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思い出のストリップ劇場4 茨城県「明野大一劇場」

1980年代。茨城県には5館のストリップ劇場があった。その中でも一番街はずれにあった劇場。なぜ、ここに?といった田畑に囲まれた場所。当時の住所は真壁郡明野町新井新田74(現在は筑西市新井新田)。私はこの劇場にどうやって行ったか全く記憶がないが(おそらく当時懇意にしていたタクシーを使っていたのだろう)、電車の駅からはいずれも遠く、JR水戸線「下館駅」が強いて言えば近い。

 本当にこの劇場は行きたくなかった。私の所属するチェーン館であるので仕方なく行っていたが、劇場としてもSMは必要としていなかったであろう。ここは1970年代に芝居小屋だったものがストリップ劇場に変わっているが、ハード路線であった。
 私が入ったのは1987年からだが、ホン板真っ盛りで外人2名、日本人1名くらい。つまり香盤の半分はホンバンであった。そして「小部屋」と呼ばれる別料金でのサービスが繁盛していた(サービスはもちろん<ぬき>である)。むしろこちらがメインのような。
 朝一番から小部屋への予約を取り、時間つぶしに場内へ入る。サービスをするのはもちろん踊り子さんだ。おそらく開演前からスタートしていたのだろう。そして踊り子さんのこの「アルバイト」は、自己申告制であるので、出し物に関係なく、お小遣い稼ぎに、ここに乗る踊り子さんはほとんどやっていたと思う(当時)。
 こういった環境である。SMなんて場違いであることがわかるだろう。
私が受けたヤジでずっと記憶にあるのが、ここで掛けられたヤジだ。
 場内は広く、本舞台、ぼん、花道も長い。私が自縛をしていると、花道に足を掛けたおっちゃん、
「ねぇちゃんよ!そんなめんどくさいことしなくていいから、ちょっと開いて見せてよ!」
これ迷言だ。ムッとしたものの、その心理がわかりやすく、ミョーに納得した。

 そんな明野だが、場内を見ると、いろいろと工夫していた跡が見られる。舞台脇の頭上、キャットウオークのような透明の空中花道がある。もう使用禁止となっていたが。そして舞台脇には透明のシャワー室が作られている。おそらくお客様をあげて入浴ショーをしていたのだろう。当時はカーテンを掛けられ、客席から見えないようにし、使われていなかった。踊り子さんの洗浄場として使われていた。「ショー」としての工夫も虚しく、結果「マナ板ショー」になったのは地域と関係するのか、どうか、、。

 楽屋だが、当然ほとんどの踊り子が泊まりである。なので個室が多い。6、7室が廊下伝いにずらっと並んでいた。私は一人部屋だが、二人のところもあった。シャワー室が舞台袖であったため、楽屋から少し離れた別小屋に風呂場が作られていた。ここには日本人しか来なかった記憶がある。つまり外人さんは舞台袖のシャワー室で済ませていたということだ。この風呂場がクセモノで、秋口からは寒い。夏場には浴槽の中にへびがいる。脱衣所に虫がいる。ゲンナリ、、、。
 共同キッチンがあり、自炊する踊り子さんもいたが、食事はやはり弁当を取っていた。
 トイレ。廊下づたいに上手、下手と2箇所あった。が、片方は怪しい雰囲気であった。下手の方が嫌な雰囲気。入りたくない雰囲気。夜は絶対に使わなかった。噂では自殺された踊り子さんがいたとか、、。地方の劇場あるある物語です。

 この劇場で一番の思い出は「犯された」こと。いや事件ではない。踊り子同士でのことだ。
 オサダゼミナールで乗っていた時のまだデビュー間もない頃。同じチェーン館の先輩踊り子さんと一緒になり、長田氏とも仲良く話していたので、夜の飲み会に誘われた。長田氏はほとんど飲めないので、断り、私だけが2人の踊り子さんの部屋へ行った。日本酒を飲んでいた。実は嫌な予感を感じていたのだ。デビュー前、チェーン館の会長と話している時、
「俺がコースを切っているとわかるといじめられるかもしれないけど、気にするな」
というようなことを話していたことを、この時に思い出したのだ。これはきっと会長の女性問題にあるのだろう。つまり嫉妬から生まれるイジメ。
 おねぇさんたちから「どこのコースで入っているの?」など聞かれた時、
正直に答えてしまった。いや、他を知らないから。
「へー、ハギカンなんだ。そーなんだ」
ここから明らかに態度が変わった。話題が性的なものになり、一人の踊り子の目つきが変わった。「あー、食べちゃいたい」「やりたい」「犯したい」きっとレズだったのだろう。相方のおねぇさんも「じゃ、やっちゃえば」みたいな相槌をうっていた。私はどうすべきか、考え出すも案が浮かばず、モジモジしだす。「よし、押さえてやるからやっちゃいなよ!」そんな声が聞こえた瞬間、もう遅かった。ペラペラな部屋着にノーパン姿の私は、簡単にレズねぇさんに乗っかられていた。
 激しく突っ張ればよかったのに、先輩であること、これから10日間一緒にいること等を思うと抵抗できなかった。むしろ早く終わらせたかった。ねぇさんの性的な感情は男性と近かった。私を責め立て、高揚していると察すると、満足して離れてくれた。

 長田氏に半べそで訴えたが、「お前が行くからだろ。あんなやつの部屋に」。え、何か知っていたの?踊り子の付き合いかたを知らなかった私はそうか、行った私が悪いのか、と悟った。そして「踊り子さん」の闇も垣間見てしまった(もちろん当時の話である)。「NOと言えない私」をなんとか改めようと思ったのもここからだ。

 そして、閉館時などを調べようと思って検索したら今現在は「心霊スポット」としてのっていた。1994年摘発され、その後の経営不振により6月閉館。そして1995年1月放火により全焼したという。
 ストリップ劇場の放火、不審火は多い。摘発によりストリップ劇場自体の営業を終わらせることはできても建物の解体は難しい。権利関係が複雑になっているので、すんなりとはいかない。そこで誰かが「不審火」を企て全焼させてしまう。これはストリップ劇場が誕生し、繁盛し始めた1960年代からのあるあるだ。

 「心霊スポット」。噂でなくって、本当にいたんだって。明野大一劇場恐るべし。どんな記憶でも「残る」ということは大切だと思うので、ネットに上げてくれた方々に感謝します。

 これだけ書いていてもどんなステージをしていたか、日常生活を送っていたか、思い出せない。よっぽど嫌だったんだね。デビューから1991年まで5回乗っていた。

 水戸の劇場も1度乗ったことがあるが、ここは明野よりひどく、大部屋しかない楽屋で寝泊まりできず(外人が3名程いて彼女らのやりたい放題だった)、5日間はホテルを取った。そしてコース切りにもはっきりと「ここはSMいらないでしょ。もう入りたくないです」と初めて言ったのである。
 茨城県では性風俗店があまりなかったのかな。
 なんだか壮絶だったな。

http://ag-factory.sakura.ne.jp/



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