『ナショナル・ボルシェヴィスト宣言』解説 by BOGMIL
幼少期の家庭環境
カール・オットー・ペーテルは1906年11月、ベルリンのシャルロッテンべルクに住む中流階級の質実な家庭に生まれた。
本屋の息子であったペーテルは早くから文学など知的な方面に関心を抱いていたが、同世代の多くの若者と同じく、彼の思想や世界観は、第一次世界大戦とそれに続く戦間期ドイツの苦難の経験に深く影響を受けている。また、ドイツ青年運動の隆盛も、彼の成長に強く影響した。ドイツ青年運動の複数のグループに参加した経験と、共通の大義に端を発して団結した緊密な組織の枠組みにおいて行動を伴う同志意識は、ペーテルのナショナリスト的な感情をますます強めることとなった。
大学生活と政治活動
1928年、ペーテルはベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学に入学し、教師になるつもりで哲学と歴史を学んだ。
彼の学生生活はたった五学期 [約一年半] で終わりを告げた。政治活動に傾倒し始めた結果であった。ヴェルサイユ条約に反対し、示威行動の禁止令を拒否してフランス大使館へ押し寄せた大勢の学生にペーテルも加わっていたのだが、ショックなことに、気がつくと彼は共産党員の青年とナチ党員の医学生に挟まれて、警察車両の後部座席に座っていた。
ペーテルの逮捕を当局から告げられた大学はすみやかに彼の奨学金を停止し、次いで除籍した。突然の手に余る時間を得たペーテルはジャーナリズムの世界に身を投じ、様々な出版物に記事を書いた。特に政治の話題に惹かれた。
〈ドイチェ・フライシャー〉参加と乖離
当時、ペーテルはドイツ青年運動にもまだ積極的に関わっており、この時期すでに、彼自身のナショナリズム的感情を(少なくとも当初は)補完してくれるような文化を共有できる青年運動グループ〈ドイチェ・フライシャー〉{Deutsche Freischar}内において、リーダー格の地位にあった。
しかし、政治活動に更に関わるようになるにつれ、彼は、自らを革命派であると位置づけ、古いヴィルヘルム2世時代の堅苦しさを拒絶する新種のナショナリズムに、より強い影響を受けるようになった。これは、当時一般に〈新ナショナリズム〉と呼ばれた潮流である。
エルンスト・ユンガー [1895-1998] 、エルンスト・ニーキッシュ [1889-1967]、アウグスト・ヴィニヒ [1878-1956] などの大物に感化され、ペーテルの文章は急速にラディカルな論調を帯び、彼のナショナリズムは強い反資本主義的な主張を内包するようになった。
そして、彼自身と文章がラディカルになるほど、〈ドイチェ・フライシャー〉内でのペーテルの地位は危うくなっていった。ペーテルが公言する共産主義への賛同や、レーニンへの肯定的な言及、「若い革命的ナショナリストはおしなべて労働者階級と自然に結びつく」といった宣言──こうした主張は、〈ドイチェ・フライシャー〉にとっては行き過ぎであった。1930年、ヒンデンブルク大統領のヤング案 [WW1賠償金の緩和案] 批准を批判する記事を発表したペーテルは、〈ドイチェ・フライシャー〉内での地位を手放さざるを得なくなった。
〈社会革命的ナショナリストグループ〉結成
1930年5月、ますますラディカルになりつつあるペーテルは、本格的な政治的活動を開始することに決めた。かれこれ一年間、彼と幾人かの友人は〈青年労働者戦線〉と呼ばれるある非公式なグループで活動していた。このグループは、左右の急進派を共通の大義のもとに結集させようと試みるある種の支援組織だった。
ここに、ペーテルと仲間たちは、単にナチ{NSDAP}を「真の社会主義」に向かわせようと欲するだけでなく、正式なプログラムに基づく正式なグループとして、自分たちを再編成することを選んだ。
彼らが結成した〈社会革命的ナショナリストグループ〉{Gruppe Sozialrevolutionärer Nationalisten, GSRN}は、やがて、ワイマール・ドイツで実際に〈ナショナル・ボルシェヴィスト〉という言葉を用いて自分たちを表現する、数少ない組織の一つとなった。
公然と革命派であったGSRNは、
・民主=資本主義体制の打破
・「評議会」に基づく新政府
・産業と土地の国有化
・ソビエト・ロシアとの軍事同盟
・「人民軍」としての大衆の武装化
を提唱した。GSRNのメンバーはペーテルと同様にほとんどが高等教育を受けた中流階級の出身だったが、これらの目標を追求するために「階級意識に目覚めたプロレタリアートとの共闘こそがナショナリストの任務である」と断言した。
共産党への接近と幻滅
このような新しい目的意識を持ちながらも、決して大きな組織ではなかったGSRNは、当初、出版とプロパガンダに重点を置いていた。しかしすぐ、より活発な行動に出る機会が、左派方面からもたらされた。
すなわち、1930年9月の選挙でナチとドイツ共産党{Kommunistische Partei Deutschlands,KPD}のどちらにつくかという問題をめぐるGSRN内部の論争は、ドイツ共産党が新しい党綱領「ドイツ国民の国家的・社会的解放のための綱領」を発表したおかげで突然解決したのである。
