(2003)テクスト論のパロディとしての『ダス・ゲマイネ』──体系の共有を仮定して

 一個前の論考への自己批判、および、やっぱり人を簡単に肯定してやらないぞという意図で書いた。

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 私は、テクスト論、特にその一人者ロラン・バルトの著作と以前読んだ太宰治の短編『ダス・ゲマイネ』(1935)に共通の概念(言葉遣い・問題意識)があるのではないかと思った。それは羅列すると、引用・剽窃・パロディ、内容・意味より形式や表現という図式、パフォーマンス、などだった。始め私は、『ダス・ゲマイネ』は、バルトのテクスト論発表に先駆けて「テクスト的」な在り方をした(しかできないことに気づいた)青年が当時の常識である「作品的」な価値体系から逃れられず(逃れることなど思いもかけず)作品的価値観によって自分を断罪し、数十年後の「作者の死」という逆転判決を待たずに速やかに自殺する小説、であると考えた。従ってこれは、バルトやクリステヴァによって分類・理論化される前の、テクスト的価値観ーー幾つかの側面を挙げると、すべてのテクスト(作品・社会・人)は他のテクストの引用である・シニフィアンの連鎖・読者志向ーーと作品的価値観ーー個人は唯一絶対のオリジナルを創作・シニフィエを追求・作者志向ーーの対立の原風景ではないかと考えた。しかし『ダス・ゲマイネ』とテクスト論にみられる概念の共通分母を探すうち、『ダス・ゲマイネ』を「テクスト論の殉教者」と見るのは誤りだと思うようになった。『ダス・ゲマイネ』はテクスト論のパロディである。私はここで時系列を無視して考えたので、もちろん太宰にその意図はない。両者に点在する諸概念の分母を括り出し、もとにある体系を仮定してみたい。『ダス・ゲマイネ』の発想とバルトの著作に見つけた発想とが、その体系に飛び火してあることを見たい。しかし一方で『ダス・ゲマイネ』とテクスト論の発想の違いをその仮定体系の中に見つけたい。


Ⅰ.『ダス・ゲマイネ』について

A. 粗筋

  『ダス・ゲマイネ』は4章からなる。3章までは「佐野次郎」とあだ名された主人公の一人称回想形式で語られる。帝大で文学を専攻する佐野は、馬場という自称音楽家と知り合う。馬場は奇抜な風体で空のヴァイオリン・ケースを持ち歩き、法螺と思われる自慢話をするが「自分もまたヴァイオリンよりヴァイオリン・ケースを気にする口ゆえ」佐野と馬場は意気投合する。一方佐野は恋人に振られ、歌舞伎の登場人物にちなんだあだ名をつけられる。2章では、馬場が「海賊」と名づけた雑誌の創刊を計画する。佐野の役目は海外向けの翻訳である。挿絵画家として佐竹という男が登場する。3章では、「太宰」という作家が雑誌の計画に加わるが、「作家は売れる作品を書くべきか否か」など意見の違いから口論となり、計画はお開きとなる。夜、皆と別れた佐野は自分の思考・言葉・身振りはすべて彼らのそれの引き写しでしかないことに気づき、「愕然と」する。彼は「走れ、佐野次郎」「……星。葉。信号。……」等の単語を羅列しながら走り出し、電車にはねられる。4章では、語り手が不在の世界で、馬場や佐竹の会話だけが聞こえてくる。

B. テクスト論的(擬似テクスト論的?)概念

 この短編には、バルトやクリステヴァのテクスト論・相互テクスト論の目印的な特徴がいくつも発見できると私は考えた。例えば、

  1.  人物をも「テクスト」とみなし文書と同レベルに置くテクスト論と、詩が書けないばかりか「自分の影を盗まれた」佐野は(アイロニックに)対応する。この小説とテクスト論では「人物」と「作品」が同レベルに扱われている。それらは等しく「剽窃」されるものである。

