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13歳差の恋と、死について


模試が終わったあと、友達がワッと笑いながら私の机にやってきて、「沙織!この向田邦子さん沙織!」と問題用紙の大門②を見せながら言ってきた。言われるだろうなあとは思っていたけれど。
そのころの模試や入試問題、国語や現代文の大門②は、向田邦子さんの随筆が出ることが多く、その時も出典は忘れたのだけれど(ググってみたら『女の人差し指』だった)向田邦子さんがハンドバッグに中華料理店で出されたカニを入れていて、その汁が染み出してビショビショになり、2軒目のお店では大変なことになった、というエピソードが書かれていた。冒頭は生き別れた父が娘のハンドバックを見せてもらったら美しく整理整頓されてて、立派な娘に育ったものよというドラマの脚本の涙のシーンだったこともあって、試験中ながらも私たちは笑いをこらえるのに必死だった。おそらく私が家庭科の授業で使う予定だったマヨネーズを学校カバンの中で爆発させてしまったことが似てると言われた原因なのだろうけれど。娘の中学受験の時も、国語の試験は向田邦子さん無双だったのと、読み物としても面白かったらしく、乞われていくつか私の本棚から文庫本を与えていたのだけれど、娘も同じエピソードを読んで、これ!お母さん!と叫んでしまっていた。まあ確かに私のバッグにはうまい棒とかシーモンキーとか謎なものが入ってることが多いけど。

結婚するにあたって友達と集まってランチしているときも「沙織は向田邦子さんみたいにバリバリ働いて、一生結婚しないと思ってた」とため息をつかれてしまった。小学校の頃から文章を書くのが好きだったり、担任の先生が学年が変わるときに沙織ちゃんの日記が読めなくなるのが悲しいなあといってくださったり、書いたものが面白いと、当時流行っていた交換日記を友達たちから頼まれて、いくつか掛け持ちしては回し読みされていたり、そのうち物語サークルを作ってみたり、ずっと書くことが好きだったのも、向田邦子さんみたいと言われた理由だったのかもしれない。

そういうこともあって、向田邦子さんは私にとって、作品もそのひととなりも、共感することが多くて、どこかお姉さんのような慕わしさを感じていた。

私の本棚には何冊か、ハードカバーや文庫本を含め同じタイトルの本が並ぶものがあったりするのだけれど、向田邦子さんの『父の詫び状』はハードカバーが1冊、文庫本が2冊ある。おそらく新幹線などの移動中や、旅先で読みたくて買ったものだろうと思う。日常を離れて移り行く景色を見ながら向田邦子さんのエッセイを読むのって、すごく幸せなひとときだ。生きててよかったな、とさえ思う。一文一文が、ピタっとはまる。

『向田邦子の恋文』という本については、手に取る前から何度か耳にしていた。台湾での飛行機事故で不慮の死を遂げた彼女の遺品から、出てきた手紙や写真たち。妹の和子さんがそれを見つけて、長年しまって置いたものを公開したのだ。そこには13歳年上のカメラマンの恋人とのやりとりが記されていた。妻子ある男性で、道ならぬ、秘めた恋だった。結婚後仕事を控えていた山口智子さんの主演でドラマ化されたらしくて、それは見ていないのだけれど、傍から見れば不倫ものだし、それにしては関係としては地味だし、あまり評判はパッとしなかったようだ。

向田邦子さんが道ならぬ恋をしていたというのは、彼女の作品を読んでいれば見当がつく。そこには、秘められた、苦しい、それでも甘美な、狂おしくて、自分自身をも刺すような何かが、端正で時にコミカルな文章の下にずっと横たわっている。ご両親と揉めたであろうことも匂わせられている。色気も男っ気もなく、ファンの男性作家さんからも処女と思われていたようにあっけらかんとしていて、それでいて、ひた隠しにした色気のようなものが香り立っている。

『向田邦子の恋文』は気にはなっていたのだけれど、なにか私にも刺さりすぎるようでしばらくは手が出せなかった。
文庫本を手に取ったのは、武雄のTSUTAYA図書館だったと思う。そのころ、私はある男性から想いを伝えられていて、一生会うことはしないという前提で、気持ちだけを受け取ることを承諾していた。もちろん、男性は男性である以上、私に会いたがるし、関係も持ちたがったのだけれど、私はそれなら、別のひとを出会い系で探して愛人にしてくださいなと伝えていた。彼ならそれが容易にできたはずだと思うし、ネット上には出会いを探す同年代女性も多くウロウロしてたのだけれど、そういうことがしたいわけでない!といつもムキになって否定していた。彼が亡くなるまでの二年半のやりとりの始まりがその頃だった。私は『家庭画報』での向田邦子さん特集と、『向田邦子の恋文』文庫本2冊を抱き合わせで買った。『家庭画報』は料理上手な向田邦子さんの「ままや」でのレシピや、好まれた器などが特集してあって、その後、ちょっと風邪で寝込んだ時などに、ベッドで眺めたように思う。でも、『向田邦子の恋文』の文庫本の方は、手を出せずじまいだった。なんとなく、読むのが怖いような、まだ早いような気がしたのだ。少し、縁起でもないような気がしたのもある。そして、そのぼんやりとした不安は的中した。

