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【試訳】K.O.ペーテル『ナショナル・ボルシェヴィスト宣言』【1】BOGMILによる解説

Das Nationalbolschewistische Manifest(Karl Otto Paetel, 1933, Die Sozialist Nation)の英語版解説の山本訳。BOGMILという人物によりARPLAN-LEFT MEETS RIGHT, EAST MEETS WEST に英訳と解説が掲載されている。

判例: ■ペーテル註、▶︎BOGMIL註、(全角かっこ)BOGMIL本文内註、[]山本本文内註、〈〉特殊な固有名詞、{}ドイツ語音、原文表記など
改行を増やし、小見出しをつけた。

間違いのご指摘等ありましたらぜひお願いいたします。

『ナショナル・ボルシェヴィスト宣言』解説 by BOGMIL


幼少期の家庭環境

カール・オットー・ペーテルは1906年11月、ベルリンのシャルロッテンべルクに住む中流階級の質実な家庭に生まれた。
本屋の息子であったペーテルは早くから文学など知的な方面に関心を抱いていたが、同世代の多くの若者と同じく、彼の思想や世界観は、第一次世界大戦とそれに続く戦間期ドイツの苦難の経験に深く影響を受けている。また、ドイツ青年運動の隆盛も、彼の成長に強く影響した。ドイツ青年運動の複数のグループに参加した経験と、共通の大義に端を発して団結した緊密な組織の枠組みにおいて行動を伴う同志意識は、ペーテルのナショナリスト的な感情をますます強めることとなった。

大学生活と政治活動

1928年、ペーテルはベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学に入学し、教師になるつもりで哲学と歴史を学んだ。
彼の学生生活はたった五学期 [約一年半] で終わりを告げた。政治活動に傾倒し始めた結果であった。ヴェルサイユ条約に反対し、示威行動の禁止令を拒否してフランス大使館へ押し寄せた大勢の学生にペーテルも加わっていたのだが、ショックなことに、気がつくと彼は共産党員の青年とナチ党員の医学生に挟まれて、警察車両の後部座席に座っていた。
ペーテルの逮捕を当局から告げられた大学はすみやかに彼の奨学金を停止し、次いで除籍した。突然の手に余る時間を得たペーテルはジャーナリズムの世界に身を投じ、様々な出版物に記事を書いた。特に政治の話題に惹かれた。

〈ドイチェ・フライシャー〉参加と乖離

当時、ペーテルはドイツ青年運動にもまだ積極的に関わっており、この時期すでに、彼自身のナショナリズム的感情を(少なくとも当初は)補完してくれるような文化を共有できる青年運動グループ〈ドイチェ・フライシャー〉{Deutsche Freischar}内において、リーダー格の地位にあった。
しかし、政治活動に更に関わるようになるにつれ、彼は、自らを革命派であると位置づけ、古いヴィルヘルム2世時代の堅苦しさを拒絶する新種のナショナリズムに、より強い影響を受けるようになった。これは、当時一般に〈新ナショナリズム〉と呼ばれた潮流である。
エルンスト・ユンガー [1895-1998] 、エルンスト・ニーキッシュ [1889-1967]、アウグスト・ヴィニヒ [1878-1956] などの大物に感化され、ペーテルの文章は急速にラディカルな論調を帯び、彼のナショナリズムは強い反資本主義的な主張を内包するようになった。
そして、彼自身と文章がラディカルになるほど、〈ドイチェ・フライシャー〉内でのペーテルの地位は危うくなっていった。ペーテルが公言する共産主義への賛同や、レーニンへの肯定的な言及、「若い革命的ナショナリストはおしなべて労働者階級と自然に結びつく」といった宣言──こうした主張は、〈ドイチェ・フライシャー〉にとっては行き過ぎであった。1930年、ヒンデンブルク大統領のヤング案 [WW1賠償金の緩和案] 批准を批判する記事を発表したペーテルは、〈ドイチェ・フライシャー〉内での地位を手放さざるを得なくなった。

