ピンク映画と日活ロマンポルノ4
1984年頃のピンク映画配給会社は、東活の他、新東宝、大蔵、ミリオンフィルム、東映セントラルとあり、華やかな時代だった。一方、女優不足でもあった。1970年代から活躍していた先輩たちは、日活へ行ったり、引退したり、世代交代になりつつあった。配給会社は新人女優を欲しがったため、女優の垣根が低くなる。演技はどんどん置き去りにされ、「穴を開けない」「時間厳守できる」「撮影待ち時間も文句を言わない」これさえできていれば、仕事は次々舞い込んでくる。
当時ピンク映画界は、ほぼ朝7時半集合。集合場所は、新宿西口安田生命ビル前か、スバルビル前。渋谷の場合はパンテオン前。ロケバスなんてものはなく、9人乗りのバン1台のみ。他にあっても、スチールカメラマンの乗用車1台である。なので朝イチ、集合場所に来る役者は、2〜3人でないと車に乗れない。あとは現場に直接来るわけだ。狭い車内でのメイク、着替え、これができなければ一人前ではない。早着替えの技はこの時つちかわれた。
常連組1 新田栄監督 (インタビュー1992年)
東活、新東宝、エクセルフィルム(日活系)を撮っていて、私はその8割方に出演していた。新田監督は、東活で鍛えられたからか、他社作品でもカラミシーン重視で、芝居よりも断然カット数が多い。ひとカラミ30カット位あってカメラマンも「まだ撮るの?!」と根をあげるほど。指先、つま先、体のしなり、顔、精液が流れる内腿などなど、、、。なぜそこまでカラミにこだわるのか。
新田監督「そりゃ、お客さんのためを思ってさ。一般映画にはストーリーなど太刀打ちできないわけだから、せめて、お客さんに満足してもらえるよう、勃ってもらわないと。お金を払って入場してくださるんだから。いや、私だって映画が好きだから、監督になったんだから、本当はストーリーで、人情物や、ロマンものなんか撮りたいよ。だけどピンクは予算がないからね。それに今、本当に芝居をやりたいという女優がいないし、勉強している女優もいないしね」
1960年に芸名北村淳で役者デビュー。テレビが流行りだした頃、映画界からはテレビを「電気紙芝居」とバカにされていた。それでも食うためにテレビのドラマにも出演する。それでも食えなくて、現場好きだったゆえ、映画やテレビの撮影現場で、小道具や助監督のバイトをしていたという。そんな折、ピンク映画が流行りだした。1963、4年頃のことだ。映画作品で芝居ができると、ピンク映画に出演しだし、持ち前の二枚めぶりが買われ、すっかりピンク映画に浸かってしまったそう。そんな時代から1980年代はすっかり変わってしまった。
新田監督「全くひどいよ。セリフは覚えて来ないし、固くなっちゃって歩くことすらできない。特に<アダルトビデオ女優>なんて言って周りがチヤホヤするからいけない。ちょっと注意するとすぐ泣く。そんなの女優でもなんでもないよ。だから<おねえちゃん>でいいの」
そう、新田監督は、女優の誰でもおねえちゃん、と呼ぶ。常連の私も撮影中はおねえちゃんだ。そして私も芝居はできなかった。監督は細かく演技をつける。「そこで目線をスッとそらせて、、、下を向く。そう、顔の向きは変えないで、目線だけ動かして、、、」うまくできないと、監督がやって見せてくれる。私はそれを真似る。そんな演技指導を受けていた。
1985、6年以降になると、配給会社から主演はAV女優で、とあてがわれる。そうなると予算は益々ひっ迫して来る。ギャラが高いAV女優のギャラを会社では持ってくれない。
新田監督「だから今(1992年)、撮影は3日間。1日100カットは撮らなければならない。もうメシ食う暇もないよ。私は撮るの早いから徹夜にはならないけど。だから芝居を1から教えてる時間がない。セックスシーンだけ、きちんとやってくれればそれでよし、ですよ」
あー、このインタビューからはや30年、、、。新田監督も83歳になられている。お元気だろうか。私は連絡不精なので不義理をしているが、優しい監督であった。
続く
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