  2. 「読み」の多義性。例えばタイトルについて。「作者中心主義」に倣えば、「作者」太宰が随筆『もの想う葦』で言及する自作の解説によって”Das gemeine”(卑俗)であるとし、タイトルによって問われているテーマは「売れる文学か純粋芸術か」という、3章に扱われる葛藤であるということができる。この読みは同時に、この小説を「作者」太宰の私生活の反映とみなす読みでもある。一方野島秀勝氏はこのタイトルを津軽方言の「ダスケ、マイネ(だからだめだ)」であるという。この場合の読みは、主人公佐野の最後の絶望に重点を置く。「テクストの外にはなにもない」というポスト構造主義的な読みといえる。「”Das gemeine”は「だからだめだ」を彷彿させるドイツ語である」とみるなら、ジョイスの小説に似た多義的な読みが可能になる。

  3.  全体が「他テクストの引用」としてのテクストである。わかり易い例では、「佐野次郎」は歌舞伎の主人公の名前だが、佐野がはっきりとは語らない恋愛沙汰を読者に推測させるという点で「先行テクスト」を利用している。また、「太宰治」が本人役で登場し、揶揄されると同時に「自己弁護」を試みる。同時代日本の憧れだったらしい英・仏の詩人、音楽家、文芸雑誌等が言及される。

  4. 「剽窃についての小説」。この小説のキーワードは「剽窃」ではないか。最終的に佐野は他人の剽窃物としての自己を発見する。馬場は「荒城の月」を自作と吹聴する。また、彼らの計画する文芸雑誌は“イエロー・ブック” の真似である。この雑誌のタイトル『海賊』(剽窃の意味を含む)が彼らの在り方を象徴する。また、馬場が構想する「『海賊』という4楽章の交響曲」とはそのままこの小説のことではないか。3.でみた各引用はこのテーマの具体的でデティールに即するサンプルの役を果たす(剽窃と引用は厳密に同義ではないが、「個としての作家」中心主義・デリダの批判する形而上学の「現前志向」に立てば、「オリジナルでない」という点で括ることができる)。更に言えば、一人称という語りの形式自体、他登場人物の発言を再録する場合は引用―極端にいって剽窃を必然とするのではないか。

  5.  以上の根底にあるものは「内容なしの形式」ではないか。馬場の服装、「時代の象徴」である空のヴァイオリン・ケース、名のみの雑誌、法螺話、音楽をしない音楽家、詩を書かない詩人等に「内容なしの形式」の状態が表されている。東郷克美氏は、主張できる一貫した姿勢を持たず、「反俗の姿勢自体が実質的内容を伴わない」彼らの在り方にこの状態を見る。

 ここで「内容なしの形式」の復権を考える。内容・実体がないとき逆にくっきりするのが形式―行為、運動、作用、過程の部分である。動いているとき、動かす対象がないことで「動いている」こと自体が(不自然に)現れることができる。それはひとつの価値ではないか。そう考えていくと馬場の在り方は、「パフォーマンス」に等しいことに気づく。パフォーマンスに必要な条件は本人の外見とそれをみてくれる人の二極で、その間に働く「動き」がパフォーマンスの本質ではないか。メッセージがあろうとなかろうと、ダダの詩だろうと政治的アジテーションだろうと「パフォーマンス」の本質には関係しない。むしろ重要なのは本人の行為が「気付かれること」ではないか。従ってパフォーマンサーは自分を「指し示す」必要がある。
 ここで思い出されるのがバルトの説くテクスト論のテーゼ「シニフィエなしのシニフィアンの連鎖」であり、ジョナサン・カラーによれば「メッセージよりシステムを明らかにする」構造主義の発想、「文の意味より意味伝達が可能になる形式構造を明らかにする」言語学の発想、シニフィアンを解きほぐしこそすれシニフィエを探さない「読み」の姿勢ではないか。

