2004年06月19日(土)
南の海には台風がいるという。そのせいなのかどうか分からないけれど、昨夜から風はいつもより勢いを増し、木々の葉を裏返すように街を行き交っている。日照りが続き、プランターの中はすぐに乾く。だから私は毎日のように如雨露を持って、流し場とベランダとを往復する。ちょっと油断すると、薔薇の蕾がくたりと首を曲げてしまうので、念入りに、何度も何度も往復する。
サンダーソニアは短い命を終え、その花は、鮮やかな橙色から乾いた薄茶色へと変化し、私は今日、そっと鋏を入れる。今年もご苦労様。そんな気持ち。
その脇で、茂みになったミヤマホタルカヅラが今日も新芽を持ち上げる。一体どこまで茂るのだろう。私はまじまじとその茂みを見つめるのだけれど、秘密、とばかりに返事はない。元気ならいいや、と、葉を何度か撫でておく。その間に、黄色と白の大輪の薔薇が、次々に蕾を開かせる。蕾が開きかけたら鋏を入れて、テーブルの真中の花瓶に差し替える。
娘は、今週一週間であっという間に新しいスケッチブックを絵で埋め尽くしてしまった。日曜日、私の友人たちに戸外で遊んでもらったのがよほど嬉しかったらしい。「これはね、Yおにいちゃん、これはMおねえちゃん、これはMちゃん、これはSちゃん、これはRちゃん」。彼女の友達と、私の友達とが一緒になって絵の中で遊んでいる。本当はあり得ない構図でも、彼女の心の中では鮮やかに、その光景が描かれているのだろう。みんなにっと笑っている。そういえば彼女の絵の中に男の子が現れたのはこれが初めてだ。今までは、いつだって女の子で、いつだって長い三つ編みをしていた。それが、髪の毛の短い、ウィンクした男の子が現れた。「ママ、みんなに送ってね、みんなにだよ」。彼女に何度も念を押される。私はどう返事したものかと心の中で本当はずいぶん迷う。「うん、わかった」と返事はするけれど、実際私は送らないからだ。心の中で、嘘ついてごめんよ、と一応謝っておく。「ママ、新しいノート早く買ってね、もう描くところなくなっちゃったんだから」。彼女の思い出がいっぱいつまったノートが、机の上で風にページを揺らす。
今週、彼女は保育園で父の日の為に絵を描いた。お父さんの絵。あらかじめ保育園の先生に話しておいた「彼女が望むままに描かせてください、彼女が描きたいなら描いて、描きたくないと言ったら彼女が好きなものを描かせてやってください」との言葉通り、彼女は自らお父さんの絵を描き、今日、それを持って帰ってきた。
家に戻って鞄を広げ、彼女はその絵をはりつけた色紙を私に渡す。渡しながら彼女が言った。「うちにはお父さんいないのにね。そうだ、ママがお父さんになっちゃえば?」。彼女が照れくさそうに笑う。「そうだね、そうだそうだ、じゃぁママがお父さんになろう、絵、よく描けたじゃない、ひげもあるんだ、すごいねぇあぁこ」「へへへ」「じゃぁ何処に飾る?」「うーん」「じゃ、ここに飾ろう、ここならいつでも見えるでしょ?」「えー、ママの絵の隣り?」「うん、だめ?」「…ママ、ママのあの絵、下手だね、ごめんね」「え?」「だって髪の毛ぐしゃぐしゃ」「えー! 下手じゃないじゃん、ママ、この絵好きだよ」「でもぐしゃぐしゃなんだもん」。そこまで言うと、彼女はべそをかいた。私はどうしていいのか分からず一瞬戸惑う。だからもう一度言ってみる。「下手じゃないよ、ママはこの絵好きだよ。それにさ、ママ、いっつも髪の毛も格好も適当だもん、この絵のまんまだよ」、そう言ったら彼女はくすりと笑った。
彼女を寝かしつけてから、私はそのときのやりとりをひとつひとつ思い出す。「うちにはお父さんいないのにね。もういなくなっちゃったのに」「そうだねぇ」「ママがお父さんになれば?」「そうだね、ママがパパになっちゃおう!」「パパー!」「はーい」。
これでよかったんだろうか。こんな返答でよかったんだろうか。本当は、彼女になんと言ってやればよかったのだろう。答えの出ないことを、私はぐるぐると考えている。
