2005年02月14日(月)
ふと見上げた西の夜空に、くっきりと月が浮かんでいる。じっと見上げていると、なんだかそれは空の口のようで、空が月を借りてにいっと笑っているように見えて来る。あのあたりにこんな感じで目を描いたら、悪餓鬼風のどら猫の顔になるんじゃなかろうか、そんなことを思う。娘に教えたら、あれは猫の口じゃぁない、トトロの口だと言う。空にぽっかり浮かぶトトロの口。なるほど、確かにそうかもしれない。
朝から淡々と時間が過ぎてゆく。いつものように洗濯機を回し、いつものように布団を干し、いつものようにプランターに水をやる。ただそれだけのことが、なんだかやけにいとおしく感じられる。幾つもの棒で掻き回されていたバケツの水が、ゆっくりゆっくりと、穏やかな表情を見せてゆくときのような、そんな速度と一日と。それがこんなにも、今は心地いい。
娘は大好きなぬりえをせっせと為している。一ページ、きちんと塗り終わると、私に尋ねにやってくる。「次のページにいってもいい?」「どれどれ、おおー、きれいに塗れたね。じゃ、次のにいっていいよ」。ただそれだけのやりとりなのだけれども、こうしたやりとりは一体あとどのくらい繰り返すことができるものなのだろうとふと思う。じきに娘はきっと、自分の判断であれこれのことをこなしてゆくようになるに違いない。もしかしたら明日にもそうなるかもしれない。だとしたら、今交わした言葉は、最後のやりとりになるのかもしれない。そう思うと、ちょっと胸が切なくなる。あんまりにも早足で過ぎてゆく時間の肩を掴んで、もう少しゆっくり歩いてくれと、訴えたくなる、そんな気持ち。
薔薇の紅い紅い新芽が、少しずつ、ほんの少しずつだけれども大きくなってゆく。毎日の速度はこの目では捉えきれない程のものだけれども、それでも確実に、春へと向かっている。誰に教えられるわけでもなく、彼らはおのずから信じるべきものを信じ、一歩一歩確かに歩み続ける。
自分の頭の中は1+1=2なんだ、と先日友人が手紙をくれた。1+1=2。それじゃぁだめなのだろうか。いや、そもそも私の頭はどんなふうにできているのだろう。そう自分に問うてみて、私ははたと困った。1+1=2、確かにそうなのだけれども、1+1=11だとか、田んぼの田だとか、そういうのになったらやっぱり楽しいよなぁなんて余計なことをついつい考えてしまう。さて、11にするにはどうしたらいいんだろう、田んぼの田にするにはどうやったらいいんだろう、なんてことを、わくわくしながら考えてしまう。だから、私から見たら、1+1=2なんだ、と、確固たる自信を持って答えられる人の方に、逆にちょっぴり憧れてしまったりする。そうだったら、きっと私の大地はとてもしっかりとしたものになり得るのではないだろうか、と。
そして、つい笑ってしまう。人は一体何処までないものねだりを繰り返す生き物なのだろう。隣の誰かの持ち物にばかり目がいって、自分の内奥にある豊かな草原には気づきもしなかったりする。自分の持ち物をこそ大切に愛することができたら、きっと人はもっと、生きやすくなるに違いない。
眠る前、娘と何度も抱擁を繰り返す。ママ大好き。ママもみう大好き。抱擁の合間に繰り返すキスは、時に甘かったり時に切なかったり、時にイライラした味だったり。この抱擁も、彼女がお年頃になればなくなってしまうのかもしれないと思うと、つい抱きしめる腕にも力がこもってしまう。今のうちにめいいっぱい味わっておこう、今のこの瞬間のぬくもりを思いきり深呼吸しておこう、そんなことを思うから、どんどんどんどん腕の力が強くなってしまう。いつもなら体をくねらせて笑いながら逃げ出す娘が、何故だろう、今夜はじっとしている。それどころか、私の首に回す腕に力をこめてくる。
いつのまにか月が地平線の向こうに姿を消した。もういい加減眠らないとね、と、娘を布団に入れる。でも、さんざん抱きしめ合ってキスを繰り返しているというのに、まだまだ彼女には足りないらしい。布団からこっそり這い出してきては、私にキスの雨を降らせる。もうこれでもかというほど布団と私の間を往復し、ようやく彼女は、寝息を立て始める。
窓の外には橙色の光を放つ街燈。いつもの場所、いつもの光。見慣れ過ぎた風景。けれど、この風景をじっと見つめるとき、それはいつだって初めてのものになる。
今私が持つ持ち物は多いのだろうか。それとも少ないのだろうか。比べてみたことがあまりないから、よく分からない。その中には、幸か不幸か、誰かが羨んでくれる品々も少なからずあるらしい。でも。周囲にばかり気を取られて私が私の内奥に目を向けなければ、いつかその豊かな草原も、枯れてなくなってしまうに違いない。
自分に肥しを施せるのは自分自身だ。そして、そんな私の姿を娘はきっと見ている。自分を大切にしなくちゃね、なんていくら口で言ってみたって伝わらないだろう。もし伝わることがあるとしたなら、それは、私が実際に生きるその姿からだ。
このささやかな生活を大切にしたい。このささやかな幸せを大切にしたい。そう思うのならば、まずは自分を大切にすることだ。愛することだ。そして、私が大切にしたい幾つかのものを、思う存分愛し慈しむことだ。
薬缶からしゅんしゅんと音が零れる。濃い紅茶でも入れようか。そうだな、できるなら、自分が失ったものや得ることができなかったものたちを羨むのではなく、今自分がこうやって持つことができたものへこそ、想いを向けていたいと思う。
そして傍らには、紅茶の湯気と娘の寝息。夜はたんたんとふけてゆく。
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