Ⅱ.仮定体系


 時代も場所も違う2箇所の場面で、「引用・剽窃・パロディ、内容・意味なしの形式・表現という図式、運動性・行為・過程、パフォーマンス」等の言葉が何らかの関わりを持つかのようにセットで目撃されるのは、普遍的な体系があるからではないか。各語同士の関係から帰納的に共通分母を探そうとした結果として、以下のような仕組みを考える。

A. 原則

 最も根底にあるのは「他者がいる」ということだ。ところで人は「我想う故に我在り」を言うことによって自分自身の輪郭が確立したとたん、輪郭線の外=他者のことは全く何も言えない。並木浩一に則していえば「私」と「世界」の「異質性」がある。
 従って、ここから先、そこにいる他者について「内容」は知れない。しかし他者と私の少なくとも2者がいるということは、何らかの関係性が生まれるということだ。唯一関係性を可能にするのは他者の「表現」だ。関係性-「形式」は他者と私の「表面」の「間」に走る。
 他者とコギトから成る以上の仕組みで、行為・ダイナミズム・作用・関係といった、リンダ・ハッチオンの説く「過程の美学」の誕生と、内容より形式を問題にせざるをえない理由が説明できないだろうか。「パフォーマンスの本質」もこの構図に対応する。

B. ヴァリエーション

 「内実の知れない他者」との関係性は、私の「他者への姿勢」によって様様な形態を持つ。ここに位置付けることができると思われるのは、

  1.  パフォーマンス。宣言「……A,B,Cを発令して1、2,3を追放する」こと(トリスタン・ツァラ)と政治的アジテーションは、他者への一方的な自己主張という点に注目すれば、同時にここに含められるのではないか?  ドミニク・ノゲースはダダとレーニンを比較し、共通点を示す。

  2. 「対話」。対話を分節してみると、2つの要素から成る。1)必然的な状況:相手との差異・距離、2)自分の姿勢:相手の言うこと(=表現)を一度自分がなぞってみること・反復・再生=パロディ。つまり「対話」=「差異+反復」。差異が避けられないということが反復を必要とする。しかし、反復してみると自分と相手の差異が目立つ。「パロディ」に注目するハッチオンは従って、相手に言及するパロディは同時に結果として「自己言及的」であることを述べる。反復に必至の結果が「自己言及」である一方、反復するときの必要条件が「構造」ではないか。

 「批評」の本質も「差異+反復」ではないか。批評するためには、相手との距離が必要であり、また相手の表現に含まれる構造をなぞりなおしてみなければいけないからだ。
 同じことが美術について言える。人は絵をみるときその絵を再生しながら見るというメルロ=ポンティの言葉、(構造は外部からしか知られないと言ったレヴィ=ストロースに関して)「解釈者と作品の関係は常に他者性の関係としてとらえられてきた」というウンベルト・エーコの言葉を総合するとこの図式に括れないか。
 同じことを文学に関して言った場合、それが「テクスト論」の根本ではないか。この場合の、私が対峙すべき他者とは「テクスト」であって、飽くまで作者ではないという「他者と私の一対一関係」を強調し、同時に「反復」を行う読者の「再生能力」を強調したとき『読者の勝利は作者の死によって購われる』というテーゼが生まれるのではないか。

 「差異」を持つ他者の「表現」に含まれる「構造」に沿って「反復」することで自分と他者の異質性がさらにはっきりする。ということは、「他者が他者であるのと同じだけの強さで私が私であることが言える」ということではないか。「私が私であるといえるのと同じだけの強さで私には他者がわからない」というコギトの原則から始まったシステムが同じ命題のパロディへ戻ると言えないだろうか。バルトの「……この隔たりが私の現代性の基礎を築くのだ(現代的であるということは、繰り返すわけにいかないものを真に知っている、ということではないか?)」という言葉は、このことを言っているのではないかと思う。

