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グループに招待してあげなかった

彼が招待してほしがっていた場所に、招待してあげなかったことがある。

その友達とはSNSのビートルズのグループで出会い、オタク会話やおバカ会話でいつも盛り上がる仲間だった。陽気で頭の回転が速く、誰からも好かれたけれど、同時に繊細過ぎて人から誤解されブロックされることも、よくあった。彼はいつも私のことを必要としてくれていて、気が付くと、私が入ったビートルズグループにいつの間にか彼がいる。ビートルズ以外にも、私は歴史好きのグループに属していて、そこは全体公開のグループなので、彼からは、私と他のメンバーの方々との会話が見えるのだけれど、メンバーでないと会話に入れないリアクションもできない。それが寂しかったのか、その歴史のグループに、沙織から招待してくれないか、とSNSの通話で言ってきた。

「歴史なんて、てつさん興味がなかったじゃない」と私が驚くと、「いや、あるよ。」と彼はまじめな声で応え、小さく「高杉晋作とかさ」と自信なさげに呟いた。
私は彼のいつもの冗談だと思い、大笑いしてしまった。「それ貼杉晋作でしょ」
当時、写真ばかり頻繁に連投してくるひとをそう呼んで揶揄していた。彼は力なく、笑い、その話はうやむやになってしまった。たしか、招待したとしても、管理人の審査が厳しいから、自分で申請するのと結局、変わらないよ?ということで終わったのだと思う。
その3日後、彼から連絡が途絶えた。余命半年と言われていたのが、予想より早くスマホすら触れない状態になり、それから2週間ばかりで、彼は亡くなってしまった。

「しなかったこと」が「できなくなったこと」に代わると、こんなににも後悔することになる、と残された私は思い知った。

彼がして欲しがってたことで、私がしてげあげなかったことはいっぱいある。
おそらく私は、彼が生き返ったとしても、そのほとんどをやっぱりしないと思う。モラル云々もあるけれど、私はカジュアルにそういうことをして平気でいられるメンタルの人間じゃない。

けれど、今でも建築のグループや朝ドラのグループを眺めていて、ふいに、招待おススメリストに亡くなった彼の写真が上がってくると(それは頻繁にある)みぞおちのあたりに鉛の棒を押し込まれたように息ができなくなったりする。そして、必死に唇を結んでも、涙が止まらなくなったりする。
それって、とても滑稽な現象だと我ながら思う。

亡くなる3日前、私は彼に初めて会った。もう彼はベッドにくくり付けられていて、沢山のチューブから液体やら酸素やらが送り込まれている状況だった。
ほんの一時間ちょっとの滞在の間、彼はずっと私の手を握って離さなかった。肺の病気だったせいもあって、喉も枯れていて、会話もおぼつかなかった。
彼はもちろんグループに招待しなかった私への恨み言なんて言わない。

そのほんの10日ほど前まで、彼はいつもように日課として私とSNS通話で冗談をかわし、リハビリのために車椅子で駐車場まででかけ、朝マックまで食べに行ってたのに。
体力つけて、一日でも長く生きようね、春になったら、彼の誕生日が桜の頃だからお見舞いに行けたらいいねと話していた。
「いつも陰気に俺に話しかけていた担当医の先生がさ、最近、明るい笑顔で、良い関係を築けてるんだ」と彼は誇らしげに言った。私はチラリと見えた不安の影を必死に見えないふりをして押し込めた。
「病院の桜じゃなくてさ、一緒に故郷の美波羅川の桜並木を見に行きたいな」
と彼が言ったとき、私は自分の頬がグッショリと濡れていることに気づいた。

「沙織、なんで泣くんだ」
「なんでかな、嬉しいからだよ」
「実現するわけないと思ってる?」
「ううん、桜並木歩きたい」
もちろん、故郷の桜どころか、病院の桜も見ずに、すぐに来るはずだったバースデーすら迎えずに、彼は旅立つことになった。

グループなんて彼にも私にもどうでもいいことなんてのはわかってる。
問題は、私が、そうやって私を必要としてくれている人の気持ちを、頻繁に潰してしまうことがある、しょっちゅうあるということだ。
私を嫌っている人ならまだしも、私を愛してくれて、私もその人を大切に思って過ごしている時ですら、私は平気でそうやって気づかないうちに、気持ちを跳ね返してしまうことがきっと、今でも山ほどあるのだろう。

それは、私の無神経さ、傲慢さ、思慮のない軽はずみさゆえだ。

それまでも何度も彼の小さなジェラスを笑い飛ばして、それを大きな苦しみに育ててしまったこともある。バランスを崩す彼を理解できなくて、苛立って怒ったことすらある。彼をストーカーだ異常者だという人たちに、キッパリとは言い返せくて、彼を密かに失望させたこともあったはずだ。
善悪でなくて、自分の価値観で裁くのではなくて、まずは大切な人の気持ちに寄り添う、そういうことがわたしには何故かスッポリ欠落しているのだ。

このごろ、中学生高校生になった我が家の子どもたちに、実は食べ物の好き嫌いが沢山あることがわかった。
これまで離乳食から始めて毎日ずっと10数年、出されたものは全て完食してくれていたし、なにが嫌いとかなんて一言も言わなかったので、私はすごく驚いた。
今まで、嫌いなものも黙って食べていた理由を聞くと、
「好き嫌いを言っちゃいけないのかと思っていた」と二人が口を揃える。私は妙な汗が全身から吹き出してしまった。

料理にはずっと力を注いできていた。料理コンテストで賞もいくつかもらった。美味しく食べてもらっているとばかり思っていた。
でも、実際の私は、子どもに好き嫌いも言わせないほどの専制君主な母親だったんだ。
こうやって毎日愛を注いでいるつもりだった子どもたちにすら、この有様なんだ。

それからは晩御飯は好きなものが好きなだけ取れる大皿メニューにした。野菜も食べなくても怒らない。身体が必要なら自然に食べたくなるだろう。菓子パンやカップラーメンやジュースも不問。育ち盛りだからハイカロリーなものをとっても大丈夫だろうし、思春期のストレスの中で癒しだって必要だろう。

私に残された時間がどれくらいかはわからない。せめて私を必要としれくれているひとたちのために、もっと耳を澄ませよう。じっと目を凝らそう。これまで20代30代と子育てに児童合唱団に一心不乱に走り続けてきて、それが40代に入って少ししんどくなったのは、子どもたちがようやく反抗期に入ってワガママを言い始めてくれたのは、そういうタイミングなのだろうと思う。

グループの招待リストからこちらを見ている彼の視線を受け止めるたび、私は大切なひとたちを、どれだけ愛せているかな、と自問する。そういうことも、きっと彼が私に遺して教えてくれた大切なことのひとつなのだろう。


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