ドイツ共産党の新しい綱領には、ナショナリストの用語やナショナリストの要求がふんだんに盛り込まれていた。これは、ナチに奪われた(あるいは失う可能性のある)有権者を取り戻そうとする共産主義者の意図的な試みであった。
しかし、GSRNは、ドイツ共産党がナショナル・ボルシェヴィズムの方向に傾いている証拠ではないだろうかと思案した。ペーテルと彼の仲間たちは、共産主義者への固い支持へとこっそり傾いた。
このような経緯で、GSRNはドイツ共産党と同盟を組んだ。選挙期間中、ペーテルと彼のグループは、記事を書き、プロパガンダを撒き、共産党の集会で演説をして、共産党をいまや公然と支持した。この協力関係は選挙後も続き、GSRNはナショナリストたちに共産党と並んで闘うことを強く勧め、「ドイツは共産主義の旗の下でなければ資本主義の粉砕もできなければ、ヴェルサイユ帝国主義から自らを解放することもできない」と主張し続けた。
GSRNのメンバーは共産主義の雑誌に記事を書き、〈反ファシスト行動〉などのKPD組織に参加し、1932年3月と4月には、ドイツ共産党指導者のエルンスト・テールマン [1886-1944] の大統領立候補に対し、公式に支援を提供した。
ドイツ共産党の方はといえば、折に触れて独自の形式で支援を申し出ることもあった(たとえば、GSRNの機関誌『社会主義的国民 Sozialistische Nation』の配布を手伝うなど)。しかし、全体としてはかなり一方的な関係だった。
この相互性の欠落は、ドイツ共産党に対してそこそこの幻滅をGSRN内にもたらした。共産党はペーテルの運動を吸収し、合併することを目論んでいるのではないか、とペーテルが疑い始めたのは、大変もっともなことだった。
加えて、1932年が終わる頃には、ペーテルと同志たちはドイツ共産党のうたうナショナリズムについて、その誠実さを疑うようになっていた。
ドイツ共産党とGSRNの関係が悪化するにしたがって、両者のイデオロギー上の分断は更にはっきりしてきた。ペーテルと仲間たちは、彼らの最終的な目標──主権国家ソビエト・ロシアと同盟しながらも独立した、社会主義であり同時にナショナリズムである主権国家ドイツ──が、共産党の最終的な目標──国境なき世界共産主義──と根本的に相容れない、という事実から、もはやそう簡単に目を背けることができなくなったのだった。
それでも親共産主義路線でドイツ共産党を支持し続けていたとはいえ、この分断はGSRNの戦術に影響を与えた。ペーテルは1932年11月の選挙で闘うために、他勢力から独立したナショナル・コミュニズムの党を組織しようとした。しかし、新たな合法政党を設立するための人員と資源がGSRNには不足していたため、失敗に終わった。
ナショナル・ボルシェヴィスト宣言
『ナショナル・ボルシェヴィスト宣言 Das Nationalbolschewistische Manifest』は、1932年末から1933年初頭、ドイツが政治的混乱に陥った時期、ナショナル・コミュニスト選挙団を組織することを目指す二度目の挑戦の布石として、ペーテルによって製作されたものである。
ナチは支持を失い、共産党は票は獲得できても内部の派閥争いに苦しみ、ワイマール体制全体は崩壊寸前であるかのように思われていた。
しかし、ペーテルは予想もしなかった事態に見舞われることになった。彼が苦労して作った『宣言』が初めて出版され、配本された日──それはヒトラーが首相になり、勝利した日、松明を掲げた突撃歩兵が隊列を組んでベルリン市街を行進した日 [1933年1月30日] であった。
『宣言』の多くの部数が没収され紙屑となり、ペーテルは出版許可を早急に取り下げられ、彼と仲間たちの出版物は発禁となった。GSRNはドイツ国会議事堂放火事件 [1933年2月27日] の余波を受けて、他のコミュニストや「シンパ」グループとともに弾圧され、長くは持ち堪えなかった。
亡命
これを機に、ペーテルの活動は政府から多大な妨害を受けるようになった。とりわけ、ナチス政権にとって好ましくない人々と付き合い続けたためである。
ペーテルは1934年6月「血の粛清」(「長いナイフの夜」)に際し、裏切り者としてブラックリストに名前が載った。1935年に事態はヒートアップし、身の危険を感じたペーテルは出国を余儀なくされた。彼はヨーロッパを転々としたのちアメリカにたどり着き、学者として働き、市民権を獲得した。
晩年ペーテルはさまざまな著作を発表したが、そのうちのいくつかはドイツ・ナショナル・ボルシェヴィズムの歴史を詳述したものである。彼は1975年、ニューヨークで死去した。
(→ナショナル・ボルシェヴィスト宣言【2】に続く)
ペーテルとドイツ政治体制 略年表
引用はすべてペーテルとドイツ時代から親交がありのちにアメリカで共著を出したヘンリー・パクターのペーテル評「あるナショナル・ボルシェヴィストへの鎮魂歌」(『ワイマール・エチュード』)による