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ピンク映画と日活ロマンポルノ 1

私は1984年〜1986年位の足掛け3年間にかけて、ピンク映画と日活ロマンポルノに約90本位出演した。この本数は決して多い方ではない。

この当時のピンク映画に関わっていた女優で、年数を重ねている者であれば、100本位はいっていたであろう。つまりそれ位のスピードで制作されていたし、女優不足というのもあった。

私は役者に憧れはあったものの、勉強は一切していないし、不器用である。顔が可愛い訳でもないし、幼児体型だ。その私でも仕事があったのは、唯一得意分野「SMもの、緊縛もの」ができたから。これまでに書いてきたよう、緊縛モデルとしてデビューした私だからこそであった。

note「素人生撮りビデオ2」で書いた、ビデオ作品「ザ SM」のスチール写真を見た日活本社からオファーがきた。作品は石井隆原作「縄姉妹 奇妙な果実」監督中原俊だ。調布の日活撮影所内プロデューサー室で面接をした。しかし私はこの話が来る前に、日活ビデオ作品で「ホンバン女優」の一人として出演していたし、エロ雑誌のモデルをやっていた。このことに上層部は難色を示していた。「こんなキャスティングをしたことはないんです。今までやってきた仕事のことは内緒にして、ここからデビューとして頼みますよ」このようなことを言われた。どこの馬の骨とも解らぬ者が、かつての一流映画会社、ポルノにはなったものの一流意識を持って作っている作品に出演するなんて、噴飯ものであったろう。この映画作品は本社制作作品であったから。

日活ロマンポルノは3本立てで各映画館で上映される(他のピンク映画も3本立てだが)。その中で2本が本社制作作品。1本が外注作品で、予算がまったく違う。当時、本社制作の予算は1500万円〜。外注は500万円であった(ピンク映画は300万円〜350万円)。

一般映画会社「日活」は、台所事情により、やむなく1971年、ポルノ路線に変更した。1960年代後半よりピンク映画の需要は高まり、年間200本の製作本数を超えていたという。そこで日活は、会社をたたむより、屈辱的ではあるが、映画屋は映画を製作するんだ、と、夢のある作品「ロマンを紡ぎ出す、ロマンポルノ」と命名し、路線変更をした。このことにより、日活を去ったスタッフも数多くいるが、残った者たちは、情熱を込め、映画製作に挑んだ。女優は、ピンク映画界ですでに演じていた役者を引き抜いたり、劇団の役者をスカウトしていた。なので1970年代の作品は名作が多く、伝説となる女優もいたわけだ。

しかし1980年代になると、世の中の性風俗が変わり出し、エロ雑誌も数多くなり、ライトな性風俗店もでき出してきた(ノーパン喫茶など)。追い討ちをかけるように、1981、2年頃からはビデオ製作も始まった。わざわざ映画館に行かずとも、裸の女の子が手短に見られるようになったわけだ。こういう時代になって来ると、出演女優も自ずと変わって来る。そんな時代だからこそ、私がデビューできたわけだ。

そして1984年1月、撮影現場に入る。

続く



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