2004年05月27日(木)

 暗い場所から突然夏日に晒されてうろたえる。海風がびゅるると私の首筋を吹き抜け、背中や腰をぐいと押す。ふらりと一歩前に足が運ばれ、バランスを失う。まっすぐに立っているはずの樹々が、目の中でくらりと揺れる。足を踏ん張って、踏ん張って、まっすぐに立とうとするのになかなかうまくいかない。その間にも風はびゅるりゅるりゅと私の体を押してゆき、私は止めておいた自転車を支えに、しばらくその場に立ち尽くす。
 海は風によってさざなみ、その波が今何かを歌っている。誰の声だったろう、この声は。日差しを受けて全身輝かんばかりの海を、まるでさざなむ鏡のような海を、ぼんやりと眺める。あぁそうだった、彼女はもうこの世にはいないのだった。そして、彼女が死ぬ前に私に託した願い事のことなどを、記憶の鎖を手繰りながら思い出す。
 そういえば今朝、出掛けに、娘が、ママかわいいね、と言ってくれた。それは、私がワンピースを着ていたからだ。そりゃぁ珍しい姿だったろう。Gパンによれよれシャツという私の姿を毎日のように見ている彼女にとって。そして、かわいいね、と言ってくれるときの彼女は、いつだってにぃっと笑顔なのだ。その笑顔に私は、恥ずかしさを拭われて、少し安心するのだ。そうか、かわいいか、じゃ、恥ずかしいけどこのまま外出してもいいのかな、と。それまで心の何処かで、いつだって私はびくついているから。
 そして昨夜、彼女が突然、私の顔を真正面から見て、言う。「ママ、わたしがママの子供でよかった?」。吃驚した。絶句した。直後、私はおのずと返事をしている。「当たり前やん、あなたがママの子供として産まれてきてくれて、ママはどんなに幸せか」「そうかぁ」「うん、そうだよ」。抱き合ってぎゅうぎゅうとお互い抱き合って、キスをする。そして彼女は眠る前、こんなことも言っていた。「ママ、煙草はお肌をぶつぶつにするんだよ。じぃじが言ってた」「え…あ、はい、気をつけます」「ぶつぶつになってもいいの?」「いや、よくはない」「じゃぁ気をつけなきゃだめでしょ」「あ、でも…お酒も何も今は呑んでないママにとって、煙草くらいは楽しみあってもいいと思うんだけど」「ふぅん。そうなんだ。でもね、ママ、煙草吸うとくさくなるのよ、ばぁばが言ってた」「あ、はい…そうです、気をつけます」、と言いながら、煙草を指に挟んでいる私は、悪戯してるのを見つけられた子供のように首をすくめる。こういうことを言うときのあの子は、まるで私のお姉さんのような顔をして、私よりずっと年上の口調。だから私は、ちょっと心の中で笑ってしまう。変な親子。
 でもその直後、私の地平がぐらりと揺らぐ。私はうろたえる。その揺れがあまりに突然襲ってきたからうろたえる。まるであの日のように、地平が大きくぐらりと揺れる。
 ねぇどうしよう、まずいよ、これ。心の中私は慌てている、焦っている。何かに掴まろうとして、はっとする。そこには何もない。そこは、まさに、からっぽの真っ暗闇だった。何かの支えを掴もうと伸ばした手が宙をさ迷う。そうしている間に私は、ぼんっと跳ね飛ばされる、地面から。
 どうする? どうする? どうしたらいい? 私は求めていた。誰かに求めていた。名前のない誰かに、助けを求めた。私は今どうしたらいいの。
 涙がぼろぼろとこぼれる。早く、現実世界との緒を手繰らなくちゃ。ちゃんと戻らなくちゃ。そうして探すのに、緒が、鎖が、見つからない。
 あぁ。
 涙がとめどなく流れる。顔がぐしゃぐしゃになる。ありとあらゆる感情が交じり合い、途方もない混沌が私の中に現れる。そして、一方的に闇に放り上げられた私は、その闇の中、やみくもに手足を動かす。でも、じきにその手足も動かせなくなる。無重力ってこんな感じかな、そんなことを思う。重力を失うと、人間はこんなにも簡単に、世界を崩すのだよな、心という世界を。
 気づいたらすぐ後ろに怒涛のような波が押し寄せていた。いや、波が襲い掛かってきた。私の背丈よりも何倍も高い波が、あっという間に私に押し寄せ、そして私はあっけなく飲み込まれる。そしてふらふらと部屋の中をさ迷う。自分が何を今探しているのか、私はそのとき知らされる。あぁだめだよそれは。だめなんだよ、それだけは。なのに、体が言うことをきかない。私の意図との緒がさっきの波でぷつんと断ち切られてしまったかのように、体は勝手に部屋の中を探し続ける。あるはずがない、大丈夫、全部捨てた。だから私の体が今勝手に部屋中を探したって、代わりになるものは見つかるはずがない。と、油断したのが甘かったのだろうか。私の手は、机の奥深くに伸びていた。
