2005年01月13日(木)
夜明けが近い。半分ほど開けた窓の外をじっと見つめる。濃密に垂れ込めていた闇が、その瞬間から動き出す。私の目では追いつかない速度で、確かに確かに、変化してゆく。まだやりかけの仕事から少し手を離し、私はしばらく、ただじっと見つめる。
東からまっすぐに伸びて来る光の手が、街の上にそっと舞い降りる。その手が触れたその場所から、僅かに僅かに、決して無理強いすることなく、光が輪を広げてゆく。光に徐々に濡れてゆく樹を見つめて気づく。先ほどまでそよりとも揺るがなかった風が動き出す気配。何処にいるのか知らないけれども、いつものように、雄鶏の一声が、街に響き渡る。
正月は久しぶりに寝込んだ。大晦日の夕食後から体調ががくんと落ち、気づけば嘔吐の連続。水の一滴さえ口に含むことができない。含んだらその直後、また嘔吐をしてしまう。結局娘を実家に預け、私は三日間の殆どを、布団の上で過ごした。
娘が隣にいない夜、私はぼんやりと、この一年のことを思い浮かべていた。なんてあっという間の一年だったろう。ここに引っ越してきて、娘と二人の生活を成り立たせるために働き、娘と遊び戯れ、もちろん喧嘩もたくさんし、そうして今、ここに在る。離婚から一体どのくらい時間が経っていただろうと思い返して気づいた、全然数えられない。苦笑しながらノートに書いてみる。そうしてようやく、一年半は時間が経っていることを認識する。でもまだたったの一年半しか経っていないのか、そうは思えない。もう十年も二十年も、こうして娘とここに在るような気がしてしまう。
それは、あの日を思い返すときもそうなのだ。この時期になると、特別に思い出そうとしなくても、殆ど毎日のどこかしらで私の脳裏にちくんと浮かび上がるあの日。もう十年。そして今年は十一年目。
頭で考えると、まだたった十年しか経っていないのかという違和感が何より強い。もっともっと、もう十年二十年、いや、五、六十年経っているように思える。だからこの、カレンダーで刻まれてゆく現実の時間に対して、どうしても違和感を持ってしまう。
一方で、私の脳裏に走る映像は、いつでも鮮やかで、その位置からみると、もう十年経ってしまったのかという違和感が生じる。私の中に蘇る映像は決して、十年もの月日を経ていないのだ。いつでも鮮やかで、いや、下手するとどんどん鮮やかにくっきりと光を帯びて私の中に蘇ってしまう。あの時のワンピース、あの時の髪型、あの時のタイツ、全てが全て、くっきりと浮かんで来る。そして私はあれ以来、ああしたワンピースを着ることはなくなった。タイツも、履かない。
まだ十年しか経っていないのかという違和感と、もう十年も経ってしまったのかという違和感の狭間で、私は揺れる。ひとりぼっちで揺れる。一体どちらを掴めば岸に辿り着けるのだろうと心細くなる。そして結局、どちらも掴めぬまま、揺れながら日を過ごす。
私の中にある両極端の時間と、現実に刻まれる時間との、この時間軸のずれは、もしかしたらずっと消えることはないのかもしれない。私が引き受けて、このまま歩いてゆくしか術はないのかもしれない。諦観に似た何かが、私の中で少しずつ大きくなる。
私の不注意で、指に挟んでいた煙草をカーテンにくっつけてしまう。慌てて離したけれども時はすでに遅く、カーテンに小さな小さな穴が開いてしまった。計ってみればそれは、たかが2、3ミリの穴なのだが、これが実に面白い。目をくっつけて外を見やる。そうすると、ちゃんと世界が丸々と眺められる。昼間日差しが指す頃には、床に光の影を落とし、その存在を私にちゃんと教えてくれる。まるで魔法の穴を手に入れたような感覚。穴を覗くとき、私はちょっとわくわくする。もしかしたらこの穴の向こうには、全然知らない世界が広がっているかもしれない、今覗いたら、思ってもみない風景が私の目の前に広がっているかもしれない、そんな馬鹿馬鹿しいわくわくと弾む気持ちを抱えて、私はこっそり穴を覗く。もちろん穴の向こうには、いつも私が見る風景が、しっかりとそこに在るだけだ。そして私は安心する。ああ、やっぱりいつもの風景だ、大丈夫、私はちゃんと日常の中に在る、そう思って。
