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思い出のフロアーショー3

ここで少しフロアーショーの歴史を紐解いてみたい。と言うと、小難しくなるか。そうではなく、お世話になった芸能プロダクション社長の話を書いていきたい。遠山プロダクション社長、故遠山政弘氏の話だ。

故遠山氏に出会ったのは1990年代後半であった。当時70代後半だったと思う。ふくよかでいつもニコニコしている良い人であった。プロダクションとしては歌手事務所であり、ヌードダンサーは、フリーランスを集めていた。関東近郊への仕事はいつも車で連れて行ってくれた。ダンサーだけの時もあったり、歌手と合同の時もあった。私はだんだん遠山氏の経歴が気になりだし、少しづつインタビューもどきをしていたのだ。

遠山氏の若い頃はバンドマンだった。12、3歳頃にクラリネットを初め、戦争へ突入。軍隊へ入隊し、五体満足で戻ってくると家が消失していた。そこで生きるために学生バンドを組んで、進駐軍へ慰問に出たと言う。

日本でもグランドキャバレーや、ダンスホールは明治時代からあった。昭和に入ってから秘密の演芸(ヌード)が時折行われ、逮捕事件が起こったりしていた。戦後、大箱店は進駐軍が入り、昼は日本人、夜は進駐軍などと分けて営業がなされていた。1947年(昭和22年)に初めてストリップショーが公に公開されてから、キャバレーなどでも公にトップレスでのダンスショーが始まった(もちろん警察の取り締まりとイタチごっこであった)。

遠山氏のバンドも昼間はダンスホール、夜はグランドキャバレーや進駐軍慰問などと忙しかったと言う。そうこうするうちに懇意となつた店の社長に頼んで「芸能部」と言うのを設立してもらい、手配師としての役割を担うようになったと言う。つまり、それだけ忙しく、自分たちのバンドだけでは回らなくなった、と言うことであろう。浅草にも入り興行師と出会い、浪曲や色物(曲芸、奇術、声色など)など、入れるようになったと言う。

1958年(昭和33年)頃から、大型キャバレーではショーが大掛かりになり、専属のダンスチームや外人のダンサーなども入り出して来た。そうなると手配師たちの数も増え、専門の芸能事務所もでき出してくる。1960年には(有)千草芸能事務所社長、キャバレーなどに踊り子、芸人を斡旋し、所得をごまかしたとして逮捕されている。5年間で1200万円の稼ぎがあったと言う。チェーン店のキャバレー、「ウルワシ」「ハリウッド」もこの頃オープンした。

そしてこの頃、舞踏ダンサーたちも自主公演の資金稼ぎで、キャバレーなどのショー(ストリップ劇場へも)進出し出した。そのため、男女ペアで踊る「アダジオショー」や、銅の粉を体に塗った「金粉ショー」が登場し、人気を集める。


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(写真は早乙女、1992年)さて話を遠山氏に戻そう。バンドマンである遠山氏に音楽の話を聞くと、嬉しそうに次々と話が進む。遠山氏は15名のビックバンドを組んでいた。「5サキソ、6ブラス、4リズム」と呼んでいた。5サキソは<アルト2、テナー2、バリトン1>、6ブラスは<ペット3、トロ3>、4リズムは<ギター、ピアノ、ドラム、ベース>である。楽曲は、戦前はジャズが禁止で、ハワイアンやタンゴを演奏していたが、戦後はスタンダードジャズとなる。進駐軍慰問では、カントリーミュージックが喜ばれていたそうだ。定番曲は「センチメンタルジャーニー」「聖者の行進」「ムーンライトセレナーデ」「ラ クンパルシータ」「ブルームーン」などであり、日本人のリクエスト曲は、浪曲から演歌へと変わっていったという。

1960年代後半。日本は高度成長期となる。キャバレー文化も大きく変わって来た。

続く



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