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ゆうれいみたいね

自分がこの1年間慕い続けているひとが、研究所を去ってしまうまで、あと2週間になった。

「来年はもうこんなことも出来ないから」と泣いてしまった夏の帰り道から半年。「そんなことないよ、来年もいるかもしれないし」と笑いながら言われても、大好きなコンビニアイスを買い与えられても、首を横に振って泣いた。絶対にその日が来ることは分かっていたから。

あっという間の1年間で、毎日がまるで魔法のようだった。1日1日の、生活の積み重ね。研究終わりにどうでもいいことを喋ったり、一緒に夜道を歩いて帰ったり、スーパーに売れ残りのお惣菜を買いに行ったり、自転車を15分こいで回転寿司を食べに行ったり。こんなに当たり前で、なんでもない日常を愛しく感じたのは初めてだった。

コロナがなかったら、もっといろんなことができたはずだった。閉じた日常の中で、外に誰かと出かけるということを私は何より楽しみにしていた。「○○に行きたいね」と言ったことの大半は叶わなかった。1年間で実現したのは、動物園と初詣に行くことだけだった。機会を伺っているうちに、忙しい日々のなかに葬られてしまった。

「映画を見に行きませんか。公開からかなり経ってしまってる映画なんですけど。」
一緒に居られる時間が、残すところ2週間となった今日、思いがけないお誘いに私は少し驚いてしまった。

だって、一昨日は「お鍋をしよう」と言って念願のお鍋パーティーをしたし、今日は「えびとりをしよう」と言って、川にえびを捕まえに行ったよ。仕事の引き継ぎや引越しの準備もあるのに、私とばっかり遊んでていいはずないでしょう?論文もまだ終わってないのに。

そんなことが頭をよぎったが、口から出るわけもなく、ひとつ返事で「行きたい!」と返した。その映画は、巷で話題になっている恋愛映画だった。映画に誘われることだけでも嬉しいのに、それも「花束みたいな恋をした」だなんて。少し気になっていたけどいっしょに見に行けるような人もいなかった。嘘じゃないかな。

予定をふたりで少し考えて、次の水曜日か、木曜日のいちばん遅い時間で見に行こうということになった。こんなに楽しみなことが続くなんて思ってもなかったし、なんども念の為確認したけど、冗談じゃなくて本当に見に行ってくれるつもりのようだった。


昨日の晩は泣いていた。思ってること全部ぶつけて、私は正面から向き合ったつもりでいたけれど、けっして首を縦には振ってくれなかった。「僕も自分の気持ちが分からない」と言われた。私に悪いところや直すべきところはないけど、そういう問題じゃないと言われた。そういう問題ならまだよかった。だって未来の可能性は0じゃないということだから。

自分の気持ちがわからないのに、頑として受け入れようとはせず、「そういうことじゃない」と言えるということは、もうこの人の中でそれが答えなんだと思った。どうにもできないのが悔しくて泣いた。

「○○(私)さんの言葉を聞いていると、僕も胸が締め付けられる。」と言われた。でもそれは相手の希望に添えない自分の不甲斐なさと申し訳なさ、そして少しのエゴからくる感情だと私は身をもって知っていた。私が別れを告げたとき、まだ私のことを思ってくれている彼氏の言葉を聞いて、似たような気持ちになったのを思い出した。人の胸を締め付けるのは簡単だけど、人の心を動かすことはなんて難しいことなんだろうと思った。

そして、去年のいつ頃はあんなことをした、こんなこともした、でもあれはできなかったね、と話しながら帰った。羅列していくと、できなかったことのほうがやっぱり多かった。

「そうですね、したかったですね」と言うだけの人に、「でも付き合ったら、まだこの先で実現させられるんですよ」と冗談めかして言いたいのをぐっと堪えながら、自転車を押した。もう一度蒸し返すような勇気と図々しさは持ち合わせていなかった。自分たちの関係は、本当にあと2週間で終わってしまうんだなと思わされるのが痛くて、振り切りたくて、いつもよりずっと早足になってしまった。


だから映画に誘われた時、自分のことをゆうれいみたいだと思った。たぶんこのひとは、残り2週間で私の願いを叶えられるだけ叶えてあげようと思っている。自分の都合はさておいて、私を毎日笑顔にしてくれようとしている。私が今後、自分と過ごした日々に囚われ続けないために。果たせなかった約束を数えて眠ることがないように。はやく私が成仏して、次に進めるようになるために。

ここ数日間のできごと全てをひっくるめて考えた結果、辿り着いた悲しい結論。相手の優しさは思っていたよりずっと重くて、痛かった。

叶えられなかった約束の数だけ、可能性があると信じていたかった。そしてそれを宝物のように胸に遺して生きていきたかった。でも相手にとってそんな私は、後ろから袖を引っ張り続けるゆうれいみたいな存在にしか、なり得ないらしかった。今まで、自分のわがままに付き合ってもらって笑顔にしてもらえることが、こんなに辛いと思ったことはなかった。これ以上ついていくことができないのは諦めていたが、ただ信じて待ってることもできなくなるなんて思わなかった。


私があと2週間で成仏するのが相手の願いならば、ゆうれいはゆうれいらしく、ふわふわ従うしかないんだろう。ありふれた恋愛映画なんてこれからも続々公開されるし、そんなに急いで見に行かなくてもいいのに。1ヶ月先でも、半年先でもいいのに。でも来週に、私は映画を見に行かなければならない。だって「映画をいっしょに見に行きたい」というのは、私が半年間言い続けてきたことだったんだから。

そしてそれが叶ったあと、たぶんあの人は私を回転寿司に行こうと誘うだろう。いやもしかしたらあのラーメン屋さんかも。なぜなら私が前に行った時に「○○さんが行ってしまう前に、もう1回食べに来れるかなあ。」と悲しそうな顔で言ったから。あのひとは優しいから、きっとそれを覚えていて、ちゃんと叶えようとしてくれるだろう。あのひとのなかで私は、2週間後に幸せなまま消える運命なのだ。


お別れする最後の日は、1枚だけ一緒に写った写真を撮ってもらう約束をした。いちばん可愛くてお気に入りの服を着てこようと決めた。綺麗な化粧が泣いて崩れないように、その日までにいっぱい泣いておこうと決めた。だから来週の映画もきっと泣いてしまうだろう。あらすじやキャストすらも観るまで知らなかったくせに、一丁前にラストシーンで泣くんだろう。

私は毎日少しずつ透けて消えていく。あのひとの隣に写るのは、ゆうれいじゃなくて生まれ変わった生身の人間でないといけないから。満面の笑みで写真を撮ってもらうその日まで、私は毎日少しずつ幸せになっていく。


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