久しぶりに街を歩く。路地裏ばかりを選んで、適当にただ歩く。海に近い信号で立ち止まった時、何かの気配を感じて上を向くと、信号機には夥しい数の鴎が。慌てて少し立ち位置を変える。私の真上から鴎の糞が自由自在に落ちてくるから。しばらく私は鴎を眺めている。君たち、港の開発に従って、止まり木もなくなってしまったのですか、そんなことをちょっと尋ねてみたくなる。でも、鳥との共通語を私は持たない。だからちょこっと心にそんな問いを浮かべ、ただ鴎の姿を見つめる。何故神様は、鴎を白く染めたのだろう。蒼い海の上を飛ぶ時に、白く白く光のように映えるからだろうか。蒼の上に一滴の涙のようにくっきりと、その姿を残したかったのだろうか。
古いビルがあっけなく壊され、その後にマンションが幾つも建てられてゆく。この辺りの風景は、留まることを知らない。次々に姿を変えてゆく。私が中学の頃は、この辺りはただ埋められただけの、土の色一色で埋め尽されるそんな場所だった。もう今、土の色など殆どここには存在しない。ビルが建ち、道もタイルで舗装され、ちょっとこじゃれたデートスポット。でもそれは、私にはまだ馴染まない。路地裏の、まだまだ小汚い通りが交叉する、その姿の中にいる方が、私は心落ち着く。
夜になればここには、男の客を呼び止める女性の声が響き渡る。知らない男に手を振り、にっこり笑って誘う。男と女が息苦しいほど犇き合う場所。そういえばそんな場所に立つ一人に、なったことがあったっけと、小さな過去を思い出す。働かない夫の代わりにどうにかしたくて、時給のいいバイトはそのくらいしか見当つかず、そうして働いたのだった。そんなことも、今はもう過去なのだ。
激しい離人感に悩まされ、一日保てないこともある。日付や曜日が認識できなくなって、私は戸惑う。いや、戸惑うことができるようになれば何とかなるのだ、戸惑うことさえしないとき、私は多分、時間の宙に浮いている。後になって気づくのだ、慌てるのだ、一体今は何日で何曜日で何時だったのか、と。
そんな自分に不安を覚える夜は、余計なことは考えないことにする。娘と一緒に横になり、寝息を立て始めた娘をそっと抱いてみる。眠っている娘の額に頬にそっとキスをし、そうしてやわらかく彼女を抱いてみる。大丈夫、何とかなる、きっと何とかなる、ちゃんとここに在る、それだけで今は充分だ、自分にそう言い聞かせ、うなずいてみる。
ただの気休めだとしても、こういう時は、いくらだってうなずいてみるのがいい。そうしているうちに、別に日付も曜日も時間も、わからなくたって人間生きていけるのさ、と、開き直ることができるから。
そして朝、ベランダのプランターに水をやりながら、樹の様子をじっと見つめる。この寒い冬のさなかなのに、彼らはちゃんと新芽を蓄えている。紅い紅いその新芽。硬くて指で触れたらちくりと私の指の腹を刺して来る。薔薇の樹のなんと逞しいことか。そしてアネモネの、掌のようなかわいい緑の葉たちが小さく唄っているその声に耳を傾ける。風と戯れながら、小さく小さく響く声。大丈夫、みんな生きてる。私も、生きてる。
十年経ようと二十年経ようと、私はあの日を忘れることはないだろう。あの日に纏わるいろいろなことを忘れることはないだろう。それでも、いつか忘れるかもしれない、そんな可能性を私は信じている。いや、どちらでもいいのだ、忘れても忘れなくても。どちらでも。私が、淡々とそれを受け止められる日が来る、そのことを、私はじっと信じている。
冬が来ればやがて春が来る。そしてまた夏を過ごし秋を過ごし。私を乗せて世界は回る。何処までも。だから私は体いっぱいにその空気を吸って、いつだって空に世界に手を伸ばして、唄っていたいと思う。
生きているというそのことを。
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