私は多分、とても恵まれている。貧乏でもとりあえず暮らすことはできる状況だし、時々泊まりにきては娘と遊んでくれる友達が、そして私の愚痴をきいてくれる友達がいる。休日には、私たち親子に声をかけてくれる友人たちのおかげで、外に遊びに行き、その友人たちはみんな快く娘の相手になってくれ、私は母親業を怠けることができたりする。実家の父母も、孫をいっぱいかわいがってくれる。母子家庭でありながら、それはどれほど恵まれていることだろう。日々の生活さえままならず、夕食のおかずにも困る母子家庭が巷にはどれほど溢れていることだろう。
それでも、やっぱり、彼女の心の中で父親は生き続け、その空白は、私ではきっと埋めようがないのだということを、改めて考える。空白は空白でしかたない、と、割り切ってしまえばいい。そう思うのだけれども。「そんなこと考えたってしかたないじゃないの。それはあぁこが自分で折り合いをつけていくしかないんだから。あなたが考えてもどうしようもない。やめなさい、いらないこと考えるのは」、とは母の言葉だけれども、確かにそう思うのだけれど、時々、きゅうぅっと胸が痛くなる。
ねぇあぁこ、あなたは、私との二人の暮らし、どんなふうに今受け止めているのだろう。これからどんなふうに受け止め、折り合いをつけてゆくのだろう。
そんなこと考えても、どうしようもないことを、私はもう充分に知っている。知っているのだけれども。
父の日の為に彼女が描いた絵が、今、本棚の上、そっと立てかけられている。本当は、彼女はこの絵をちゃんとお父さんに渡したいのだろうに。
「ママがお父さんになっちゃえば? パパー!」笑いながら彼女がふざけて私をパパーと呼ぶ。だからはーいと返事をする。これでいいんだろうか。私は心の中で呟き続ける。
そんなとき、最後に私が思いつくことは、やはりこれも母から言われた言葉だ。「あなたが迷ってたらあぁこがかわいそうよ。その方がどれほどかわいそうか。それを考えなさい。しゃんとしなさい!」。
分かってる。それは確かに正論なのだけれども。
それでもやっぱり、時々考えてしまうのだ。あなたの中のお父さんを不在にしておくべきなのか、それとも私が努めて父親役もやるべきなのか。
そして、行き詰まるのだ。私は私にしかなれない。だからごめんよ、あぁこ、と。
今、次の写真展の作品を考えている。一つ、思いがけなく撮れた十数枚の写真。それは今まで自分が撮ったことのないような写真で、これを一つシリーズにして展示してみようというところまでは決まった。残り、その対極に立つような作品群が、まだ絞りきれない。今のままでは散漫になってしまいそう。もう少し作品を選び出さなければ。
「どんなに忙しくても、大変でもさ、あなたは写真やっておいた方がいいよ。自分だけの楽しみっていうのは、絶対なくさない方がいい」。かつて私にそう言ったのは確かMだったか。今更だけれども、つくづく思う。本当にそうだな、と。
もし写真がなかったら、私は、娘との二人きりの密室に、今頃きっと、押し潰されていたことだろう。密室というのはとても怖い。鍋の中で煮詰まって、やがて鍋の底で焦げて焦げて燃え出してしまうような煮え滓。娘には娘の世界、私には私の世界がそれぞれあるからこそ、多分バランスが保てている。もしこれが、それぞれの世界を持たず、二人の世界しか私たちが持っていなかったなら。今頃きっと、どつぼにはまって、お互いを傷つけるばかりの毎日を過ごしていたんだろう。そう思うとちょっと怖い。立場を変えたら、もしかしたら今日のニュースで、私たちの名前が流れていたのかもしれないと思うと。「今日、横浜市のうんたらで、親子の心中死体が発見されました」なんて。
気づけばそうやって、毎日は慌しくあっという間に過ぎてゆく。だから私は時々立ち止まる。これでいいのかしら。自分に尋ねてみる。後悔はない?
今のところ、後悔している暇がないというのが本当のところ。そして、早く、もっともっとフル回転することができたなら。そんなことを思う。
窓の外、いつもの場所にいつもの街燈がすっと立っている。街路樹の葉々は相変わらず風に吹かれ、葉の裏をありありとこちらに見せている。もうしばらく夜の中、漂っていようか。布団をけとばしておなかをだして寝ている娘に、もう一度布団をかけなおし、私は思う。明日も精一杯生きられますように。
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