向田邦子さんの13歳年上の恋人N氏が急死し、そのことで彼女が放心状態になっているのを妹の和子さんが見たことを証言しているのは知っていた。
私と会わない関係を持っていた彼も、私と13歳離れていて、恋人のN氏と向田邦子さんとの年の差と同じなので、なにか怖かったのだと思う。良い歳をした男女がプラトニックでもいいなんて、やっぱりちょっとおかしい。彼から気持ちを伝えられた時、私の一生会わなくていいならと言う無茶苦茶な条件(これを言えば断ると思ってた)をのんでくれたときから、私は彼から、ただならぬ気迫みたいなものを感じていた。そこには悲しい予感のようなものがずっと漂っていた。私はそれまでに大切な人を2人、亡くしていたのだけれど、明らかにその二人は顔立ちも身体付きも似ていたし、彼らはその彼にも似ていたことも気になっていた。こうしてみると私は我ながら疫病神のようだ。ロマンティックに書けば処刑場のヴァルハラに咲くアルラウネや死をもたらす乙女ブリュンヒルデ(ポニョの本名)だろうけど少なくともおめでたい存在ではない。

彼が亡くなってから、彼のお母さまやお姉さまから連絡を頂くようになった。月命日にはいつもラインを交わしたり、心づくしを何度も頂いたりするので、お電話をしたりもする。彼を失って本当に苦しいけれど、実の息子や弟を失うことに比べたら。。。と私は思いたくてお母さま、お姉さまたちと言葉を交わしているフシがある気もする。あちらは私のことを苦しみの中に現れてくれた天使だ、息子があなたのことを女神と言っていたのがわかると、なにかそら恐ろしいほどの賛辞を言ってくださるけれど、私は私で、彼女たちの苦しみに比べたら私の苦しみなんてマシだ、と必死に思いたくて話しているので、情けは人のためならずというか、動機の根本は自己中なのだ。

今回、本棚を整理していたら出てきた『向田邦子の恋文』の文庫本、読むとしたら今かなと思って開いてみた。
勝手に病死と思っていた、N氏の死因は自殺だった。10年付き合った愛する人に自殺されるなんて、そんな向田邦子さんに比べたら私の苦しみとかまだマシ、、、とまたもや不謹慎なことを思ってしまう。愛する人に自殺なんてされたら、私はもう生きていけないかもしれない。よくぞ向田邦子さんも生きてたものだ。
N氏の日記や向田邦子さんの書いた手紙などを読むと、病気の彼に、どれほど彼女が献身的だったのかがわかる。
病で半身不随になった彼に、彼女は三日と開けずに自宅に行き、料理を作って食べさせ、時に体を支えながら外食に行く。生活費さえ渡している。
彼が亡くなる3日前、彼女は彼に一万円、生活費を渡している。1963年。当時からすれば高額だ。
私はなんとなく、この一万円が、彼の自殺を後押ししたのではないかとすら思う。

N氏日記の中の彼女はいつも疲れている。脚本家として売れっ子になってきたころで、寝る間もないほど忙しい合間に自宅、エッセイにも書かれていた厳格なお父さまがいる実家を抜け出して彼に尽くしているのだ。彼の傍に疲れ果てて横たわる向田邦子さんの寝顔を眺めながら、なんだか可哀想になってくる、とN氏は記している。「来なくてもいいよ」となんていじわるなことを言う!と、向田邦子さんはたまに手紙でこぼしてふくれているけれど、それはどう考えても彼女の身体を気遣う彼の優しさだろう。

もしかしたら、と思う。彼は、彼女の人生を、時間を、無駄にしたくなくて、死を選んだのかもしれない。向田邦子さんが脚本家として軌道に乗れたもの、彼のアドバイスと見守りあってこそのようだ。脚本家としての向田邦子さんを育てたのは彼だと、妹の和子さんも記している。彼の日記には向田邦子さん脚本の番組の感想がつぶさに記してある。この後、彼女は名作と言われるドラマを多く生み出し、のちに放送作家としてだけでなく、随筆家、小説家、直木賞作家としても輝いていく。でも、もし、彼がずっと生きていて、彼女がその介護を続けていたのなら、それは成し遂げられなかったのかもしれない。

