2004年11月19日(金)

 昨日の午後から降り出した雨は、夜半には斜めに傾きながら強く降り続けた。時計がもうじき夜明けを知らせる時刻をさす頃、ようやく霧雨に変わり、そして今、時折ぱらぱらと歩く私の顔を濡らす。
 出掛ける前、ベランダのプランターをいつものように覗く。アネモネが幾つも幾つも頭をもたげる姿がそこにある。これから頭を持ち上げようとするか細い芽は、どこか、水鳥の仕草に重なって見える。

 昨夕娘を園に迎えにゆくと、両の目と鼻の頭とを真っ赤に染めた彼女が出てきた。どうしたの、と尋ねると、それまでこらえていたのだろう涙が大粒の滴となってはらはら落ちる。
 ゆいちゃんが彼女の椅子をわざと倒し、それに対して彼女が「いいよ」と繰り返し言っても、ゆいちゃんは「もういいよっ!一緒に遊ばないから!」とぷいっと横を向いてしまったのだという。自分がいいよと許したのに、相手が余計に頑なになり横を向いてしまった、そのことが、彼女にはショックだったらしい。
 家に着くまでひとしきり泣いた彼女は、眠る前も、ゆいちゃんね…と繰り返した。私はただ相槌を打つ程度で、その話に耳を傾ける。やがて眠りについた彼女の閉じた瞼が、たっぷりと腫れている。ぐっすり眠るといい。あたたかい彼女の体をそっと抱きながら、私はぼんやりと夜を過ごす。
 そして今朝、家を出る直前になって、娘がきっぱりした口調でこう言った。
「私ね、今日はゆいちゃんといっぱい遊ぶんだ」
「そっかぁ、いっぱい遊びな」
「ゆいちゃんがぷいってしても一緒に遊ぶよ」
「そうか。あなたがそう思うならそうしてごらん」
「うん」
「過ぎたことは過ぎたこと。そんなの忘れちゃえ。人間今が大事よ」
「うん、昨日のことは昨日のことだよね」
「そうそう、そんなもんうっちゃればいいのよ。今が大事さっ」
「うんっ」

 実際どうなるのか、娘はもしかしたら余計に傷つくことになるのかもしれない。たとえそうなったとしても。それはそれでいいんだろう。そんなこと恐がっていたら何もできなくなってしまう。それよりも何よりも、彼女が自ら望むことを、自らの力で為してゆく、そのことが、何よりも大事なんじゃないかと、私は思う。
 それにしても。
 子供のこうしたエネルギーは一体何処から生じてくるのだろう。一晩寝れば昨日のことは昨日のこと、もうすでに過去のこと、そして、今日は今日、新しい一日が始まる。もちろん、きれいさっぱり昨日在った出来事すべてを忘れ去ることができたわけではないだろう、けれど、新しい一日への気持ちの方が、ずっと彼女の多くを占めている。
 私のような似非大人は、一晩過ごしても、夜明けを目の前にしても、まるっきり新しい一日がそこにあると信じることは、なかなかできなかったりする。ましてや、昨日心を傷つける何かがあったなら、その何かにこだわって、その体験から経たものを引きずって新しいはずの一日も丸々過ごしてしまう。
 体験から得たものは、確かに大切ではあるのだろう。けれども、体験から得たものばかりにこだわることによって、葛藤が生じたり膿が生じたりするとしたら、それは、もう過ぎたものとして手離すことの方が大切なのかもしれない。多分きっと。

 雨はまだ降っている。裸ん坊になった街路樹が、黒く黒く濡れている。辺り一面、冬の色だ。私の大好きな冬の。

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クリシュナムルティの日記やメイ・サートンの日記から深く深く影響を受けました。紆余曲折ありすぎの日々を乗り越えてくるのに、クリシュナムルティや長田弘、メイ・サートンらの言葉は私の支えでした。この日記はひたすらに世界と「私」とを見つめる眼を通して描かれています。

世界と自分とを、見つめ続けた「私」の日々綴り。陽光注ぎ溢れる日もあれば暗い部屋の隅膝を抱える日もあり。そんな日々を淡々と見つめ綴る。

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