〈社会革命的ナショナリストグループ〉結成

1930年5月、ますますラディカルになりつつあるペーテルは、本格的な政治的活動を開始することに決めた。かれこれ一年間、彼と幾人かの友人は〈青年労働者戦線〉と呼ばれるある非公式なグループで活動していた。このグループは、左右の急進派を共通の大義のもとに結集させようと試みるある種の支援組織だった。
ここに、ペーテルと仲間たちは、単にナチ{NSDAP}を「真の社会主義」に向かわせようと欲するだけでなく、正式なプログラムに基づく正式なグループとして、自分たちを再編成することを選んだ。
彼らが結成した〈社会革命的ナショナリストグループ〉{Gruppe Sozialrevolutionärer Nationalisten, GSRN}は、やがて、ワイマール・ドイツで実際に〈ナショナル・ボルシェヴィスト〉という言葉を用いて自分たちを表現する、数少ない組織の一つとなった。
公然と革命派であったGSRNは、
・民主=資本主義体制の打破
・「評議会」に基づく新政府
・産業と土地の国有化
・ソビエト・ロシアとの軍事同盟
・「人民軍」としての大衆の武装化
を提唱した。GSRNのメンバーはペーテルと同様にほとんどが高等教育を受けた中流階級の出身だったが、これらの目標を追求するために「階級意識に目覚めたプロレタリアートとの共闘こそがナショナリストの任務である」と断言した。

共産党への接近と幻滅

このような新しい目的意識を持ちながらも、決して大きな組織ではなかったGSRNは、当初、出版とプロパガンダに重点を置いていた。しかしすぐ、より活発な行動に出る機会が、左派方面からもたらされた。
すなわち、1930年9月の選挙でナチとドイツ共産党{Kommunistische Partei Deutschlands,KPD}のどちらにつくかという問題をめぐるGSRN内部の論争は、ドイツ共産党が新しい党綱領「ドイツ国民の国家的・社会的解放のための綱領」を発表したおかげで突然解決したのである。
ドイツ共産党の新しい綱領には、ナショナリストの用語やナショナリストの要求がふんだんに盛り込まれていた。これは、ナチに奪われた(あるいは失う可能性のある)有権者を取り戻そうとする共産主義者の意図的な試みであった。
しかし、GSRNは、ドイツ共産党がナショナル・ボルシェヴィズムの方向に傾いている証拠ではないだろうかと思案した。ペーテルと彼の仲間たちは、共産主義者への固い支持へとこっそり傾いた。
このような経緯で、GSRNはドイツ共産党と同盟を組んだ。選挙期間中、ペーテルと彼のグループは、記事を書き、プロパガンダを撒き、共産党の集会で演説をして、共産党をいまや公然と支持した。この協力関係は選挙後も続き、GSRNはナショナリストたちに共産党と並んで闘うことを強く勧め、「ドイツは共産主義の旗の下でなければ資本主義の粉砕もできなければ、ヴェルサイユ帝国主義から自らを解放することもできない」と主張し続けた。
GSRNのメンバーは共産主義の雑誌に記事を書き、〈反ファシスト行動〉などのKPD組織に参加し、1932年3月と4月には、ドイツ共産党指導者のエルンスト・テールマン [1886-1944] の大統領立候補に対し、公式に支援を提供した。
ドイツ共産党の方はといえば、折に触れて独自の形式で支援を申し出ることもあった(たとえば、GSRNの機関誌『社会主義的国民 Sozialistische Nation』の配布を手伝うなど)。しかし、全体としてはかなり一方的な関係だった。
この相互性の欠落は、ドイツ共産党に対してそこそこの幻滅をGSRN内にもたらした。共産党はペーテルの運動を吸収し、合併することを目論んでいるのではないか、とペーテルが疑い始めたのは、大変もっともなことだった。
加えて、1932年が終わる頃には、ペーテルと同志たちはドイツ共産党のうたうナショナリズムについて、その誠実さを疑うようになっていた。
ドイツ共産党とGSRNの関係が悪化するにしたがって、両者のイデオロギー上の分断は更にはっきりしてきた。ペーテルと仲間たちは、彼らの最終的な目標──主権国家ソビエト・ロシアと同盟しながらも独立した、社会主義であり同時にナショナリズムである主権国家ドイツ──が、共産党の最終的な目標──国境なき世界共産主義──と根本的に相容れない、という事実から、もはやそう簡単に目を背けることができなくなったのだった。
それでも親共産主義路線でドイツ共産党を支持し続けていたとはいえ、この分断はGSRNの戦術に影響を与えた。ペーテルは1932年11月の選挙で闘うために、他勢力から独立したナショナル・コミュニズムの党を組織しようとした。しかし、新たな合法政党を設立するための人員と資源がGSRNには不足していたため、失敗に終わった。

