2005年01月22日(土)

 冷めた白い日差しの下、鴎たちが休んでいる。十羽、いや、二十羽近くいるだろうか。海風がくるくると回りながら吹きすぎる中、じっと地べたに座っている。少し離れたところから、私は彼らの姿を眺めるでもなく眺めている。このままもしこの方向に歩いたならば、彼らは私を避けて羽ばたくに違いない。だから私は、少し後戻りをする。
 平日の昼間、人通りは少ない。美術館の裏の水鏡が、細やかにさざなみだっている。その脇では、幼子が母の手を離れ、先ほどから段差をのぼったりおりたりを繰り返している。時々かくんと体が落ち、けれど彼は、それさえもが楽しいといったふうに満面に笑みを浮かべながら、ただのぼったりおりたりを繰り返す。
 久しぶりにモミジフウの木の下に立つ。もうすっかり葉を落とし、今彼らの枝にぶらさがっているのは、あのとげとげの実のみ。強い風が吹き上げると実もぶるんと震える。からんころん。そんな音はもちろん存在しないのだけれども、震える実から私の耳へ、風を伝って、そんな音が伝わって来るような錯覚を覚える。からんころん、からから、ころん。
 埋立地の中はどうしてこんなにも忙しいのだろう。いや、今こうしてここに佇んでいると、人影も疎らで、空間がぼんやりと横に広がっていて、その様子から直接は決して忙しさなど伝わってはこない。ただ、この間まであった建物があっけなく壊され空き地になっていたり、逆にこの間まで空き地だったはずの場所にあっという間に新しい建物が組み上げられていたり。そうやって次々変化してゆく様は、休む或いは佇むということを知らない、常に何かに追われて怯えている小さな獣のように見える。この土地に逞しさが産まれるとしたら、それは一体どのくらい先なのだろう。その時私は、何処にいるだろう。

 あと少し。あと少しで十年を終える。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。そんなふうに夜を数える間もなく、じきに十年が終わる。十年が終わったその瞬間、私は、十一年目という時間に足を踏み出すことになる。それはそのまま、私が十年を生き延び、十一年目という時間を生き始めることを意味する。
 「十年ですね。時薬は効いていますか。」
 先日友人から届いた一行の手紙を、私はまた思い出す。時薬は効いていますか。時薬は効いていますか。どうなのだろう、効いて、いるのだろうか。
 十年を生き延びるということが、時薬の効き目ゆえだとするならば、間違いなく時薬は効いていたのだろう。けれど、そもそも時薬とは一体何なのだろう。私にはそういった実感がない。時薬、それは、私があの記憶を風化させ、慣れてゆくことを示しているのだろうか。それとも、共に生きてゆくことを覚悟した時に生じる力のことを意味するのだろうか。それとももっと別の意味なのだろうか。
 そうして考えてゆくと、十年という時間は、まだまだ短いように思える。淡々と思い出せるようになる、思い出しても心がざわめかずにいられる、私はまだ、そんなところには届いてはいない。
 今あるのは、ただ、ここまで生き延びて来たという、その事実ひとつだ。

 ペダルを漕ぐ足に力を入れ直し、私は白く冷めた日差しの中、急坂をのぼり始める。この坂を越えれば家はもうすぐだ。そこは、私がどんな心持でいようと、辿り着く私を待っていてくれる場所だ。だから私は安心して、ペダルを漕いで坂をのぼる。この坂の先に私を待つ家があると信じているから。もし人生が、私の毎日が、そんな安心ばかりで埋め尽くされていたなら。そうしたら私は迷子にもならない代わりに、きっとひどく退屈するのだろう。退屈に食い尽くされて、いつか、私の琴線は音を奏でることを忘れ去るかもしれない。
 十の不安の中にたったひとつの安心。百の嘘の中にたったひとつのホント。千の事実の向こうにひっそりと隠れているたったひとつの真実。安心して歩く道よりも、私は多分自ら、道を切り開く方を選んでいるに違いない。その道の行く先は地図になど描かれてはいない。だから私は途方に暮れるし、歩みを止めて涙することもある。
 それでも。
 自分で選ぶからこそ、自分で描くからこそ、私はその道を歩く。そうやって歩いて歩いて歩いて、歩いた先に、ゆっくりと死が私を迎えにくる場所があるのかもしれない。だとしたらきっと、私は死を恐れることなく、おのずと受け容れることができるだろう。
 だからこそ今私は生きていたい。もっと道を創りたい。誰のものでもない、私の地図に、私の道をこの手で描きたい。

 耳元で風が鳴る。さぁもうじき家だ。私は私を待つ家に帰る。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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