2004年06月09日(水)
夜気が冷たい。大気が全身しっとりと濡れている、そんな気配がする。そして、窓のそばに立つ私の肌に、冷たさがじわりじわりとにじみよる。
サンダーソニアは蕾の口が針の先端ほど色づいたかと思ったら、一日も経たないうちに全身甘い橙色に変身してしまった。覚悟はしていたものの、そのあっという間さ加減に、思わず息を呑む。見つめている間にも、私の目の中で橙色がどんどん濃くなるかのような錯覚を覚えてしまう。
ミヤマホタルカヅラは、この部屋へ越してきてからやけに調子がいいらしい。プランターの端にこんもりと小さな茂みを作ってしまった。そして、枝が木質化する前に切って適当に土にさしておくと、次から次にみんな根付いて、自分も茂みの仲間になろうとぐいぐい葉を伸ばす。前の部屋のベランダは西向きだった。今の部屋のベランダはほぼ南。大きな通りに面していて夜中も車の音が聞えるけれども、一方、何の遮蔽物もないから、晴れていれば朝から夕までさんさんと日光が降り注ぐといった具合。日の光がこの世界に生きる者にたちにどれほど威力を持っているのか、プランターの中の植物たちを眺めるほどに私は思い知らされる。
娘が今夜も泣く。痛いよぉ、痛いよぉ。成長痛である。今日は特に膝下が痛いらしく、歯を磨きに行った洗面台の前でへたりこみ、痛くて立てないよぉ、痛いよぉ、と泣いていた。
代わってあげられるものなら代わってあげたい。でもどうやっても代わってやることができない。私は泣いている彼女を布団へ抱いていき、横にさせ、ひたすら足をさする。お気に入りのぬいぐるみを抱きしめながら、彼女はやっぱり泣き続ける。私の耳の中で、彼女の痛いよおという声が木霊する。
「痛いよぉ、痛いよぉ」
「痛いね、うんうん、ママがずっとさすっててあげるから」
「でも痛いよぉ」
「大丈夫、ずっとさすってるから」
そうして最後、泣きながら彼女は眠った。その涙でぐちょぐちょになった顔をそっとタオルでふき、私はもうしばらく彼女の足をさすり続ける。
私も幼少時、成長痛でよく泣いたと母から聞いた。私にはそんな記憶は残っていない。だから、その当時私が痛みの中で何を感じていたのか、今となっては思いもつかない。
でも、こうやって親になって、娘が痛いよおと泣く姿を毎晩のように見ていると、つい思ってしまう。
どうしてこうまでして人は大きくなろうとするのだろう。そんなに急がなくていいんだよ、痛くなるほど急いで大きくならなくたっていいんだよ、ゆっくりオトナになればいいんだから、それで十分なんだから。
心の中でそう呟きながら、彼女の足を私はまださすり続ける。
そういえば私は、よく大人たちから言われたものだった。そんなに生き急ぐ必要はないんだよ。なだめるような表情で大人たちから言われるその言葉を聞くたび、思春期の私は反発を覚えた。口にこそ出さなかったが、あんたらに何がわかるんだ、と思っていた。生き急ぐという言葉の意味を、私はまだ知らなかった。
その言葉の意味が、少しずつ体で感じられるようになって初めて、あの頃大人たちが何故、思春期の私の姿を見、口々にそう評したのか、私は考えるようになった。あぁそうだったのかと納得したのは、ここ数年のことといっても過言ではない。
生き急ぐ必要はない。人生は確かに短いし限られているけれども、生き急ぐほどには短くない。自分次第で充分な時間が与えられているのだ。そう受け容れられるようになったのも、だから多分、ここ数年のことだ。
今、娘を見つめながら思う。そんなに急いで大きくなろうとしなくていいんだよ。痛いよ痛いよと泣かずにはいられないほどに急いで大きくならなくていいんだよ。時間は充分にあるのだから、あなたは少しずつ大人になっていけばいいんだよ。そう言ってやりたい。彼女に分かる言葉で、彼女に言ってやりたい。
でも。
だめなのだ、多分。私がいくら精魂尽くして彼女にそんなことを言ったとしても、私の娘だ、きっと私と同じように反発するだろう。そう思うと自然に苦笑がもれてしまう。そもそも今の彼女にしてみれば、生き急いでるつもりなんて毛頭なく、ただ毎日を一生懸命生きて、呼吸している、ただそれだけなのだから。それを、周囲がいくら、急がなくていいんだよと言ったって無駄なのだ。彼女が自ら、急ぐ必要なんてないんだなと思うその日まで。
彼女の顔に耳を近づけ、穏やかになった寝息を確かめてから、私はそっと彼女の足から手を離す。
成長痛は、今は体だけだろう。けれど、彼女が年頃になれば、今度は心が成長痛を起こすに違いない。私がかつてそうだったように。
そのとき、私は何ができるだろう。
私はここにいて、ずっとあなたを見つめているよ。あなたがいつここに帰ってきても大丈夫なように、家を守っているよ。だからあなたは、家を飛び出してみたっていいし、しばらく旅に出て帰ってこなくてもいい。ただこの場所は、あなたが帰ってこようと思えばいつでも帰ってくることのできる場所なんだよ。…多分、それを言葉ではなく、心で、伝え続けてゆく。ただそれだけだろう、私にできることは。
ねぇ、だから。
痛いけど、引き受けていこうね。私はいつだって、痛いよと泣くあなたの隣にいるから。あなたの足を今さすっているように、もし必要なら、あなたの心も撫でるから。
今日も夜がそうして更けてゆく。窓からすべりこむ風は冷たく、そして濡れている。私の吐いた煙草の煙が、風に乗って風に散って、窓の外へ消えてゆく。もうしばらくこうしていようか。なんとなく、そう思う。
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