2005年02月18日(金)

 ここから出なくてはと目の前の扉のノブに手をかけたところで目を覚ます。まだ夢を引きずっている頭を片手で押さえながらカーテンを開けると、世界は少しずつ夜が明けてゆくところ。洗面台の蛇口をひねり、冷たい水を掌に乗せる。この季節の水道水はどうしてこんなに冷たいのだろう。昔、祖母の家にあった井戸の水は、夏は冷たく冬はぬるかった。だから顔を洗っていると少しずつ少しずつ目が覚めてくる、肌に水が染み込んで来る感じがしたが、水道水だと目がいきなり覚める代わりに、何度洗っても肌の膜に水が弾かれてゆく感じを覚える。何となく物足りない。
 あれやこれやと用事をこなしながら、ふと窓の外に目をやる。あのベランダにかかったシーツ二枚、昨日からあのままなことに気づく。水色と桃色のシーツ。その脇にフェイスタオルがこれもまた二枚。仲良く並んで朝の風に揺られている。あそこで夜を越えるのはこの季節では大変だったろうに、シーツは気持ち良さそうに風に身を任せている。
 昨日から冷蔵庫と電話の横のボードとに、新しい絵が加わった。いや、娘は保育園で毎日何かしらの絵を描いて来る、それを私はいつも壁に貼り付けるのだけれども、昨日のはいつもの絵じゃぁなかった。写し絵。保育園で教えてもらったらしい。アニメのキャラクターの絵を写したのだろう薄い紙を何枚も丁寧に折りたたんで、はい、ママにプレゼントよ、と渡してくれた。ずいぶん正確に丁寧に引いたのだろう鉛筆の線が、時折ぷるぷると震えていて、きっとこの線を描いた時の彼女は息を止めてただひたすらこの線を引くことに集中していたのだろうなと私は想像してみる。そういえば私には、小さい頃から変な癖があった。何事かに集中してくると息を止めてしまうのだ。歯を食いしばって息を止めて、ひたすらその作業に熱中する。一段落つくまで新しく息を吸うことを忘れてしまう。だから、気がつくと顔が真っ赤になっていたものだった。もしかしたら娘にもそんなところがあるのかもしれない。少し可笑しくなる。
 おはよう、と声を掛けながら娘を起こす。起き抜けだというのに娘はいきなり「変なおじさん」と言いながら物真似をしてみせる。変なおじさんになった娘の顔を両側からぷしゅっと掌で包んで、キスをする。吹き出しそうになるのを我慢しながら。こんな娘と私と、一体何処が似ているのだろう? 娘の方が私よりずっと練れてる気がする、生き方上手という気もする。でも、他人から見ると私たちは年を重ねるごとにどんどんそっくりになっているらしい。母娘というのは面白い。


 「頑張ったり、てんぱったり、そういう時って、差こそあれ非常事態じゃないですか。そんな時って気づかないうちに、自分の本当のとこ見失ってたり、自信なくしたり…だから、近くにいる人が、「いつもの貴方」をいつも通りに見守ってあげる。 それが一番いいことなのかな、って。そんなこと思ってます。自分には見えない、自分の背中を見守るというような。…誉めるというよりも、そのままじゃあないでしょうか、相手に対して鏡になってあげる、そんな感じ」。
 とある人に手紙を出したら、そんな返事が返って来た。何度も繰り返し言葉を噛みしめる。あぁ、そうか、誉めるというのではない、鏡、なのだな、と、納得する。そして、鏡になる、という表現を用いた彼女を心で思い浮かべながら、なんて素敵な言葉なのだろうな、と思う。
 誉めるというのは、人や物事を高く評価して言う時に用いる言葉だ。でも、その人はわざわざ何かしらを高く評価するのではなく、ごくごく自然に当たり前に、相手が持っている美点を大切に指摘する。そんな彼女の表現は、誉める、のではなくて、まさに相手に対して鏡になるのだ。
 人は追い詰まっている時、つい自分を見失う。これもだめだ、あれもだめだ、じゃぁきっとこれもあれも全部だめだ、と、本当はそうではない時でもどんどん自分を追い込んで自分で自分の首を締めてしまったりすることがある。そんな時、彼女のように、相手の前でただまっさらになって相手の姿をありありとそのまま映し出す鏡になる、それは、どれほど相手を励ますことだろう。いや、彼女は別に励ますためにあえて鏡になって指摘するのではないのだ、相手がふっと振り返った時に、いつもと変わらぬ位置に立ちいつもと変わらぬ笑顔でもって相手を受け止めようとする。その彼女の在り方に、相手はきっと、安堵する。あぁ大丈夫だ、まだやれる、と気づくきっかけを掴めたりするのではなかろうか。
 美しいな、と思う。そして私は自分を省みる。私に足りない何かをあれこれ思い浮かべる。と同時に、私のこの十年、ずっと変わらずに見守ってきてくれた友人たちの顔を幾つか思い浮かべる。あぁ私は、彼らにどれほど支えられていたことだろう。そうして、自分の背筋が自然に伸びてゆく気配を感じる。

 午前中、一瞬だけ雲間から光がまっすぐに舞い降りた。突然世界が明るくなったその気配に、私はベランダへと飛び出す。希望を形にしたら、もしかしたらこんな光かもしれない。そんなことを思う。一瞬のことだったけれども、その一瞬は、私の中にしっかりと刻まれた。

 美しい人になりたい。昔、そう思ったことがあった。それはひどく漠然とした思いだったし、もうずいぶん昔のことだから、もしかしたらもうすっかり擦り切れてしまっていたかもしれない。でも最近、自分にとって大切な誰かのことをあれこれ思い浮かべるたび、思うのだ。あぁもっと美しい人になりたい、と。
 美しい人。それはどんな人だろう。一口に心美しい人と言い換えてしまうこともできるのかもしれないが、確かにそれはそうなのだろうが、もっとこう、何か…。美しく生きる、それは…。
 これだ、と限定してしまうことさえ憚られる。だから、下手に言葉に還元したくない、そんな思いもある。言葉に還元することなんて、死ぬ間際でも充分間に合うだろうから、今は、毎日を重ねてゆくだけ。自分の大切なものをまっすぐに愛し、慈しみながら。

 窓の外、まだシーツが揺れている。ひらり、ひらり、ゆら、ゆらり。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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