 あぁだめだよそれは。だめなんだよ、それだけは。
 いろんな人たちの顔が、走馬灯のように私の脳裏をぐるぐる走ってゆく。「それをしそうになったら、いつでも電話くれていいから」そう言ってくれた人がいた。その人に電話をかけようか、そしたら止められるかも、この衝動を。そう思った直後、私は思いなおす。だめだ、なんで頼るの? なんで自分で止められないの? そうしている間にも私の体は勝手に動く。彼女の顔が思い浮かぶ、彼女なら今話を聞いてくれるかもしれない、もし眠っていても、無理矢理眠りから体を起こし、だめだよと叱ってくれるかもしれない、私と現実世界とのバランスを、まるでシーソーの向こう側を手で押さえてまっすぐに支えてくれるみたいに、為してくれるかもしれない。私の目が何度もさ迷う、電話へと受話器へとダイヤルへと。でもだめだ、どうしてそんなふうにして人を頼るの? いやだ、自分で止めたい。でも止められない。何度も目が電話へと向かってしまう。でも、現実には、私は電話をしなかった。それが現実。いやだった、こんなことで私の大切な人たちをこの渦に巻き込むのは。いや、後で事の顛末を知ったら、どの彼女もみな、私を叱るだろう。どうして電話してくれなかったの、と。そんなやさしいみんなだから、だから、やだ。
 もう、めちゃくちゃだった、私の頭の中は、まさに大津波を受けた直後のようにすべてがぐちゃぐちゃになっていた。
 気づけば、ぼたぼたと垂れて来る滴で、私は絵を描いていた。あぁ、花が咲く。今花が咲く。
 どのくらい時間が経ったのだろう、私ははっとして、寝床を見やる。娘が眠っていることを確かめる。そうだ、私はこの場所に帰らなくては。
 抵抗する体に、無理矢理頓服を流し込む。何をしてでも帰らなくては。
 私は、帰らなくちゃいけない。私の場所に。私が守らなきゃいけない大事な場所に。
 横になって娘の寝顔をじっと見る。彼女の手に触れようとしてはっとする。私は慌てて手を洗いにゆく。そして再び戻り、彼女の隣に横になる。眠らなくちゃいけない。それが逃げだろうとごまかしだろうと、何だろうと、今は眠らなくちゃいけない。私は、そうっと彼女の手を握る。起きる気配がないことを確かめ、もっとぎゅっと握る。私は、今、眠らなくちゃいけない。

 ふと目を覚まし、今まで私は自分が眠っていたことを知る。よかった。立ち上がる。咳が止まらないから水を飲もうと腕を伸ばして、慄く。直後、苦笑する。
 もう、どうしようもねぇな。
 この現実を、私は受け容れるしかない。いくら津波に襲われたからって、こう為した自分のことを、私は受け容れるしかない。痛みのまったくない傷痕を、私はごしごしと洗う。私は。
 ちゃんと立たなくちゃいけない。いくら波に襲われても、いくら地平が揺らいでも、それでも立たなくちゃいけない。重力を失っても、体を心を支えるものがまるで何も見えなくなっしまっても、それでも立たなくちゃいけない。
 ふと見やると、テーブルの上が汚れていた。薬の袋が散らばり、汚したままだったテーブルの上を、私は片付け始める。そしてふと、目が止まる。あぁ、花の絵が。
 この花は、本当はどうだったのだろうか、今咲いたところだったんだろうか、それとも今まさに枯れゆくところだったんだろうか。そんなことをふと思う。でも今はこれ以上見ない方がいい。私は花の絵を脇にどかし、テーブルを片付けてゆく。
 音を立てないようにしてカーテンを半分開ける。窓も半分開ける。そして、私は眺める。この窓からのいつもの風景を。
 いつもと寸分変わらずそこにある街燈、樹々たち、家屋の影。そしてふと見ると。
 ベランダで、白い大輪の薔薇が咲いていた。あぁ。
 大丈夫だ、もう大丈夫だ。私の描いた紅い花など、きれいに飲み込んで溶かしてしまうほど大きな白い薔薇。すべての色を混ぜた最後の最後、産まれると聞いた真っ白という色。白薔薇にそっと鼻を寄せる。私の中に吸い込まれる花香。そうだ、私は大丈夫だ。
 いいんだ、こんなことだってあるさ。生きてるんだもの、何だってありさ、それでも大丈夫だ、何度だって私はやり直せる。またここから歩いていけばいいんだもの。何度後戻りしようと何しようと、そこからまた、私は歩けばいいんだから。
 気づけば、闇がもう綻び始めている。夜明けは、もうじき。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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