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倶楽部サピオセクシャル日記124:自分語り上等? 今夜は「お気持ち」の言語化と受け取り方ついて語り合ってみる

気づけば初夏の気配。我が家のベランダ下には田んぼがあり、この季節になると水が入る。満々と水がたまるのを待ちかねたように蛙が鳴き始め、耳から蠢動を感じる。

昨年来、仕事面ではちょっと停滞気味だった。なんとなく暇にすることが多い日々だったのだが、そろそろこちらも田に水を入れねば。今のお気持ちを言葉にすると、そんな感じ。


◆お気持ちのポジとネガ

今回のテーマはもともと、相方のつよぽんさんから出てきた。「感情の言語化について話してみたい」とのことだったので、その線でタイトルを考える中でふと浮かんだのが、「感情の言語化ははたしてポジティブな文脈のみで語れるだろうか?」という疑念だった。

「意馬心猿」という言葉がある。人の意思や心は馬や猿のようにウロウロと定まらないもの、という意味の四文字熟語だ。感情、気持ちも形をなさず移ろう。そのまま扱うのはたいへん困難であり、言語化は心理的な状況を理解する第一歩と言える。

その一方、ぼくが憂うのは「弱者が発したお気持ちは汲み取られねばならない」とする昨今の風潮である。お気持ちは環境からのアプローチに対する個人の感性、価値観の反応として発生する。

感性や価値観には人それぞれ大きな違いがあるので、特に負の感情を惹起しやすい出来事については個人が声にする「お気持ち」にはかなり大きな幅がある。このルームでも強者と弱者について語った回があったが、強者が気にしない振る舞いや言葉に、弱者が「傷ついた」と反応するケースは少なくない。

強者はなにも言わないので、表に出るのは「傷ついた」という弱者の言葉のみである。それを逐一拾うなら、社会は萎縮し弱体化するだろう。

実際、ルームの参加者の中にも世界的にそういった傾向が強まっている、という方がいた。個人的には、受け取る側にはある程度の「鈍感力」も必要ではないか、と思う。

◆言語化とマグロの解体

お気持ちの言語化については、スピーカーの方から興味深いたとえが出てきた。読み解く作業を「マグロの解体」になぞらえるというのだ。たしかに、お気持ちは通常、複数の要素が複雑に絡みあってできている。

解体しないと、なにがどこでどう作用しているのか見えてこない。そこで、解体作業が必要になるのだが、どこまで解体するのかは、ニーズやTPOに合わせて選べばよいわけだ。塊のままにするか、さくに切り分けるか、それとも刺身にするか。

ぼく自身は言語化したお気持ちを他者に投げるときに、同じようなことを考えている。塊のまま投げることもあれば、カルパッチョにすることもある。目的とそれこそお気持ち次第である。

ただ、言葉を扱う仕事をしているだけに言語化には困らない。使える言葉の数や感性によりお気持ちの表現における階調はより滑らかになり、深みを増す。このあたりは物書き稼業の副次的な利点と言えそうだ。

◆政治の話と感情の不適切な関係について

最後に少し政治の話が出てヒートアップしてしまった。あのときは、「関係のない話で時間をとってしまった」とみなさんに申し訳なく思ったのだが、思い返してみると、関係の深い話題だったかもしれない。

政治に関心を持つ人の多くは憤りを持って語る。もっと言えば、その声色からは怒りや巨悪に対する憎悪を感じる。政治家にそういった非難を受けるいわれなどない、とは言わないが、彼らも人であるという視点は大切だと思う。

自身もしくは自党の利益を追求する政治家、それに連なるマスコミというのは、近年定番化している認定だ。ただ、政治家もマスコミ人も、それ以外の職に就く人たちと何ら変わらぬ「個人」である。経済的には豊かな人たちなので、自己利益に対する執着はむしろ小さい。

国益を損ねてもいい、と考えている人はほとんどいない。彼らは彼らなりに、承認欲求もあり自己承認欲求もあるからだ。なにゆえ、好んで汚名を着るだろうか? 

人口減とアジア諸国の追い上げにあい、資源を持たぬ日本はジリ貧である。政治の舵取りでこれをプラスに持っていくことはほぼ不可能に近い。可能ならしめる方法があるとしたら、移民政策もしくはかつてのような「24時間働けますか」をやるしかない。

いずれも可としない国民に対して、「ならば挽回不能」と言わずに軟着陸を試みつつ希望をチラ見せするのが、今の政治家の仕事である。いわば敗戦処理と言っていい。貧乏くじを引かされた彼らは満身に怨嗟の声を浴びつつも、職務に邁進している。

その中において、当然のことながらミスはあるし不正もあるだろう。しかしながらそれは一般社会と変わらない。彼らの行為を厳しく監視するのは当然としても、そこに「悪への憎悪」を込めるのは選挙権を持つ身としては、いささか危険である。

マスコミについても同じことが言える。彼らが政治にのまれているのは、独自取材を重ねるだけの力を失ったからだ。端的にいうと、経済的な余力がないのだ。そうなると、大きな広告主である大企業におもねるのは必定。連なる政治家に対する忖度も必定だ。

清貧を貫くべし、とはたから求めるのは易い。だが、彼らにも暮らしがある。子どもの給食費だって支払わねばならない。メディアを批判する人には尋ねてみたい。「あなたは新聞を何紙とっていますか?」と。

私たちはみな、同じように欠陥を抱えて生きているが、巨悪が群れている組織というのはほとんど見たことがない。存在するとしても、寿命はとても短い。社会的に利他を標榜できない人間同士は組織として結束しにくいのだ。

感情に駆られると視野が極端に狭くなる。相対しているのが自分と同じ人間であることを忘れてしまう。視点が感情をゆさぶられるポイントのみに固定されてしまうのだ。

もちろん、政治家を評価する軸をどこに置くかは個人の自由だ。ただ、感情のせいで評価軸の多様性が失われるとしたら、そこには危険がともなう。歴史を顧みればわかる通り、たいていはろくでもない政治家が選ばれて大きな悲劇を生むことになる。

これはあくまで私見だが、各々が自身に益をもたらす人物に票を投じるのが民主主義の本道だと思っている。結局のところ、そうして集まった票数の偏りに合わせて、政治家が選ばれる仕組みを民主主義と呼ぶのだから。

利益を思うとき、感情は一歩後退する。少なくとも、家族や友人も含め、自分にとって大切な人の利益を考えるなら、感情に従っている場合ではない。大人とはそういうものであり、選挙権に年齢制限が設けられているのはそのためだと思っている。

◆まとめ

前回の流れを受け、感情――お気持ちは女性性である、との言葉も出た。なんとなくわかる気がする。生物の基本形は女性である。男性はもともと、多様性を担保するため、生殖においてのみ必要とされる一種のフリークなのだ。

同じく、感情は人の内面における基盤であり、モチベーションの源泉であろう。男性的な性欲すらその文脈で語れるかもしれない、とチラッと思ったのだが、どうなのだろうw

誰か、そんな話をしてくれる人がルームに来てくれたら嬉しい。


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