見出し画像

倶楽部サピオセクシャル日記116:自己主張しなきゃ透明人間? 今夜は存在を示すお作法とマインドを語り合う

早いもので、気がつくともう週末。先週のまとめを書き忘れていたことを思い出し、あわててパソコンを開いた。外は雨。テレビニュースでは天気予報士が菜種梅雨だと解説していた。

愛犬の散歩にもいけないので、まとめを書くにはちょうどいい。


◆アカデミー賞授賞式でスルーされたアジア人

今回のテーマを思いついたのはぼくである。きっかけになったのは3月11日に開かれたアカデミー賞の授賞式だ。アジア人差別ではないか、と思われる振る舞いが男女の受賞者において見られたのだ。

このことはSNS上でかなり大きな話題になった。実際、ぼくも動画を確認したが、非礼としか言いようのない振る舞いに見えた。プレゼンターを務めたアジア人俳優に対し、白人の受賞者は目も合わせなかった。

透明人間のように扱われるアジア人プレゼンターの姿に、ぼくが感じたのは危機感であった。考えを強く主張し、存在を知らしめなければ、国外では「いないもの」として扱われる。自己主張が得意とは言えない日本人にとって、これはゆゆしき問題であろう、と感じたのだ。

弊ルームでも前週、「アメリカ人に対しては特に、個性を見せつけなければ、仲間に入れてもらえない」という声を聞いたばかりだった。あえて声高に、「自分はここにいて、こんなことを考えているぞ!」とアピールすることが、このワイルドな世界では生存戦略としてとても重要なのだ。

今回、初めてルームを来訪してくれた方が、そんなぼくの見解に同意してくれた。アメリカで40年以上暮らしている方にとって、声高な自己主張はごく自然な振る舞いだという。

◆自己主張と自己表現と自己確立

自己主張は好きか? ルームの終盤、相方がそんな質問を口にした。ぼくの感覚では好き嫌いという評価軸にはあてはめにくいのだが、得意か不得意かというのであれば、得意な方だと思っている。

自己主張の基盤は確立された自己である。足元がしっかり定まっていないと、強い意見や考えを誰かに向けて投げるのは難しい。自分は何者なのか、という疑念は足元を不確かなものにする。

誤解のないように付け加えておくが、強い自己主張がよい、と主張するつもりはない。宗教や思想に帰依している人の自己主張は総じて強い。視野が狭く、自己が硬直しているため、強い主張が容易なのだ。

ルームでは自己主張と自己表現の違いも話題になった。感覚的な違いで言うなら、主張はなにがしかの圧に対抗する意見の提示、表現は単に見せたいものごとを他者に示す行為、といったところか。

この違いを認識した上で、再度考えてみたが、やはりぼく自身は自己主張が得意だと感じる。圧に対抗するバトルが好きなのかもしれない。

◆「おもさげながんす」から方言合戦に

自己主張も自己表現もたいていは言葉で行われる。外に出さないとしても、胸中で思考を組み上げる際には言葉を使う。聖書には「はじめに言葉あり」と書かれているそうだが、自己主張も言葉があって産生されるものだろう。
したがって、使用する言葉により、自己主張の性質も変わると考えられる。英語は構造上シンプルであり、語彙も少ない。そのため、英語による自己主張は単純でドットの粗いものになりがちだ。

日本語は精緻で階調が深い。語彙も非常に多く、地域の文化に根ざす方言には、特に独特の味わいがある。今回、ぼくはふと思いついて、「おもさげながんす」という東北の言葉を話題にしてみた。

浅田次郎氏の名著『壬生義士伝』で主人公の吉村貫一郎がしばしば使う言葉である。東北人の精神から産生されたものであり、標準語に訳すのは不可能だ。「申し訳ない」「ありがたい」「恐縮する」そんな意味を複雑に包含するため、親しんできた人でなければ、その深い意味を感じ取れないだろう。

常連の方が岩手県の出身と知っていたので、この言葉を出してみたのだが、驚いたことにアメリカ在住の方が同じく岩手の出身であり、話が弾んだ。アメリカ暮らしが長く、普段は日本語を使う機会がないので、日本語がスラスラ出てこなくなってきた、という自覚があったそうだが、東北弁になると立て板に水であった。

そこからの流れを受け、みなさんにも最後のまとめは方言で語ってもらったのだが、これがなかなか盛り上がった。はじめに言葉あり。ずっと言葉あり。ふと、そんなことを考えた。

◆まとめ

子どものころ学校で受けた教育はどちらかと言えば協調性に重心を置くものだった。労働集約的な働き方により、世界に伍していこうとする日本の社会においてはそれが正解だったのだろう。

時代が変わり、そのやり方では経済的なアドバンテージを実現できなくなった。効率無視のマンパワー勝負では、後からやってきた韓国や中国には勝てなかったのだ。結局、イーロン・マスクやザッカーバーグのような異端者が国の経済を牽引する時代において、自己主張を廃してきた我々は負け組に落ちた。

ついには透明人間扱いされているわけで、強烈な「個」を立てる文化をロールモデルとする社会へと舵を切る必要がありそうだ。ただし、日本においていきなりそういった方向転換はできまい。

文化的な資産を承継しつつ、ジワッと舵輪を回すのが賢いやり方だと思う。というわけで、次回のテーマは「アコガレとシット」。承継のベースには憧憬(しょうけい)がある。

お後がよろしいようで。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?