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ピンク映画と日活ロマンポルノ 12

ピンク映画で、常連監督組以外にも思い出深い作品はいくつかある。それらを少し書いておく。

1985年公開、新東宝「緊縛 鞭とハイヒール」監督北川徹(磯村一路)。この作品は、いろんな意味で思い出深い。他の役者さんとの出会い、役者とは、監督によって現場の空気が変わる、など当たり前のことが一つ一つわかってきた頃である。

ストーリーはタイトル通り、ハイヒールに憑かれたフェチ男の物語。しかしその男はいたって普通なデパート勤務のサラリーマン(牧村耕治)であり、その上司に憧れるOL(田口あゆみ)によって進められていく。そこへ突如現れる美容師でサディストの女(竹村祐佳)。その女が男の本心を見抜き、アブノーマルな遊びの世界へ誘導していく。遊びの世界でも助手を務めるのが、美容師見習いの女(早乙女)。見習い女のマゾヒズムを見出したのが美容師先生だ。この作品で私は不器用な見習い。いつも失敗をし、先生に怒られるが、いじめられると生き生きとしてくる。これは私の地でもあるか。

フェチズムに特化したこの作品は、明るい、あからさまなエロとは言い難いが、ピンヒールでプレイする様がふんだんに取り入れられ、ハイヒールフェチには見ごたえのある作品。緊縛は、以前から書いているスチールカメラマンの田中欣一氏。非日常を描いているため、緊縛も難易度の高い(肉体的にきつい)ポーズが多い。吊りシーンでも見た目にはあまり大したことないが、肉体的に中途半端なポーズで、実はこの時、腕の筋を痛めてしまった。これは未だに治らない(日常生活になんの不自由もないが、緊縛の後ろ高手小手ができなくなった)。いや、誰が悪いわけではない。どんなに縛り技術があっても、映画撮影は1カットに3、40分はかかる(以前はね)。縄を解いたり、縛ったりでは余計時間がかかるため、できる限り同じポーズで待機する。ちょっとした筋肉のバランスで痛めてしまうことが多い。仕方がないことなのだ。

この時女優竹村祐佳氏に出会った。祐佳氏の芝居に対する姿勢を間近に見た。あまり無駄口をきかず、台本と向き合う。私はあまり緊張感のある女優さんと出会っていなかった。私は密かに「憧れの女優」として、祐佳氏を見、「私は竹村祐佳氏を目指す」こんなことを思った。竹村氏は、児童劇団などを経て、ピンク映画女優となり、のちにベテラン男優久保新二氏と結婚をした(すでに離婚しているが)。私は久保氏とも面識があるので、結婚の時はびっくりした。久保氏はプレイボーイ(この単語も死語か)で有名。竹村氏と結婚前はある女優さんと付き合っていたのを知っていた。

監督北川徹は、磯村一路の別名。高橋伴明監督に付いていた助監督5人が組んだ、監督集団「ユニットファイブ」の一人。磯村監督は、物静かに話し、じっくり型の監督であった。私はSMものの作品数本に出演している。

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演技に厳しい渡辺護監督。主演女優は必ず泣かされるという。私は1本しか出演していない。1985年公開新東宝「秘肉なぶり縄」。ストーリーは忘れてしまった。ちょい役だったため、テストに3、4回の時間はくれるが、それでもできないと見ると、「もういいや、はい本番」。捨て去られていく。他の役者から指摘されても「もういいの」と突き放される。役者たちも皆、ピリピリしている。それもそのはずで、護監督はもともと役者であった。それが友人の紹介でピンク映画の脚本を書いたことにより、監督となったのである。監督デビューは1965年(昭和40年)である。

ずっとのち2007年頃、ある雑誌編集者の立案で、新宿「ロフトプラスワン」でピンク映画のトークイベントが開催された。私も出演したが、渡辺護監督も出演されていた。「私、1本しか出ていないけど、覚えていますか?」「ああ、キミくらいまでは覚えてるよ。早乙女クンだろ。そのあとは忘れちゃってね」もちろんリップサービスであろうが、自由に作れた時代までは記憶の奥底から抜けないのであろう。(2013年死去82歳)

2007頃ロフト

(ロフトプラスワンにて。中央/渡辺護監督、右/田中欣一カメラマン、左/早乙女)

1986年公開 大蔵映画「秘苑SM体験」監督西川卓。ストーリーは忘れてしまっているが、エピソードが忘れられない1本。不倫の男だったのか、ただ別れて忘れられない男だったのかも忘れたが、付き合っている時に買ってもらったおもちゃの指輪。これを捨てられず、思いにふけっている女の私。何だか70年代フォークのようなストーリーだったのを覚えている。その指輪、私が300円で買ったもの。それを未だに持っている。

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そして小さな公園のブランコに乗り、男との思い出を噛み締めながらジュリーの「時の過ぎゆくままに」を口ずさむ私。そしてその楽曲がBGMとしてかぶっていく、というシーン。助監督が「早乙女、すごいよ。ジュリーの楽曲と音程がぴったり合っていたよ」。こんな報告をしてくれた。もともとこの曲が大好きで、よく聞いていたからか。とにかくリラックスして現場にいたことを覚えている。共演者を覚えていないのが申し訳ない。

ピンク映画は何でもありな時代。その時代が変わろうとしていた。1986年は以前にも書いたが、AVが大流行となっていく。配給の新東宝は、すでにビデオ制作を始めてい、その女優を映画主演で使え、という話になってきた。片岡修二監督は激怒していた。「キャスティングも好きにできないなら撮りたくない」と半ばボイコットぎみであった。

私もいろんな意味で限界を感じていた。私の芝居のまずさもあるが、ギャラの未払いも多く、生活が成り立たない。そして、当て書きをしてくれる片岡監督が撮らないなら、もうピンク映画に未練はない、と思った。私は本格的にショーの世界(ストリップ劇場)にシフトしていった。

でも私は今でも思っている。このピンク映画時代が一番楽しかったし、好きな世界であった。今、いろんな監督たちに逢いたいなぁ。(トップ写真はワイズ出版刊行)


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