2004年12月05日(日)

 凄まじい嵐だった。雨筋が真横に描かれるほどに風が暴れ、裸の枝をこれでもかという程に嬲っていた。一度布団に横になったものの、あまりの風音に起き上がり再び外を見やる。外景に見惚れるを越えて呆けてしまう。当然、私の周囲は風音に覆われ、他の音など何も聞こえないかのように思えた。そうしてただじっと窓際にしゃがみこんで外景を眺め続けていると、突然、音という音の一切がかき消え、沈黙がぽとんと私の上に落ちてきた。気づけば私の中の私は空っぽになり、ただここにしんしんと、沈黙が在るのだった。吹き荒ぶ風の中、私はしんしんと、ただその沈黙の中に、在た。
 それから私の目に何が映っていたのか、私は覚えていない。ふと我に返って空を見上げれば、一面を覆っていた筈の雲が薄れ、東を向く街家の窓という窓が薄紅に染まっている。それは夜明けの陽光。私は立ち上がり、そっと玄関を開け外に出る。そこに在ったのは、静寂と、朝陽だった。まだ眠りから覚めない街にまっすぐに伸びるその光と静寂とに、私はしばし立ち尽くした。それはまるで、完璧なまでの朝景だった。この街に在るのは、まるで私たったひとりかのような。凛とした朝景だった。

 昨夜、読んだクリシュナムルティの著作(「クリシュナムルティの日記」)を思い出す。
「人は自分自身の光となるべきだ。この光が、法である。他に法などない。他の法と言われるものはすべて、思考によってつくられたものだ。だから分裂的で、撞着を免れない。自己にとって光であるとは、他人の光がどんなに筋が通っていようが、論理的であろうが、歴史の裏づけをもっていようが、自信に満ちていようが、けっして追従しないということだ。」
「自由とは、あなたが自分自身にとって光になることだ。その時、自由は抽象ではない。思考によって組み立てられたものでもない。現実問題として、自由とは、依存関係や執着から、あるいは経験を渇望することから、いっさい自由になることだ。思考の構造から自由になることは、自身にとって光となることだ。この光のなかで、すべての行為が起こる。そのとき矛盾撞着はない。法や光が行為から分離しているとき、行為する者が行為そのものから分離しているとき矛盾撞着が起こる。
 …あなたは見なければならない。ただし他人の目を通してではなく、この光、この法は、あなたのものでも他人のものでもない。ただ光があるだけだ。これが愛だ。」

 じきに街は動き出すだろう。そうしているうちにも、私が今目の前にしている光景は次々に飛び去ってゆく。過去へ過去へと。今というものはほんの一瞬で、私はそんな一瞬一瞬を呼吸する。どんなに足掻いても、私はこの今という瞬間の他を生きること、呼吸することはできない。ここにあるのはただ、今という一瞬のみだ。
 今を生き切ること。生き尽くすこと。それが多分、私にできる唯一のこと。

 何処かで鳥の囀声がする。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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