、そして「人間」の秩序を回復する側につく老音楽家が内心「神」の調律に惹かれているという矛盾を描いたところに、監督自身の葛藤があろう。

 人間でありながら、神とか革命とか鯨とか芋虫とかいう者は人類の敵であり、軍隊とかで鎮圧されて当たり前である。人類は彼らを排除すべきである。神に対する人間の主体性をかけて、弾圧すべきである。

 それでも神とか革命とか鯨とか芋虫とか言いたいなら人類に対する自分の主体性がかかっているので大いに言えばよいが、神とか革命とか鯨とか芋虫が人間を幸せにするなんて自分では信じてはいけない。絶対にいけない。あんまり人様に言わないほうが本当はいい。言うなら上手な嘘をつかなければいけない。人様を騙さなければいけない。

 それと、これが難しいんですが、あんまり幸せを感じない日も文句を言ってはいけない。芋虫が我々を幸せにしてくれるわけなんて、どう考えてもない。分かりきった話だ。我々は電波ではない。常識人なのである。

初出:『メインストリーム』02(2012)

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