C. ハッチオンの「パロディの理論」

 私はリンダ・ハッチオンの注目する「パロディ」を前段落で試したシステムでは「対話」の構成要素として位置付けたが、一度取り出してハッチオンの理論に沿って眺めたい。

1. パロディとは

 ハッチオンは「パロディ」を「批評的距離を持って先行作品を反復するもの」と定義する。「差異+反復」は同時に「自己言及による自己正当化」「自己正当化理論を内包する理論」「外部と折り合いをつける方法のひとつ」「他者と自己の正体を問題にすること」でもある。ルネサンス、ヌーヴォー・クリティーク、構造主義、T・S・エリオット、ジョイスがパロディの擁護者であるのに対し、ロマン主義、啓蒙思想、フーコーの説く「個性の時代」、「著作権」を台頭させた資本主義倫理、リーヴィス、エイミスはパロディを悪とみなす。
 次にハッチオンは、パロディと、先行テクストの他の利用(剽窃、風刺、引用、同一の模倣)の違いを指摘する。まとめていえば、これらの諸ジャンルは「他者への姿勢・感情」によって分化するのではないだろうか。基本的に「自己と他者が違う」ということを言うのがパロディだとするなら、「自己による他者の抹殺ーー始めからいなかったことにする・自然らしくみせかける」のが剽窃、「他者を弾劾し、かつそうしている自分をはっきり目立たせる」のが諷刺、「他者を(あくまで他者として)自分のサポートのために生かす」のが引用だと言えないか。模倣には剽窃志向の同一さと、同一である不自然さによって「実は違う」ことを示唆するパロディ志向の同一さとがある。
 更に、パロディの存在理由が論じられる。ハッチオンはパロディの先行テクストへ果たす役割として

  1.  反感 

  2.  再解釈 

  3.  可能性の提示 

を挙げる。問題は、パロディの役割が「先行テクストへの反感・嘲笑」と一義的に理解されやすいことだ。この一義的理解の弊害は、B(パロディ)の存在自体を一義と決めてしまったらーーBのA(先行テクスト)に対するあり方・読みを決定したらーー私のBへの読みも一義的に決定済みとされてしまう、ということではないか。
 しかし一方、エーコの「笑い」についての言葉「笑うものは、全力で笑うために留保つきであるにせよ対象を受け入れ、信じた上で内部から笑う必要がある」を思い合わせれば、パロディの引き起こす嘲笑は重要ではないか。パロディにするということは、反復によって一度自分に引き受けることだからだ。
 3の「可能性の提示」について考える。パロディは先行テクストに対して「どこか等しいところのある差異」の関係にある。差異を持つ反復に必然的に伴う想起は、「今、ここ、私」と、「そうでないもの」の異質性―両極のどちらをも実体として見るのではなく、間をみる―ではないか。差異を想起させるキーワードは「同じ部分」である。この類似は過去(=先行テクスト)が「別様でありえたかもしれない」を顕在化させる。これを篠原資明氏は「過去の過剰」と呼び、他者との関係の過程が新たなものを創造する「異交通」の作用とする。篠原氏の分類に従えば、ヤコブソンの「メタファー」、詩の働き、記号の三角形も「異交通」と括ることができる。私は、カミュの『異邦人』でムルソーがアラビア人を殺した理由はこの辺りにあるのではないかと思う。ムルソーはアラビア人に2度会う。一度目、「私は(ピストルの)引き金を引くこともできるし、引かないでも済むと考えた」が、結局引かない。しかし2回目、「ここに広がる同じ砂の上に、同じ太陽、同じひかりがそそいでいた。」とき、引き金を引く。ムルソーは各瞬間を全身で捉え、言葉に翻訳しつづけているような人だ。ひとつの瞬間を感じ尽くすということは、別の瞬間の存在に目が向くことにつながらないか。一回目のパロディとしての二回目で、同じ太陽によって「一回目にありえたかもしれない別の瞬間」が喚起され、その「ある」と「ない」の分岐点が、とっさに彼の場合、引き金を引いたか引かなかったかの選択と一致して、「あり得たかもしれない一回目の瞬間」を感じるために引き金を引いたのではないか。しかし彼は、最終的には自分の「過去の過剰」と折り合いをつけるのではないか? 『……私はこれをして、あれをしなかった。……そんなものが何だろう?』。

