見出し画像

村山由佳祭り、ここに完結。

敬愛する作家・村山由佳さんが26年間かけて書いた「おいしいコーヒーの入れ方」シリーズ。
つい最近完結した最終巻を、先日読み終わった。

この物語で出会った時、私は14歳。

主人公の勝利は17歳の高校2年生、ヒロインのかれんは22歳で新社会人になるタイミングだった。
最終巻を読むにあたって、私は1巻から読み直し、1巻ごとの感想や心に刺さった言葉を書き留めながら、読み進めた。そのメモによると、物語では5年強の時間が描かれている。

当然、私は主人公たちの年齢をとうに超えた。
そればかりか、キーパーソンである、人生経験豊富で思慮深く男の憧れ的に描かれている喫茶店のマスターの男性の年齢も、私は通り越しそうになっている。

この本を初めて読んだ時、主人公の置かれている立場を、追いかけるようにしてページをめくった。身近な大人に見えた高校生の生活、未知の領域だった大学生活、憧れの一人暮らし、恋におちた者が恋を壊しそうになりながらも育んでいく様子、働くということ。誰かと人生を生きるということ。自分の場合はどうなるだろう・・・と思い、ドキドキしながら読んでいた。

でも、不確定な未来として捉えていたものの多くが、経験済になり、私なりのストーリーを持ってしまった。その上で本を読んでいくと、当然ながらそれらは自分にとっては既知のもので、他人のケースを眺めているようにしかならなかった。寂しかったが、それも時間の経過というものだろう。

でも、喜びも多かった。それは、今までは意識もしなかった文章に目がいくようになったこと。自分が経験したことは、答え合わせや納得感を持って読めた。自分の中で解決や消化をして、気持ちよく心にしまっていた過去のことだ。それ以上に、分析しないであえて放置していた心の澱を、明文化して目の前に出されるのは、苦しくもすっきりする気分だった。まるで名言集なのでは、と思うくらい付箋を貼りまくった。

そして、これは初めて気がついた。
自分が普段口にする言葉が書かれているのだ。私と同じこと言ってない?と思うのだが、驚くことはない。私が完全にこの本の影響を受け、しらずしらずに自分の価値観と同化させてしまっているのだ。自分の言葉と感覚としてもっていたものが、この「おいコー」シリーズ由来だとは。
表現として使う「私の一部は、この作品でできています」が本当に起こり得るとは思わなかった。

そう、この作品は、私の好みの結集で、そのものが宝物だった。
それを読んでいて、改めて気づいた。

私は常々、「私は〇〇が好き」というのが難しくて、そんな自分が好きではなかった。好きなものはわかる、それを羅列することはできる。でもその中に共通している要素とか、集約する世界観、それを自分なりに分析し言葉にすることをしてこなかった。
書道のものづくりを仕事にしたり、小説を執筆しているなら尚更。「怠ってきた」といってもいい、自分の琴線についての分析が、読んでいてひとりでに行われた。

このシーンが好き!→なぜ好きなの?→○○だから→まとめると、こういうことだよね?
という問いかけが、頭の中でバンバン繰り返された。

文章に感動する心。
物語の大枠を見失わないように、俯瞰から観察する心。
執筆の参考になるものを逃さないように見つける心。
好きを抽出して分析する心。
自分の経験をひっぱり出して、照合する心。
そこで何かに気づいて、考えを流転させていく心。

心の中に役割を持った人たちがいて、その人たちが全員全速力で走っている感じ。脳内がビシビシした。多分、なんとかハイの類だと思う。

そうして読み終わった本の隣には、word15枚分のメモが残った。これはきっと、私の好きの源泉なんだろう。これをひとつひとつ紐解いていこうと思う。何よりも、この作品が自分の原点であり、宝物だって胸を張って言える。そう確信できたのが何より嬉しい。そして、この作品は折に触れて、私は何度も読み返すことになるのだろう。

そして、この物語が完結したことで。
この登場人物たちの未来が進んだところで、確実に、私の人生も変わる気がした。いや、変わらないと。走り出さないとって感じだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?