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散文詩集

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#自由詩

識 閾

時計の音ばかりがひとり 響き渡る 地下道は一面 天井の 人口灯で照らし出され 足音を落としていったはずの 君の姿は見当たらず ただ晧晧と 無機質の壁 壁 壁 続く地下道   知らなくてもいいことがあったよ   幾つも幾つも   手を伸ばしてもいないのに   落ちてきた果実が   私の足元でやがて朽ち始め   還る土もないこの場所で   腐臭を放つ 窓も出口も消えた地下道ではいくら 時計が時を刻もうと 掴んだ砂のよう瞬く間に この掌から零れ落ちる この手から 零れ落ちる

地下鉄の花束

夜明けの地下鉄 花束を買う 自動販売機 幽かな音をさせて落ちてきた花束は 葉脈の先端までも冷え切って 冷気は握る私の掌から 背中へと抜けてゆく 覚めきらぬ晩の酔いを残し 走り出す車両に 朝日は射さず 何処までも何処までもトンネルの中 走り続ける あなた わたし 何処までも何処までも トンネルの 中 何処までも あなた わたし 花束 あなた わたし 花束 何処までも何処までも 熱を孕んで ああ 花束がとろけてしまう前に 地上に出よう 次の駅は 次の駅は 花束がと

「紅い川、紅い雨」

日没とともに響いた産声の 向こう岸では今 三途の川を渡り始めた影が ちらちら 揺れる 法で裁けぬ罪が 一体幾つ あるのだろう 法で裁けぬ罪ばかり 今日も巷に降り積もる 声を上げれば逆に 傷口を押し広げられ 血は瞬く間に溢れ出す 河となり、大河となり やがて 轟々と 流れ出す 紅い河よ 紅い河よ 何も望まず 何も願わず ただ浪々と 流れてゆけ 昨日そこにあった樹がまたひとつ 雑踏に根こそぎ引き剥がされ 昨日あったはずの樹がまたひとつ 降り続く紅い雨に倒れ 往く この眼

夢の話

穴を掘る 夢を 見た 見覚えはある けれど 名前を忘れた何処かの街の片隅 破れた金網を潜って 忍び込んだわたしは 穴を掘る 穴を掘る 爪が剥げ、傷む指先にも構わずに 穴を掘る 穴を掘る 掘る掘る掘る掘る掘る 穴を 掘る その時、 手応えを感じて 覗き込んでみたら、そこに 君がいたよ にぃっと歯を剥き出しにして笑ったまま固まってる 汚れた君の顔が そんな 夢を見た 君の隣で

深い森の奥で

深い深い森の奥で 一本の樹が倒れる 見ている者は誰もなく 聞いている者も誰もなく ただ一本の 森を通う道は あっけなく裂傷し、 その時君は眠っていた その時僕は俯いていた 深い深い森の奥で今 一本の樹が 倒れた 横たわる樹の下に 裂傷した一本の 道 誰もいない 誰も見ていない 森の奥で ただ一羽 今空へ垂直に 飛び立った 雲雀 のみ そのことを、知る。 深い深い森の奥で今 一本の樹が 倒れた

月の落とし子

ぴたぴた と、 足音が響く 右から左、 左から右へ 行ったり来たり 行ったり来たり 釣り舟はもうとうに 港へ戻った 乗り遅れたおまえは ひとりぼっち 波間に揺れる ぴたぴた ぴた、 と 足痕が 揺れる

「 満潮 」

あなたはわたしの鎖骨を折って これが愛の証といふ わたしはあなたの肋骨を折って これが愛の証といふ 幾つもの幾つもの愛の証 幾つあったら 満ち足りるだろう あなたの両手の十本の指を わたしの両方の乳房の乳首を ぽきぽき 折って かりかり 齧って ぼろくずのようになって あなたはわたしの首を絞め これが愛の証といふ わたしはあなたの喉を裂いて これが愛の証といふ そうして満潮の浜辺 波にさらわれてふたり、 海の藻屑に なる

「 啼鳥 」

あなたが死んだら あたしは泣くでしょう 六月の雨のように しとしと と 泣くでしょう 葬列の面々が目を覆うくらい さめざめと 泣くでしょう あなたのその身体の分だけ空いた 空白を今度は誰で埋めようかと まるで迷子になった子猫のように 夜毎 泣くでしょう そしてちょうどいい具合の 男を探して 今度はその男の上で 啼くでしょう カッコウのように

「骨壺の唄」

カタカタ カタカタ と 揺れて揺られて笑ってる 猫の足元 骨壺の中 下弦月夜にぶらさがり 老いた三毛猫が欠伸をすれば カタ カタカタ カタタカタ 骨が笑う 骨壺の中 カタ カタタ 他にひとつの物音もしない 静まり返ったこの夜更け あまりに骨が笑うので あまりにあなたが笑うので あたしは喰ってやることにした 一口喰んで しゃれこうべ 二口喰んで 足の甲 三口喰んで 割れた上顎 はぐはぐ はぐはぐ あなたを喰って 空っぽになったら ようやく眠れる いとしいいとしい骨壺抱

「 雑踏 」

空が墜落する。 一九九五年十二月三十日 午後四時五十八分 溢れ返る雑踏の、 まさにその脳天に 墜落が描く垂直線は 私の脊髄を 真っ二つに 裂傷させる 痛みもなく 衝撃もなしに 乱れることのない雑踏が 等分された セキズイを 通過してゆく その直中に 立ち尽くす 一分間は、 墜落の痕跡を残し得る 速度さえ持たず 腕時計の秒針一周きっかりで その真実は消滅する そして 裂けたままの 二つのセキズイとともに 私が 歩き出す

九,一ニ五の墓標

前方五〇メートル あの角を曲がるまで 午前四時 白み始める空の下 振り向くな 決して そうしている間にも忍び寄る 耳を澄まさなくとも聞えてくる、その 地面を破りやがて姿を現すだろう 招かざる客    ふつふつと    ふつふつ と    胸倉に突き刺さっていた筈の墓標を押し退け    右手から 地上へと、今 振り向くな、立ち止まるな 今は歩け、走れ、ひたすら今は    決して忘れてはいけない おまえの今が いつだって 死者たちのために 在るということを   あぁ、

「 街角」

癲癇発作で突如路上に倒れ込んだ少女の周囲に 群がり始めた人の輪が どんどん膨れてゆく 膨れ上がってゆく 助けを呼べない彼女の意識の向こう側が 切ない悲鳴を上げ キリキリと 空気を震わす あぁ 見上げた天井も 雨雲に覆われ 目覚めても 逃げ場はない 彼女の叫びは 宙に浮いたまま 担架で運ばれたその後には 小さな水溜り ひとつ

「 楔 」

打ち込んだ楔の何処に 約束があったのだろう 楔が喰い込んだのは確かに 赤茶けた土中だった けれど 楔が打ち込まれたその場所は ひとつの胸元 だったのだ それでも一瞬にして止まることのできない 呼吸が ぜぇぜぇと 音を洩らしながら 赤茶けた その土の中に 吸い込まれてゆく 紅色の血脈を 明日は誰かが 何も知らずに 踏みつけてゆく

「 流 」

何処から来て 何処へ流れてゆくのか 川下へ 川下へ 時折傾きながらも行き過ぎてゆく 流木の もうずいぶん前に 途絶えたのだろう 息遣いがそれでも 聴こえてくる 決して抗うことなく 川下へ 川下へと 流れ続ける 沈んでしまうにもまだ遠い 彼方の時間が 横たわる 川縁で はしゃぐ子らの声が その息遣いに乗り 風になる