見出し画像

「オサダゼミナール」            故長田英吉氏への詫び状 後

 「オサダゼミナール」とは、故長田英吉氏が作ったSM愛好者のためのショー、会合の名称である。若かりし頃は映画監督に憧れた氏。映画や歌舞伎が好きであり、他、様々なステージも観てきた。なので長田氏の感覚は、当時のSM愛好者のマニアックさとは少し違っていた。氏はプレイというよりもショーを好んでいた。

 1970年代。ようやく「SM」というフレーズが生まれた。それと同時にアングラ劇団が題材として飛びつき、「責め」を取り入れた芝居興行がいくつかできだした。長田氏はあちこちと飛んで観にいき、その中の一グループと懇意となり手伝うようになる。しかし所詮アングラ劇団。SMが分かっているわけではない。

 舞台を手伝うことは面白いが、SMに関して物足りなくなった。
「だったら俺が作ろうかな」
そんな思いで「実験劇 オサダゼミナール」が始まったという。1975年であった。

 そこから5年後の1980年にストリップ劇場に進出。
当時は「残酷ショー」と呼ばれていた演目。演る人(チーム)は少なかった。なので即座にトップクラスのギャラ、人気のチームとなったのだ。またこの背景には、当時SMを大っぴらに観れる、なんていう場所はまだまだ少なかった。本物のマニアにしか入れない空間(店舗やスナック)しかなかったのである。「SM」に興味を持ち出した初心者や、ミドルクラスは、こぞってストリップ劇場やアングラ芝居に足繁く通うしかなかったのである。

 こう言った歴史がある「オサダゼミナール」を私は引退に導いてしまったのだ。

 長田英吉氏64歳。1989年12月。この後社長となる「鶴見 新世界劇場」での引退興行。ここでは完全版の「オサダゼミナール」を演った。M女にもう一人、私の友人を呼び5日間交代で行った。
 そしてラストの挨拶で、長田氏はトレードマークの黒髪カツラをポンと取り、「これは今までの顔。これからはこの顔で社長をやります」と挨拶した。
 顔で笑って心で泣いて、、、。
 長田氏はこういう人である。

 1990年神奈川県「鶴見 新世界」社長。
私は自縛デビューである。
 この頃から自縛の踊り子が増えだし、「SM大会」の前兆が見え始める。
鶴新に入った自縛初心者の踊り子に対し、目を細めてロープレクチャーをしている。その姿は、孫に教えているおじいちゃんの優しい姿であった。
その姿を見ていると心が痛んだ。やはり人には得意、不得意がある。
事あるごとに「全く、まんまとハメられたよ」と呟いていた。
私は自分自身のことにかまけて、長田氏の愚痴の一つも聞いてあげられなかった。そしてその後悔から会いづらくなっていった。

1991年。船橋「若松劇場」の社長へと移っていたが、その経緯もなんとなくしか聞いてあげられなかった。
 その秋、私が「若松」へ自縛で乗る、というタイミングで長田氏は倒れ、救急搬送されていた。脳溢血であった。初日がすぎ見舞いに行くと、まだ半身不随で口が回らない氏の姿がそこにあった。
 私の顔を見た瞬間、長田氏は泣き出した。いろんな思いが吹き出したのだろう。私の心もきっと同じであった。しかし、私までが泣き出したらシャレにならない。私は泣かないよう歯を食いしばって、話せない長田氏に言った。
「早くリハビリして回復し、また一緒にショーをやろうね」
 とだけ言って病室を去った。そしてそれ以降見舞いにはいかなかった。

私は現実に逃げていた。
そして自分のことだけしか見なくなった。
その間、長田氏の相手、身の回りの世話をしていたのが長田一美さんであった。一美さんの献身の介護の末、オサダゼミナールは1993年復活した。

しかし長田氏の好きだった劇場の環境は、下降線をたどっていた。なかなか思うようには展開していかない。私とは違う興行主の手であったため、私も共演することはできない。

自縛ショー、女王様ショーとストリップ劇場でもSM系は突き進んできたが、それもパッとしなくなった1997年。船橋若松劇場から相談があった。
「オサダゼミナールと復活するか!?」
もちろん1興行の目玉としてであるが、歩み寄ってくれたことに感謝する。きっと劇場側としても気になっていたんだろう。
 6月。実に9年ぶりのコンビ復活。
はっきり言って縛る手つきは遅くなっていた(氏はスピードで縛るのが得意であった)。でもそんなことは何のその。舞台にかける情熱は全く変わっていなかった。いや、前にも増して気迫を感じた。客席からは「オー!」と声が上がる。
「ステージに出た時、お客さんがたくさん入っていると嬉しいね。よし、やったるぞ、と気合いが入っちゃう。俺はステージが始まるとすぐ夢中になっちゃうからな。真剣に見てくれて、拍手なんかされると、気合いが入りすぎて鞭を余計に打ったり、物を投げ飛ばして照明なんか割っちゃうからな」

 そして氏のステージを再び体感して、ふと気づいた。
私のショー構成、内容はもちろん違うが、考え方は長田氏のショーを無意識に引き継いでいた。エンターテイメントを考える。SMというより見た目を重視する。歌舞伎風の作品を作りたい、というのは、まさしく長田流であった。私はやはり長田英吉氏から学んでいたのだった。

 その後はまた別々の活動をしていたが、私が若松劇場でSM興行のプロデュース公演をした時に必ずお願いしていた。しかし年々体力が落ちていくのが目に見え、10日間から5日に、3日に、として、何としてもステージ活動ができるようにとしていたが、正直、若松劇場の当時の社長からは「長田センセ大丈夫なの?何かあっても責任取れないよ。そろそろ考えてくれないかな」と案に断られていた。その言葉は確かにそうだ。実際、舞台から落ちたり、急な体調変化など見られるようになっていた。でも、せめて1日だけでもどうだろう、、、などと考えていたが、その時は急にやってきた。

 2000年12月。75歳であった。


 最後に私の自慢だったことは、当時住んでいた部屋にパイプを組んで吊り場を作っていた。ステージと同じ作りで、これは長田氏が一人で組んでくれた。鉄パイプ15本。要した時間は6、7時間。楽しそうに吊り場を組み、中央に滑車を取り付けるとご満悦であった。この吊り場があったことで自室で練習ができたこと、そしてやすらぎの空間としてずっと見守っていてくれた。

 私のショー作りの原点は、「オサダゼミナール」長田英吉氏にある、とはっきり言える。
長田センセ、ありがとうございました。

オサダゼミナール宣材写真


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?