ナショナル・ボルシェヴィスト宣言

『ナショナル・ボルシェヴィスト宣言 Das Nationalbolschewistische Manifest』は、1932年末から1933年初頭、ドイツが政治的混乱に陥った時期、ナショナル・コミュニスト選挙団を組織することを目指す二度目の挑戦の布石として、ペーテルによって製作されたものである。
ナチは支持を失い、共産党は票は獲得できても内部の派閥争いに苦しみ、ワイマール体制全体は崩壊寸前であるかのように思われていた。
しかし、ペーテルは予想もしなかった事態に見舞われることになった。彼が苦労して作った『宣言』が初めて出版され、配本された日──それはヒトラーが首相になり、勝利した日、松明を掲げた突撃歩兵が隊列を組んでベルリン市街を行進した日 [1933年1月30日] であった。
『宣言』の多くの部数が没収され紙屑となり、ペーテルは出版許可を早急に取り下げられ、彼と仲間たちの出版物は発禁となった。GSRNはドイツ国会議事堂放火事件 [1933年2月27日] の余波を受けて、他のコミュニストや「シンパ」グループとともに弾圧され、長くは持ち堪えなかった。

亡命

これを機に、ペーテルの活動は政府から多大な妨害を受けるようになった。とりわけ、ナチス政権にとって好ましくない人々と付き合い続けたためである。
ペーテルは1934年6月「血の粛清」(「長いナイフの夜」)に際し、裏切り者としてブラックリストに名前が載った。1935年に事態はヒートアップし、身の危険を感じたペーテルは出国を余儀なくされた。彼はヨーロッパを転々としたのちアメリカにたどり着き、学者として働き、市民権を獲得した。
晩年ペーテルはさまざまな著作を発表したが、そのうちのいくつかはドイツ・ナショナル・ボルシェヴィズムの歴史を詳述したものである。彼は1975年、ニューヨークで死去した。

(→ナショナル・ボルシェヴィスト宣言【2】に続く)

ペーテルとドイツ政治体制 略年表

引用はすべてペーテルとドイツ時代から親交がありのちにアメリカで共著を出したヘンリー・パクターのペーテル評「あるナショナル・ボルシェヴィストへの鎮魂歌」(『ワイマール・エチュード』)による

1906  ペーテル、ベルリンに生まれる
1914 [8歳頃] WW1勃発
1916 [10歳頃]ペーテル、ヒンデンブルク実科学校に通う(〜1923年)
1918 [12歳頃] 戦況による国民生活の悪化、ベルリンで大規模ストなど
  政府、休戦に向けて動く
  ヘルトリング内閣総辞職、社民党マクシミリアン新内閣がアメリカと交渉。皇帝ヴィルヘルム2世の退位を必要として拒否される
  一方、労働者と兵士のスト・サボによる実力行使の〈レーテ〉が各地に発生(11月3日キール反乱など)。皇帝退位を求める声が高まる
1918 11月7日 この流れでミュンヘン革命、バイエルン王ルートヴィヒ3世退位。
1918 11月9日 事態収拾を図るマクシミリアン首相、皇帝の退位を宣言。
  社民党エーベルト新内閣へ
  事態収拾を図らない独立社民党の急進的2派〈スパルタクス団〉〈革命的オプロイテ〉、革命とレーテ独裁を目指し内閣と対立
1918 11月11日 連合軍とドイツの休戦協定
1918 12月30日 スパルタクス団、カール・ラデックらを加えて〈ドイツ共産党・スパルタクス団〉結成。ドイツ共産党KPDの前身
1919 [13歳頃] 1月5日-6日 スパルタクス団の暴力革命失敗。国防相、WWI復員兵らを中心とする〈フライコール〉(ドイツ義勇軍)を利用し鎮圧、スパルタクス団R.ルクセンブルグとK.リープクネヒトら惨殺される
1919 1月19日 国民議会選挙 
  臨時大統領エーベルトと、シャイデマン新首相による社民党/中央党/民主党連立政府〈ワイマール連合〉発足
1919 4月 バイエルンで革命が起こり〈レーテ共和国〉樹立される。内閣は〈エアハルト旅団〉などフライコールを利用し鎮圧
1919 6月20日 シャイデマン、講和条約の条件に賛同できず辞任。バウアー新首相を立てる
1919 6月28日 ヴェルサイユ条約
  
