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思い出のストリップ劇場2 群馬県「太田第一劇場」

 自縛デビューした私がお世話になった劇場事務所は「ハギカンチェーン」と呼ばれていたところで、会長である「ハギカン」(通称)が持っていた小屋をグルグル回された。つまり初期の頃はよその劇場に乗ったことがなかったのである。
 しかしチェーン館のほとんどは本番小屋。ショーを観よう、などというお客さんはほとんど皆無であった。

 1987年「オサダゼミナール」、初めての「太田第一劇場」は大型駐車場があり、いつもトラックが何台も止まっていた。住所は太田市東小金井3281。太田桐生IC近くだったかもしれないがよく覚えていない。最寄り駅太田駅からも遠く、コンビニも多くない時代、買い物は従業員に頼むか、興行が終わってから従業員に車を運転してもらい、踊り子同士募ってコンビニへ出た。

 ここはトラック運ちゃんも多いが、付近のおじいちゃんたちも多かった。早朝割引で入り、夕方までいる。確か2千円位。めちゃ安いでしょ。おじいちゃんたちは弁当持参で来る。自分のお腹と相談して、適当な時間に食べている。踊り子さんを観ながら。なんとも贅沢な時間であったろう。

 踊り子は外人もいて、基本皆泊まりだ(泊まりはシーツ代が引かれる)。
 大まかな香盤は、本板2、ソロベット1、タッチ1、ポラ1、特殊1、という6人構成だ(特殊は、花電車、白黒、SM,自縛)。食事は、昼夜2回の弁当配給(弁当代は引かれるが)。酒類は配達してくれる。
トイレはお客様と同じ、入り口脇にある。

 この劇場は広い。本舞台は大きく3、4メートルのタッパもあり、花道が長く、大きなボンがある。
 自縛デビュー後の1990年に乗った時、私は思いっきり踊れる喜びを感じた。「ディアボリック幻想曲」を演じる際2曲めの激しい曲では、クラシックバレエのいろんな手を混ぜ、飛び跳ねて踊っていた。演技というより「発散」していた感じ。
 場内の壁は黒く塗られていた。これは楽屋の壁も黒だった。汚れが目立たないからこうしたのかもしれないが、10日間、黒の中に囲まれていると、黒好きの私でもさすがに気分はどんよりしてくる。

 楽屋は舞台裏に簡易楽屋がある。鏡前だけが並んでいる楽屋だ。出番前だけに使うところ。基本泊まりなので、他は個室がたくさんある。私は独りで使わせてもらっていたが、他は二人使いなどあったかもしれない。
 人見知りが激しい私は、個室で助かった。他の踊り子さんとの交流をほとんどしなくて済む。私はここに閉じ込められていても有意義に過ごすんだ、と気負っていたかもしれない。
 いや、ギャラを頂いているのだから「閉じ込められて」という言い方は失礼だと思うが、当時は(これは軟禁だ)位に感じていた。
 なので1日の過ごし方は、早起き(といっても9時過ぎだが)して付近の散歩(畑しかなかったと思うが)、楽屋では本を読み、原稿を書き、次の作品の構想を練るなど、とにかく前向きになるよう気分を高めていた。他の踊り子さんから「いつもどこ行ってるの?散歩?そんな疲れることよくするね」などやっぱり変わった人だ、と思われていたようだ。
 ピンク公衆電話が簡易楽屋内とロビーにあり、プライベートな電話をする時にはロビーの電話を使っていた。楽屋の電話では声が筒抜けだからね。だけどピンクだ。古い機種のピンク。10円玉しか入らない。電話をするたびに事務所で10円玉に両替してもらう。3分で10円だったからな。ひとたび電話をすればフラストレーションが出まくり、長電話となる。これは女子ならではでしょ。

 踊り子さんとの交流を避けていた私だが、友達になった踊り子さんもいる。一人はソロベットのお姐さん美川友美嬢(通称友ちゃん)。歳は私より下だったが、18歳でデビューしたとのことで、もう4、5年は経っていた。衣装がとても面白かったので声を掛けたのがきっかけだった。タイトドレスだったが、生地が着物の帯の生地だった。衣装を褒めると「でもね、お姐さんたちにこんなのだめだ、おかしいって言われてるの。私はカッコイイと思ったんだけどね」これを界に、彼女と楽屋を行き来して話すようになった。

 そういえば私は、踊り子業界のことを何も知らない。「オサダゼミナール」の時も個室だったし、大部屋の劇場でも常に長田氏と話していたから。そこで私は彼女にいろんなことを聞いて教わった。デビュー時は特定のお姐さんについて教わること、教わったお姐さんの弟子として芸名も同じ苗字か、その1文字が入る名前にする。そのお姐さんの言うことは絶対である等々、かなり厳しいものであった。そうか、個人の自由はないのか。これでは新しいものが生まれにくい、いずれ消滅してしまう、とふと考えたものだ。
 この友ちゃんとは、この後も都内に乗ったとき飲みに行ったが、携帯もそれほど普及していない時代、連絡先もわからず、それきりとなってしまった。都内で会ったとき「私、天板(お客さんを上げておもちゃで遊ばせる)してるの。もう「ソロ」じゃコース無いしね」。なんだか荒んだ感じがした。

 もう一組。これはAV界のスター小林ひとみ嬢のチームショーが太田に乗ったときである。私は偶然にも舞台稽古を見せてもらった。4人編成のチーム。小林ひとみ嬢、井上あんり嬢、東山絵美嬢、ニッキー順氏らはとてもフレンドリーであった。そして私は演出されたそのステージに魅了された。多分自分の思いを話せる人が欲しかったのだろう。いつになく多弁になり、皆と仲良くなった。
 当時このチームのマネージャーをしていたのが、今、緊縛師の奈加あきら氏である。そして東山絵美嬢が奥様となっていた。まさか後にそんな出会いができるとは思いもよらなかった。奈加氏と初めて会った時「皆んなから聞いていたよ。早乙女さんのこと」と言う言葉で、思い出話しに花が咲き、何度かご家族と共に飲みに行った。

 こんな太田劇場のことを書いたのが、宝島社 別冊宝島「変態さんがいく2」である。私が初めてストリップ劇場のことを書いたエッセイであった。

 最後にここのトイレ、心霊スポットであった。「劇場あるある」だが、トイレが一番まずい。昔の踊り子さんが自死したのが大概トイレであった(トイレしか一人になれる場所がないからか)。「個室の奥から何番目」と指定されて伝わっていた。私は何も観ていないが、常に嫌な感じがして、夜中は絶対に行かなかった。

 この劇場が閉館したのがおそらく1992年頃、本板で摘発されそのまま閉館になった気がする。地方はソープランドが無い代わりにお目こぼしがあったそうだが、もはやこれまで、といった感じであろう。

 当時社長だったご夫妻、とても良い方たちであった。奥様は元踊り子さん。劇場の環境は嫌だったけど、ご夫妻に会える、と思うと苦が安らいだ。なので逮捕されたと聞いた時は心が傷んだ。しかし、劇場の社長をやっている限り、これが運命という時代だった。


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