彼は病気で動かなくなった身体と人生に絶望して、それは向田邦子さんにも救えなかったもの、だから死を選んだ、最初はと思っていたのだけれど。
そんな自分の身勝手な理由だけでなく、彼は向田邦子さんに無駄な時間を使わせたくなかったのかもしれない。そうでなければ、不倫の関係を終わらせようと、別れを決意した向田邦子さんを、妹さんたちにバレるのを承知で新宿のバス停まで追って行ったほど未練があったほどの愛を、自分ひとりの絶望だけで断ち切るわけがない。

N氏の本当の、死を選んだ理由、彼女を思いやる気持ちに、いつの日からか、向田邦子さんは気づいたのではないかな、とも思う。

作家として大成した後、もう、いつ、彼のもとに行ってもいいと彼女は思っていたのかも。台湾での飛行機事故の直前、『父の詫び状』の舞台の鹿児島に行って同窓生たちに会ったり、日頃、苦手で手を付けない片づけを、台湾旅行の前にしていたことからもそれがうかがえる。
飛行機はおっかないといいつつ、彼女は死をそんなには恐れていなかったのだろうと思う。だってそれを越えたら彼に会えるんだから。

大切な人を失うとき、あたりまえだけど、孤独になる。それまで知らなかったぽっかりとした恐怖に近い暗闇を知ることになる。ごっそり身体の大部分をあちらに持っていかれたようになって途方に暮れる。若い時は、それを就活や、子育てに頑張ろうと決意することで乗り越えてきた。
20代、30代の若さと体力も味方してくれた。卒業後は生きていくためには足掻かなければいけないことも或る意味吉と出たと思うし、目の前の小さな子どもたちを前に完全に絶望するわけにいかなかったのもある。

歳をとるとはそういったものかもしれないけれど、若いころは無我夢中で乗り越えて来られたものが、40を越えてから、とても無理、一歩も踏み出せないことが増えてくる。頭の片隅の懲りない誰かは、こんなこと昔もあったじゃないか、越えてきた道じゃないか、と簡単に言う。
いや、でも無理なんだって。昔登れた山や坂道だからって、前のように踏み出せるものじゃない。身体も心も私は時間と共に衰えているんだから。

どういうわけか、私の周りには秘密の恋をしている魅力的な女性が多い。彼女たちは私の空気を嗅ぎ分けるのか、人には話せない悩みや想いを話してくれる。
ただ、私は昔から処女であることに重きを置いていたことと、今でも同じ傾向にあって気持ちを伝えられても身体の関係を持とうとは思わないので、恋を謳歌する彼女たちとは少しズレるところがある。罪の恋に身体を重ねる彼女たちをさほど羨ましいとは思えないし、彼女たちは常に恋愛を求めているけれど、私は基本、出会いを求めてはいない。

新しい出会いを探す気はない。かといってアルコールやギャンブルでまぎらわそうとも思わない。彼は私に出会う前はアルコール依存気味だったと聞いている。私と出会ってからも、私と気持ちがすれ違ったり、あまり彼をケアする余裕がないときは彼は寂しさに負けてお酒を飲んでしまって後悔していた。私はそんな彼を見て、思い余って、寂しいときには歌ってほしい、もしくはやめてたヴァイオリンをまた聞かせてほしいと伝えた。きっと音楽って、どうしょうもない何かを埋めたり、表現するためにあるものなんだろう。


いつか、私が書こうとしている小説のプロットのことを彼に話すと、彼は、でも俺がいたら、沙織は書く暇ないなあといつも嘆いていた。
彼からは朝も昼も夕方も電話がきてて、その合間にメッセやグループでもやりとりしていて、私は買い出しやアイロンがけやモヤシのひげとりをしながらイヤホンでずっと話していたから。もちろん家族がいるときはそちらにかかりきりなので反応はしてあげられない。そのぶんひとりの時間はほぼ彼にかかりきりだった。ほとんど赤子のような介護のようなもので、おおよそロマンティックなものではなかった。


彼は自殺ではない。でも、自分が生きてるうちは、恋してるうちには、そうやって私の時間を大いに奪うことに心を痛めていた。状況は違えど、N氏も同じだったのかもしれない。

彼が亡くなって結果的にはぽっかりと空いた時間をくれた。それ以上に、ものすごい孤独と寂しさと恐怖を与えてくれた。
埋めるには、もう書くしかないのかなと思う。他のことには興味が持てない。遊びの恋やランチや旅行で簡単に癒せたりする種類のものでもない。向田邦子さんのようにはもちろんなれないけれど。きっと向田邦子さんも、そうして書いてきたのだろう。彼女の文章にはあちこちに愛する人への気持ちが影を落としている。きっと多くの音楽たちや芸術作品たちにも、それは共通のことなのだろう。


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