戦勝国フランスが法外な賠償金を請求(2010年10月4日に完済。ナチは支払拒否、分断国家となった冷戦時代は支払いの主体が曖昧になったため完済が遅れた)
1919 8月 ワイマール憲法発布
1920 [14歳頃] 3月13日 カップ一揆。反動右派政治家カップ、エアハルト旅団の協力を得てベルリンへ進軍。
  逃げる際にバウアー政権は官僚や国民にゼネストを呼びかけ、カップ革命政府は機能せず失敗。続いてゼネストが解除を拒否しバウアー退陣、第1次ミュラー政権発足 
  エアハルト旅団、カップ一揆の失敗により非合法化され、独自の非公然武装組織〈コンスル〉となる
  地方でルール蜂起など、左右の反体制の武装蜂起続く
1920 6月 最初の国会選挙でワイマール連合退潮。左の独立社民党と右のドイツ国家人民党やドイツ人民党などが議会政治に台頭
1921 [15歳頃] 3月 ソ連コミンテルン、ドイツ共産党を指導しマンスフェルト占領を起こさせる
1922 [16歳頃] 6月-8月 コンスルによる政府要人暗殺相次ぐ
1923 [17歳頃] インフレ最高に
1923 ヒトラーら右派のミュンヘン一揆。その後ヒトラーは議会主義をとり、コンスルらと対立
1923 ペーテル、ジーメンス高等学校に通う(〜1927年)
  青年運動グループ〈ケンゲナー・ブント〉に参加、政治活動デビュー
  ハプスブルグ領内のドイツ語新聞『Deutschen Tageblatts』編集に加わる
1924 財政正常化。相対的に安定(〜1929年頃)
1928[22歳頃] ペーテル、教員を目指しフリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現在のベルリン・フンボルト大学)でドイツ語・歴史・哲学を学ぶ
1929頃 [23歳頃-] 再び経済悪化と政治的急進派の台頭
  ペーテル、左右混淆の地下組織〈青年労働者戦線〉で活動
  青年運動全般の中心的雑誌『きたるべきものDie Kommenden』に加わりユンガーと協働
  青年運動グループ〈ドイチェ・フライシャー〉のリーダーに

  ーーー「青年運動のリーダーには必要だったのに、彼は自然が好きではなかった。それもまったく好きではなかったのである。」ーーー

1930 [24歳頃] ペーテル、ヴェルサイユ条約反対運動に加わり逮捕、退学処分
  『きたるべきもの』『ドイツ青年運動のハンドブックHandbuch der deutschen Jugendbewegung』『社会主義国民Die sozialistische Nation』『反ファシスト書簡Antifaschistische Briefe』『若い民族Das Junge Volk』『政治時評Politische Zeitungenschau』などの刊行物で文筆活動
  ドイチェ・フライシャーと乖離
1930  5月 ペーテル、〈社会革命的ナショナリストグループ〉GSNR結成。〈青年労働者戦線〉の仲間ら合流
1930 9月 GSNR、ドイツ共産党の「ドイツ国民の国家的・社会的解放のための綱領」に共鳴、選挙支援
1932 [26歳頃] 3月-4月 GSNR、ドイツ共産党指導者テールマンの大統領選挙支援

  ーーー「赤軍を賛美する場合でさえ、彼は左翼の人間になるつもりは全くないと明言した。」ーーー
  ーーー「ヒトラーはプチブルのデマゴーグで、党綱領にあった反資本主義的信条をことごとく裏切り、資本家とうまくやっていけるように社会主義を反ユダヤ主義や反共産主義に取ってかえてしまった。これとは対照的に真のドイツ革命は社会主義でしかあり得ないし、ロシア革命と連携した場合にのみ勝利できるだろう、というのが彼の見解だった。」ーーー          

1932 11月 ペーテル、ドイツ共産党への期待を捨て、独自のナショナル・コミュニズムの党で選挙出馬を画策(失敗)
1933 [27歳頃] 1月30日 ナショナル・コミュニスト選挙団を組織しようと『ナショナル・ボルシェヴィズム宣言』出版
  同日にナチス政権誕生
  反体制右派への弾圧。コンスルの一部はドイツ国内の諸組織に入りこみ右からの反ヒトラー運動を展開
1933 2月27日 ドイツ国会議事堂放火事件
1934 [29歳頃] 6月 「血の粛清」で粛清対象に
1935 [30歳頃] 1月 チェコへ脱出
  『新世界の舞台Die neue Weltbühne』『新たな日記Neues Tagebuch』などの刊行物に執筆
1935 ナチス政権による欠席裁判で死刑判決
-1937 [32歳頃] デンマーク〜スウェーデン〜チェコ〜オーストリア〜スイス〜ベルギー〜フランスへ逃亡
  フランスで小規模グループ〈社会主義国民〉〈新たな始まり〉運営(〜1939年)。ヒトラー・ユーゲントに介入図る
1939 [34歳頃] ドイツ国籍剥奪
1940 [35歳頃] 2月−6月 フランスの捕虜収容所へ
1940 6月- リスボンへ
1940 12月 リスボン出国
1941 [36歳頃]  米国移住
  ヨーロッパ経済研究所や米陸軍の一組織である心理作戦部門で働く

