2004年10月24日(日)

 夜風がしゅるると滑り込む窓辺。ぼんやりと街路樹を眺めていると、背後で声が。「どんぐりは?」。眠ったはずの娘の声。多分寝ぼけているのだろうと思いつつ、咄嗟に返事をしてしまう。「いっぱいあるよ。宝箱にちゃんと入ってるよ」。安心したのか、娘はぐるりんと寝返りを打ちつつも再び眠りに落ちてゆく。そおっと頭を撫でてやると、いっとき高くなっていた寝息も、すぅっと静かになる。
 台風が暴走したり、地震が押し寄せたり。何処を見ても何かしらおかしなことが起きている。地球が怒っているんじゃなかろうかと、暢気な私でさえ思ってしまうほど。今この時、私のいるこの場所が襲われたなら。そう考えると喉を締め付けられるような苦しさを覚える。私は娘を守りきれるだろうか、守って無事に明日へと送り出せるだろうか。そういえば、娘が今朝気になることを言っていた。港へ向かう急な坂を下りながら、「ねぇママ、ここにいっぱいいた大きな蜘蛛、みんないなくなっちゃったねぇ」。この坂の途中には、これでもかというほど蔦が絡まる壁があり、その蔦のあちこちに、この夏、蜘蛛が糸をはっていたのだ。それはもう、思わず車道の方へ身を寄せたくなるほどに夥しい数の蜘蛛がいた。その蜘蛛たちが、いつのまにかみんないなくなっている。一生懸命目を凝らして探してみてもいない。娘には、何処に行っちゃったんだろうねぇと答えたが、私は心の中で、蜘蛛も鳥もみな、何処かでこの世界の異変を感じているのだろうかと呟かずにはいられなかった。

 夢は少しずつ変化をみせる。加害者たちが生きて笑っていてそれをこちらから見つめる私は死んでいるという構図が、いつのまにか、加害者たちが生きて笑っていて、そのことは前と変わらないけれども、彼らがいる世界は明るくて、こちらからそれを眺める私は一応生きてはいるけれども、向こうの光溢れる世界とは違って、この夜のような色をまとった世界、天も地もない無重力の世界に、私がいるかのような。
 どうして夢の中で、私は向こうの世界を見つめているのだろう。どうして背を向けないのだろう。そんなに羨ましいのだろうか。でも、夢の中で向こうを見つめる私の中に、何処を探しても羨望はないのだ。そのことが、納得がいかない。
 羨ましくて見つめずにはいられないというのなら、分かる気がする。でも、夢の中の私はそうではないのだ。私が今現実にそうであるように、夢の中で私は、向こうの世界はもう私の世界ではないと割り切っている。諦めているのではない、いや、確かに一種諦めているのかもしれないが、それよりも、割り切ってしまっているという言葉の方が当てはまる。でも、そうまで割り切っているのなら、何故なおも向こうの世界を見つめるのだろう。
 憎しみとか怒りとか、そういうものを明確に持てる方が、納得がいく。たとえば、夢の中の私は、あんなことをしておきながらへらへら笑っている人たちが許せないと考えているという構図。そうだったら、すぐに納得できる。ああいう出来事があったのだ、そうだからこそ、私は相手を憎まずにはいられないのだ、と。そしてそれは、正当な思いなのだから、何も私が落ち込む必要もないし、それはそれとして認めればいい、と。
 でもそうじゃない。うまく表現できないが、私は、もう仕方がないと割り切ってしまっている。少なくとも、それが私の大事な愛する人たちの身の上に起きた出来事じゃなくてよかったと、心底思ってしまっているし、自分が加害者になるくらいなら被害者であってよかったとも思う、そしてまた、こういうことを経たからこそ知ることができた今の世界に、或る意味で私は満足してしまっている。それが、そのことが、私には多分、何よりも納得できないのだ。
 夢の中で私は死んでいるという構図の方が、ずっと分かりやすかった。でもこの頃見る夢は違うのだ、私は生きている、確かに暗い世界かもしれないが生きている。そして、死が訪れるその日まで生き続けることに何の疑問も持っていない。
 そう、私はここで、加害者たちの今現在に納得できないというよりも、むしろ、今現在私が至ってしまったこの自分の心境に、納得できないのだ。どうして? もっと怒ったっていいじゃない、もっと憎んだっていいじゃない、どうしてもっと怒らないの? どうして怒らないの? どうして仕返ししないの?! と。
 でも。
 そんなことして一体何になるんだろう。そんなことを思って生きて、一体何が産まれる? 何も産まれない。それどころか、擦りへって擦りへって、心が歪んでゆくばかりだ。歪むくらいなら、いっそ、そんなもの、割り切って、乗り越えてしまえばいい、と。私はそう思っている。
 思いながら、同時に、納得がいかない、それが多分、今の私。
 まるで嘘八百のきれいごとに見えてしまうのだ。自分の状態が。自分の心のこの在り様が、きれいごとに見えてしまうのだ。
 人間、そんなもんじゃない、もっとどろどろした代物だ、だから私だって、私の中を探したらきっと、これでもかってほど憎しみや怒りに塗れた何かが出て来るに違いない、と。
 でも、掘っても掘っても出てこない。出てこないことが、信じられない。どうしてこんな、淡々とした気持ちになってしまえるの? それが、信じられない。
 どうどうめぐりだ。

 ふと見ると、雲間から半月がのぞいている。明るく澄み切ったその色に、しばし私は目を奪われる。
 自分という代物が、もしかしたら一番厄介なものなのかもしれない。自分とつきあうことほど梃子摺るものはないのかもしれない。

 向こうから声がする。「ミミズさん、もう大丈夫よ」。娘の寝言に思わず笑ってしまう。昨日遊びに行った実家で、道路でうろうろしていたミミズを見つけたのだ。もうずいぶん弱っていて、自分で土を掘るのも億劫なようだった。それを見て、母がミミズに土をかけてやる。「こうやって土をかけてあげるとね、ミミズは心安らかになるんですって。そうするとね、エネルギーが沸いてきて、また元気になれたりするそうよ」。私と娘は、ミミズの上にかけられた土を、しばらくじーっと見つめていた。「ママ、ミミズさん、もう元気になったかな?」「うん、もう元気になったかもよ」。そしてそのとき、彼女が言ったのだ、「ミミズさん、もう大丈夫よ、土かけてあげたからね」。
 ミミズには土、じゃぁ人間には何?
 半月は少しずつ西の空に傾いてゆく。とりあえず私は毛布を被って眠ろうか。大好きな娘の隣で。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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