2.テクストの「意味の閾」

 テクストはある意図をもって作成された「意味の閾」である、という主張はハッチオンとテクスト論を分ける。同時に「意味の繰り延べ・差延」を説く脱構築とも分ける。ハッチオンは、読みには解釈学とテクスト論の両方が必要だという。テクスト論の「過程の美学」はあくまで読者の側の項からみたものであるのに対し、ハッチオンの「過程」はテクストが作成時に意図を伴って発射させられる、という作成側の項をも視野に含めた、より全体の「運動性」をさすものである。
 この点で、ハッチオンは、作品であることとは見る人に「開かれ」たものであることと、意図の閾を持つことと不可分だ、と説くエーコに近い。エーコは作品とは「見る人がそのつど、ある作品であると判断する」ものだと言う。エーコとハッチオンは、作品(=他者)に対する「私」の責任、といったものを重視するのではないか。作品に意図の閾がない、というテクスト論の発想は作品をより「他者」でなくすことにつながる。並木先生のクリステヴァ・脱構築批判は言い換えるとこうなるだろうか?
ハッチオンは、パロディは最低限1つの「これは先行テクストへの侵犯である」という意図を持つと説く。加えて、パロディは作成者と受け手の間に「これはパロディである」という共通のコード・了解を必要とする。例えば、「インディペンデンス・デイ」という映画(95、アメリカ)は一見アメリカ至上主義の単純感動アクションSFだが、監督がドイツ人であることに気づくと別の性格を帯びてくる。また、私は『フィネガンズ・ウェイク』を理解できない。パロディは「エリート志向」の傾向を持つといえる。
 ハッチオンは、相互テクスト理論は読者の能力について楽観的過ぎるといいたいのではないか。クリステヴァの説くテクスト間対話とは、当テクストと他テクストの対話というよりも、実際は当テクストと読者が記憶する限りの他テクストであり、したがってテクスト間対話とはそこまでスムーズに行われない。スムーズさを求めるなら、読者を「エリート」に限定しなければならない。
 テクスト論がこの問題を無視する根拠のひとつに、作成者は自分の中の先行テクストの影響ーー過去の重みーーを振り払おうと「芸術による悪魔払いに一か八かで賭ける」ため、読者を当てにするのだという論(ケネディ、1980)が紹介されている。読者は先行テクストの影響を引き剥がすための分離機・変換機のような装置である。この発想は、新しいアイデアを得るためには自分から自分を引き離さなければならないとして、シュルレアリスムの行った実験ーー自動筆記、複数の作者による小説等ーーに通じるものではないか。