  ーーー「彼は民主主義者でもなければ自由主義者でもなかった。彼は戦後に新たなヴェルサイユ体制が出現するのを恐れていたドイツの愛国者だった。」ーーー

1944 [40歳頃]  『ナチ・ドイツ語 現代ドイツ語用語集
Nazi-Deutsch: A Glossary of Contemporary German Usage』ヘンリー・パクターらと共著
1940年台-50年代 ユンガー論など多数執筆。雑誌『ドイツの現在Deutsche Gegenwart』編集
1952 [50歳頃] アメリカ国籍を取得
1956 [54歳頃] アメリカ「ドイツ記者クラブ」創設、理事を務める(〜1958年)
1959 [57歳頃] 「ドイツ・フォーラム」マネージング・ディレクター
1962 [60歳頃]  『ビート・アンソロジーBeat: Die Anthologie』ケルアックなどのビート文学をドイツ語訳 
1965 [60歳頃]  『危機か好機か ドイツ・ナショナル・ボルシェヴィズムの歴史についてVersuchung oder Chance? Zur Geschichte des deutschen Nationalbolschewismus』
1973 [68歳頃] 国際ドイツ記者クラブから表彰
1975 [70歳頃]  アメリカで死去

  ーーー「知的エリートは、大胆にも自国の人民を隠れ蓑にして歴史に「革命」をもたらそうとし、ナショナリズムの名前において、民主主義を欠いた「社会主義」を導入しようとしている。彼は、リベラルではない解放運動家であり、人道主義的ではない平等主義者である。」ーーー

参考資料:
NY州立大オールバニ校アーカイブKarl O. Paetel Papers, 1904-1984
ドイツ歴史博物館オンライン LeMO Karl Otto Paetel
ヘンリー・パクター『ワイマール・エチュード』(蔭山宏/柴田陽弘訳, みすず書房, 1989)
ウォルター・ラカー『ドイツ青年運動』(西村稔訳, 人文書院, 1985)
ジェフリー・ハーフ『保守革命とモダニズム』(中村幹雄/谷口健二/姫岡とし子訳, 岩波書店, 1991)作成:山本


ARPLANに掲載されたワイマール期の木版画。コンスタンティン・フォン・ミチュケ=コランデConstantin von Mitschke-Collande「自由」(1919)
フォン・ミッシュケ=コランドはオットー・ディックスらとともに〈ドレスデン分離派1919〉の創設メンバー。〈ドレスデン分離派1919〉は政治的に様々な芸術家が集まっており、フォン・ミチュケ=コランデは同メンバーのコンラート・フェリックスミュラーにオルグされドイツ共産党に入党、分離派を離れた。その後1922年、分離派は〈ラインラント若年者会〉の呼びかけたデュッセルドルフ〈国際進歩芸術家会議〉にドイツ各地の分離派やロシア構成主義・イタリア未来派らとともに参加。共通の利益をめぐり組合結成を画策する会議だったが物別れに終わる。新派閥乱立と左右混淆・国際協調の試みは政治活動界も芸術界も似ていたといえるか。

ナショナル・ボルシェヴィスト宣言やっつけ試訳シリーズ
【1】英訳者BOGMILによる解説
【2】エピグラフ/序
【3】幻視
【4】使命
【5】〈ナショナル・ボルシェヴィズム〉の10年

〜このへんまで訳したがあとはどうなるかわからない〜

若いナショナリズム       
国民社会主義の再建?※改革?
ファシストのミス
ナチスの歴史的エラー
ナショナリスト・コミュニズム
ナショナル・コミュニズムの貌
ドイツ共産党ではだめなのか?
戦争と平和
幸福か自由か?
「至高価値」としての国家
マルクス主義と国家の問い
農村一揆?
ドイツにおける農民の問い
連合国家か全体主義国家か? ※評議会国家か全体主義国家か?
社会主義
原理としてのプロシア
ナショナリストの要求としての階級闘争
ヴェルサイユ!
革命の外交政策    
新たな信念
国民の秩序 ※厳格な規律によって結ばれた国民の団体
待てる!


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