2005年02月12日(土)
明日はとても寒くなるでしょう、という天気予報を裏切って、今朝は少しぬるい風が吹く。明日の娘のお遊戯会のために、衣装を大切に洗濯する。毎日毎日保育園で練習しているその成果が、ちゃんと明日舞台の上で出せるといいなぁと思いながらベランダに干す。風が、衣装をひらりと揺らす。
何となく体調が思わしくなく、怒る娘に頭を下げて横になる。横になっているうちにどうもうとうとしていたらしい。電話の音で飛び起きる。電話の主は実家の母。開口一番、「あなたは一体何やってるの!」と怒っている。どうしたのかと尋ねると、どうも私が転寝している最中に娘がこっそり実家に電話をしたらしい。そして「今ひとりぼっちなの。ママはお仕事行っちゃったからお留守番してるの」と言ったらしい。幼い子供を一人置き去りにして何をやってるんだと怒り心頭の父母は、もう少しで実家を飛び出してこちらに向かうところだったと言う。どうにかこうにか誤解を晴らすが、すると今度は娘がほっぺたを膨らましている。「どうしてばぁばはママに言っちゃうの、秘密だったのに」。そしてぽろんと零れる涙。これはもう慰めようがない。ばぁばも孫が泣いたことではっと気づいたらしく、一生懸命電話口で孫を慰めようとするのだが、娘はもうぽろぽろと。そうか、君は、ひとりでお留守番してえらいでしょ、ということを伝えたかっただけなのだな、と、その姿を眺めながらしみじみ、成長し続ける娘を想う。
幸せか不幸せか、と問われたら、私は間違いなく即答する。幸せだ、と。
そういえば思春期の頃、すべてが不幸に見えたことがあった。何もかもが不幸、自分の世界丸ごと不幸、そんなふうに。思えばあの頃は、幸せというのは何か特別なものだと私は信じていたのだ。特別な出来事の中に、特別な状況の中にこそ幸せは在るに違いない、と。
けれど、それは違った。
幸せというものは、とても当たり前のものの中に潜んでいるのだ。そのことに気づいたのは、日常生活を当たり前に送ることができなくなってからだった。それまで非日常であったことが自分の日常になり、周囲から隔絶されているように感じるばかりになってしまったとき、あぁ、昨日まで当たり前にここにあったものこそが、幸せだったのだな、と。そう気づいた。
人間は贅沢だから、当たり前にそこに在るものに気づけなかったりする。当たり前にいつもそこに在るから、もう目が慣れてしまって、肌が感覚が慣れてしまって、気づけないのだ。毎日の風景は自分の目にとても馴染んでいるから、まさかその中に自分が捜し求めている幸せが存在するなんて、思ってもみなくて素通りしてしまうのだ。
けれど。
幸せはいつでも、ありきたりな場所に隠れてる。いつだってこっそりと、見慣れた場所に隠れてる。ここにいるよ、私はここにいるのよ、なんて声の一つも立てることなく、ただひたすらにひっそりと、こっそりと。
だから私たちは素通りする。あまりに慣れ親しんだ物の間にこっそり隠れている幸せには気づけずに。そうやって毎日が過ぎていき、なんて退屈な毎日なんだろうなんてことを思ってしまったりする。
それが、或る時、哀しくて辛くてどうしようもなくてへなへなとしゃがみこんだ足の隙間から、ふっと気づく。あそこに在るものは何?
そうやって目を凝らすと、ようやく見えて来る。あぁ、これが幸せだったのか、と。こんなところに幸せが転がっていたのか、と。過ぎてしまってからようやく、私たちは気づくのだ。あぁこれが幸せだったのか、と。
決して声高に自分の存在を主張したりしない。そこにひっそりと隠れている。当たり前の風景の中にこそ隠れている、幸せというもの。毎日を淡々と過ごせるときほど、毎日の合間合間に隠れている。幸せというもの。
頑張り過ぎて前ばかり見ていても見つからない。強張って背筋を伸ばしてばかりいても見つからない。だって幸せは、こっそりと隠れているから。
どうやっても頑張れないなら、そんなときは無理して頑張らなくたっていい。もう疲れたなら疲れたよと言って一粒くらい涙零せばいい。そしてふっと目を上げたとき、視界をすっと過るのだ。幸せの色が。そして気づくのだ、あぁこんなところに幸せは隠れていたのか、と。
だから愛することを忘れたくない。当たり前の毎日を。淡々と過ぎてゆく毎日を。そうやって過ごせるそのこと自体に、幸せが潜んでいることを。
夕暮れた空を渡ってゆく鳥たちの姿。彼らを追いかけるように闇が街を包み始める。夕飯はあたたかいものにしよう。体がほっくりと、あたたまるように。
よかったらサポートお願いいたします。いただいたサポートは、写真家および言葉紡ぎ屋としての活動費あるいは私の一息つくための珈琲代として使わせていただきます・・・!