Ⅲ.ロラン・バルト


 (私が理解する限り)バルトの発想全体の内には根本的に、Ⅱ.でみたような(「異質な他者との関係」に端を発する)「内面・意味<表面・形式」のシステムがあるのではないか。彼のテクストに出てくる諸概念は、この回路の発現といえないか。例えば、「テクストは実体でなく関係性である」というテクスト論自体のテーゼ、様々の対象(絵画、文学、プロレスなど)を「批評する」という行為、「差異+反復」を形状化したものとしての「螺旋」のモチーフ。鈴村和成氏は、幼児期の一枚の写真からはじめるバルトの「自伝」に螺旋形をみる。また、バルトが「アポロン的表象」である古代演劇を好んだことに触れ、「内面を欠く形式への愛」を指摘する。「パフォーマンス」。ジョナサン・カラーはバルトを『公衆の面前で実験する人』と呼ぶ。このような概念をⅡ.の体系に当てはめると、あちこちに飛び火していることが見つかるのではないか。
この「内面・意味<表面・形式」のシステムを採用するということは、意味ーーオリジナル・アウラがあるはずとする発想の拒絶であり、シニフィエなしのシニフィアンの増殖ーー内容なしの表面の増殖を志向することにつながっていかないか。このことは、ものをアナロジーで見るということではないか。表面から掘ったら意味へ到達するのでなく、「似てますね」といい、比例へ還元する。また、ヤコブソンの「メタファー・メトニミー」の概念を当てはめれば、バルトの発想は全体にメタファー的ではないか。
 このような思考回路を持つ人がテクストを書くとき、それは自分を表面化する手段だといえる。バルト自身は「自伝」で、「シニフィアンのシニフィアンを書きつづける」ことだと言っている。自分の内容でなく表現を書きつづけるということは、「テクストはシニフィアンの連鎖」という自分の理論をひきうけ、体現する「装置」になるということではないか。この、理論のサンプルに自分を使うということは、一種の「パフォーマンス」ではないか。Ⅰ-B-5.でみたように、パフォーマンサーは自分を「指し示す」必要がある。この、気づかれるための身振りが、彼の署名ではないか。例えば「ここに形式装置が起動していることを知って欲しい」と言いたい。バルトは、「それを知って欲しい」というのは、『肯定や否定と同じくらい単純な』普遍的な『身振り』だと書く。
 それでは、彼が自伝を書くときそれはどういうことか。表面を剥いだようで別の表面を提示すること、自分の囮としての自伝なのではないか。しかし、アンディ・ウォーホルは「僕を知りたかったら表面をみればいい、僕は表面だけだ」と言ったというが、完全に表面だけであることは可能だろうか? どこかに何かあるのではないか?? 同じことをバルトについても問えないだろうか。しかしバルトは、理解されること、他人を理解できると思い込まれることを拒否したかったのではないだろうか。

Ⅳ.結論ーー再び『ダス・ゲマイネ』


 『ダス・ゲマイネ』の佐野は、私が最初考えたように「テクスト」だったのではない。テクスト形成に必要なのは「距離を保った反復」であるのに対し、佐野は「距離を保てなかった」のではないか。彼には「他者」という概念がなかったーー何に対しても他者たりえず、何も彼にとって他者でなかったのではないか。この、自分と他者の境界のなさ・馴れ合いが、彼を「テクスト」ではなく「剽窃物」にしたのではないか。従ってもし佐野がテクスト論後に生まれてきたとしても、結局彼は絶望しなければならなかったのではないか。


参考文献

『パロディの理論』リンダ・ハッチオン 辻麻子訳(未来社、1993)
『ロラン・バルト』ジョナサン・カラー 富山太佳夫訳(青弓社、1991)
『現代思想の冒険家たち21 バルト』鈴村和成(講談社、1996)
『現代思想の冒険家たち29 エーコ』篠原資明 (講談社、1999)
『言の葉の交通論』 篠原資明 (五柳叢書、1997)
『彼自身によるロラン・バルト』ロラン・バルト 佐藤信夫訳 (みすず書房、1998)
「作者の死」「作品からテクストへ」『物語の構造分析』ロラン・バルト 花輪光訳(みすず書房、1979)
『開かれた作品』ウンベルト・エーコ 篠原資明・和田忠彦訳 青土社、2002)
『レーニン・ダダ』ドミノク・ノゲーズ 鈴村和成訳(ダゲレオ出版、1992)
『孤独の遠近法』野島秀勝(南雲堂、1999)
「新しいアイディアはどうしたら手に入れられるか」『アヴァンギャルドの世紀』宇佐美斉編(京大出版、2001)
『異邦人』アルベール・カミュ 窪田啓作訳 (新潮文庫、1963) 
「ダス・ゲマイネ」『走れメロス』太宰治 (新潮文庫、1968)
近代日本文学Ⅰ 管聡子教授 2002秋学期 期末レポート
フランス文学史Ⅱ 岩切正一郎教授 2001冬学期 期末レポート
聖書学演習Ⅰ 並木浩一教授 2002冬学期 講義ノート
『ヨブ記における相互テクスト性』並木浩一 (講義資料)

初出:国際基督教大学人文科学科2002年度冬学期「聖書学演習Ⅰ」(並木浩一教授)レポート

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