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思い出のフロアーショー4

1960年代後半、日本の高度成長期に合わせグランドキャバレーは次々に開店していき「社用族」という言葉が生まれ、接待費が使える大手会社員たちは高級キャバレーへお金を落としていく。また一方では、中小規模店で新規客獲得のため価格を落とし、営業内容もトークではないサービス、「ピンクキャバレー」なるものが登場した。1968年(昭和43年)「ハワイ」チェーンを筆頭に。

この頃、フロアーショーの仕事も激増し、専門誌ができた。(株)ジャルクから発売された「ショウインジャパン」という雑誌。隔月発売で、制作プロダクションや中小マネージメント事務所が宣材写真付きで紹介されていた。正統派色物演芸から、ヌードダンサーまで網羅していた。

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それから正統派グランドキャバレーと、ピンクキャバレーの生存競争となるが、「お手軽な性風俗」としてピンクキャバレーが一騎加勢して来た。ピンクキャバレーは今でいう「抜き風俗」である。パブリシティの多くがピンクキャバレーとなり、「キャバレー」と聞くと、「あのイヤラシイ店ね」と、勘違いされるようになってしまう。正統派グランドキャバレーの大箱店は、少しずつ閉店されていき、1977年(昭和52年)のディスコブーム、カラオケブーム時にお金のかかるバンドを縮小したり、取りやめたり、キャバレーからディスコや、大衆パブ、キャンパスパブ店へと変わっていった。

バブル期1985年(昭和60年)、新宿歌舞伎町に初のキャバクラ「キャッツ」がオープンした。この頃はお手軽風俗店も様々に出来だし、ピンクキャバレーも淘汰され出した。そしてここぞとばかりに、生き残っていたグランドキャバレーは、再びショーに力を入れ出したのだ。キャバクラでは、スタッフの女の子たちによるダンスショーをやっていた。つまり、素人対プロ、プロのショーを見せつけようと、いうことであったろう。

しかし、かつてのようにグランドキャバレーへ戻ってくお客様はそう多くなかった。むしろキャバクラの方がポピュラーになってしまい、キャバレーはマイノリティになった感が否めない。

1回目に書いたよう、私がフロアーショーを始めたのが1993年。まだ東京近郊にビックバンドを入れているキャバレーはあった。私が入ったグランドキャバレーは、新宿「クラブハイツ」(2009年閉店)「ニュージャパン」、蒲田「レディタウン」(2017年閉店)、鶯谷「新世界」「スター東京」(2005年閉店?現キネマ倶楽部)、「ハリウッド」チェーン、小岩、錦糸町、北千住、横浜「パリー」(2005年閉店)

中でも横浜「パリー」は閉店間際まで入ってい、ビックバンドを堪能していた。バンドでよくかかる曲は、「ムーン・リバー」「ミスティ」「素敵なあなた」「いそしぎ」「ラブレター」「サテンドール」「マンボNo.5」などであった。ここではホステスさんとの距離、付き合い方を学んだ。フロアーショーではまず、ホステスさんに気に入られなければ失格である。ホステスさんが、行われているショーのタレントさんを認めてくれれば、ついているお客さんに「ほら、チップ出してあげなさいよ」と助言してくれる。認めてくれなければ、知らん顔だ。お客さんも、お気に入りのホステスさんの顔をたてたいので、チップをはずんでくれる、ということになる。ホステスさんから「あなたの踊り綺麗ね」「面白い子ね」など声をかけてもらったのを覚えている。

そしてフロアーショーで学んだことはもう一つ。私は何者でもない、ということだ。ストリップ劇場で踊り子をしていると、個性を尊重される。ステージで綺麗な照明を当ててもらえる。マスコミへも名を出して売ってもらえる。そこで勘違いをしてしまうのだ。「私は売れている」と。一流ダンサーならいざしらず、たかがストリッパーである。裏街道なのである。フロアーショーでは、一応名前を出して宣伝してくれるが、誰であろうが知ったこっちゃない。名前でお客を呼べるには程遠いのである。芸事はそんなに甘くはない。そのことが重々身にしみた。身一つで人の心を動かすのは、本当に大変なこと。

魚津

フロアーショーから世に出た、バンド、歌手、演芸者は、ほんの一握りに過ぎない。フロアーショーへ出演するのは、夢をかけた挑戦でもあり、自分の腕試しでもあり、勉強の場でもある。本当にいい経験をさせてもらったと、今、しみじみ思う。グランドキャバレーがなくなってしまったことは、本当に貴重な文化が消失してしまったと、残念でならない。

楽屋1



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