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ペットを飼うのは人間のエゴである

のっけから喧嘩を打っているようなタイトルである。種類を問わずペットを飼っている人は多数いるだろうが、なぜ私はこう考えるのか。良ければご一読願いたい。

エゴという言葉を調べてみた。「自分本位の考え方や態度」とある。例えばある人が「お米が欲しい」と思って米を作る、もしくは誰かが作ったものを購入する。これは生きていく上で絶対必要だから、当然のことだ。ところが「ペット」は絶対必要なものではない。むしろ人間の下位の欲によって作られる。

そしてどうなるか、例えば犬の例を挙げよう。彼らは殆どが1日中鎖によって繋がれている。去勢手術を施される。これを人間に置きかえるとどうか。自由や権利のない、刑務所暮らしと大差ないのではなかろうか (気分を害された方、申し訳ない)。

これが老犬や病気持ちの犬を、自ら進んで引き取るとなると話は変わる。だがそんな人は稀で、普通は可愛い子犬の時から飼いたい、お金を出してでもという考えが一般的だろう。実際飼っても何らかの理由で飼育放棄・虐待されるペットも一定数存在して、それらは動物愛護団体などに引き取られる。活動費は主に寄付金から成り立つ。

そんな私も、ハムスターが欲しいと思った時があった。しかしあれは本来野生の生き物で、暑さにも寒さにも弱い。人は誰も家にいないのに夏はクーラー冬は暖房。そうまでして飼うのは違うんじゃないかとすぐに思った。誤解しないで欲しいのは、ペットを飼うのは自由だしそのような人達を否定している訳ではないことだ。

もう何年も前から自然環境の変化により、食べ物を求めて熊などの人里への出没が報道されている。彼らは生きるためにそうする。だが人間としては生命の危機に関わることなので、時として殺される。意図せずそうなるケースもある。もちろんペットも一定数は殺処分される。両者は人間の都合により命を奪われている。しかし違いは、
①ペットは人の欲望によって生まれる
②自然破壊による動物自身の困窮には殆ど支援がない、ということだ。

一方で動物をペットとして飼う。一方で人間の行いによって生活を破壊された自然界の動物を殺す。矛盾していないだろうか。ペットを飼ったり保護する人と、人的被害をもたらす動物を保全したり環境改善する人は、きっと別のフィールド上にいるのだろう。動物愛護の精神は素晴らしいし活動自体は良いのだが、明確な区分けが本人達の中でされているだろうことに疑念を感じてしまうのは私だけだろうか。


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