2005年02月15日(火)

 真夜中、目が覚める。目を覚ました途端、フラッシュバックする幾つもの映像。その映像に愕然とし、私は途方に暮れる。隣に眠る娘を咄嗟に抱きしめようとして、体が凍る。今彼女へと腕を伸ばすことができない。私は布団から忍び出る。
 ベランダに出ると、夜闇は昨日よりもずっと濃く垂れ込めていて、そのあまりにも濃密な夜を見上げていると、鼻も口も塞がれていくような錯覚を覚える。息苦しくなって私は、足元に視線を落とす。
 ベランダの隅に、数ヶ月前誤って割ってしまった鏡があることを思い出す。私はその大きな、私の身長と同じだけある大きな割れた鏡に手を伸ばす。足元にそれを寝かせ、しばらく見つめる。私の姿がそこに映る。粉々の鏡の中、幾つもの私。気づいたら、その幾つもの破片を、一個一個、ばらばらにしている自分がいる。
 どうしてこうなってしまうのだろう。どうしてこうなってしまうのだろう。ただ安らかに共に眠りたいと思うだけなのに。
 眠りに誘われる時間帯は危険だ。意識があやふやになる。いつもなら意志で律している意識があやふやになる。あやふやになると、私はバランスを崩す。普段隠している怒りが、ほんの少しのきっかけで暴発する。そしてそれは、隣にいる娘に向けられる。いや、私はその時、それを娘と認識していないのだ。私の外に存在する者としてしか、意識できない。そうなると、すべての攻撃がその外の者に向かってしまう。
 今夜、そんな最中に繰り広げられたのだろう映像が、鏡を解体してゆく私の脳裏で激しく煌く。大好きよ、この世で一番あなたのことが大好きよと言って抱きしめるのと同じ腕で攻撃される娘の、心持ちは一体どんなだろう。以前も同じことがあった。その翌朝、私は彼女に話した。ママは心に傷を持っていて、時々こんなふうに崩れてしまうの、ごめんなさい。そう話すと、彼女は、にっこり笑って、大丈夫よママ、未海は分かっているから。彼女はそう言ってにっこり笑ってくれた。そんな彼女にまた、私は攻撃の刃を向けてしまったのか、今夜も。あまりに哀しくて情けなくて情けなくて、涙の一粒さえ出やしない。私は唇を噛み締めながら、目の前にある砕け散った鏡の破片を、ひとつひとつ、解体してゆく。ごめんなさい。ごめんね。繰り返しながら。
 暴発する怒りはたいてい、あの時あの事件を越えてゆく過程で発することのできなかった怒りや憎しみの残骸から発している。そしてそれは、私の意識があやふやになる時に、こうやって暴発する。それが分かっているなら、それを回避するべきだ。それが私の取るべき行動だ。
 分かっている。分かっているけれど。
 あのいとしい娘の隣で一緒に布団に入って、あれやこれや話しをしながら眠りにつきたい。そんな甘い夢を私はどうしても捨てられない。そのせいで、今夜もまた、私は過ちを繰り返した。
 娘と一緒におしゃべりしながら眠りたい、と思うことは、そんなにも突飛な願いだろうか。そんなにも特別な願いなのだろうか。叶わない夢なのだろうか。そんなはずはない。ごくごく当たり前な、他愛ない願いのはずだ。何も特別なことなどひとつもない、どうってことのない願いのはずだ。それが悔しい。
 ふっと指先を見ると、いつの間に皮膚が破けたのだろう、私の指の腹で血の珠がぷくぷくと脹らんで、じきに垂れてゆく。ぽたりと足元に一粒、血の珠が落ちる。それでも手を動かすことを止めたくなくて、私は鏡を解体し続ける。幾粒かの血の珠が、鏡の破片に落ちてゆく。そうして汚れた鏡の破片も、私は一つずつ、解体してゆく。こんなちっぽけな傷なんて、痛みさえ感じない。
 そうやってひたすら手を動かしていた私の耳に、友の声が届く。大丈夫、大丈夫だよ。友の声が届く。落ち込み過ぎちゃだめだ、今度どうするかを考えるんだ。そんな友の声が、私の耳の奥で木霊する。
 そうだ、落ち込んだってどうしようもない、今度どうするかを考えるんだ。響く友の声に私は呟く。
 真っ暗な、穴蔵のような夜闇の中で、私は呟く。

 橙色の光を放つ街灯は、今夜もすぐそこに立っている。まるで何事もなかったかのように。光に照らされた街路樹の樹皮は今夜も乾いた匂いを放っている。私はいつのまにか、鏡一枚をすっかり解体している。
 その時、娘の寝言が私の耳に届く。咄嗟に部屋に駆け込み、娘の額を撫でる。すると娘は私の方に向き直り、目を閉じたまま私の腕に絡んでくる。思わず私は彼女を抱きしめる。ごめんね、ごめんね、ごめんね。すると彼女がうんうん、と眠ったまま頭を揺らす。ごめんね、ごめんね。
 そうだ。私はこんなにも心弱い人間だ。どうやっても自分ではコントロールできないことを幾つも抱えてる。それでも、私は生きていく。
 そうだ。落ち込み過ぎちゃだめだ、今度どうするかを考えるんだ。

 いつのまにか指先を汚す血は乾いており。私はようやくその血を洗う。ごしごしと指先から腕まで、力をこめて洗う。窓の外から、鶏の声が響いて来る。もうそんな時間なのか。あと一時間、二時間もすれば、夜が明ける。そしてまた一日が始まる。
 大丈夫、もう同じことは繰り返さない。コントロールがとれなくなることが分かっているなら、そうした危険が高まる場面を回避すればいい。それだけのことだ。それが本当なら他愛ない願いだろうとごく当たり前の願いだろうと、私には叶わないことと割りきって、危険を回避するんだ。自分に与えられたものはそういうものだったと割りきって。それだけのことだ。ただそれだけのこと。
 ベランダに足を半分出して座り、私は煙草に火をつける。吐き出した煙は、垂れ込める夜闇に吸い込まれてゆく。通りを過ぎる車の音が途切れ途切れに響く。この闇もじきに割れる。朝に吸い込まれてゆく。さっきまであった割れた鏡も、もうすっかり小さな欠片の群集になってごみ袋の中に消えた。
 大丈夫、大丈夫だよ。落ち込み過ぎちゃだめだ、今度どうするかを考えるんだ。
 友の声が、私の耳の奥で木霊する。

 じきに、夜が明ける。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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