【短編小説】雨がやんだら
「明日は行かない。雨だから」
彼女はまるでそれが法律でもあるかのように言う。僕が友人のツテをたどり、特別に手に入れたチケットを見ても表情は変わらない。
「会場は地下鉄に連結してるし、そんなに外は歩かないよ。駅までタクシーで行けばいいじゃん」
またか、と汗がじわりとにじむ。
彼女と付き合い初めて何度かこういうことがあった。
いくら彼女好みの行き先でも、雨が降れば躊躇なく「ごめんね、今日は行かない」というLINEが来る。
そして、その決断は宥めても怒っても絶対に覆らないのだ。それならとお互いの部屋で会おうよ、と提案するがそれも断られる。
「雨の日は、ひとりでいたいの」
さすがの僕も、天気くらいで当日キャンセルはしんどい。
そもそも社会人としてさ、それってどうなんだよ。仕事は行くんだろ?俺の存在ってそんな軽いのかよ。馬鹿にするのも大概にしろよ。
一度、そんなふうに声を荒立てたことがある。
彼女は悲しそうにうつむき、首を振る。
「ごめんなさい」
それから、当日キャンセルはなくなった。
天気予報で約束の日が雨だとわかった時点で、断りのLINEが来るようになったからだ。
つまり、ますます会えなくなったわけだ。
「なんかやばいバイトでもやってんじゃね?」
同僚の坂本に愚痴ったら、こんな答えが返ってきた。
「雨の日だけのやばいバイトって何だよ」
ついつい言葉が強くなってしまう。
「俺にあたるな」
坂本は顔をしかめながら、タッチパネルでハイボールを注文する。
「雨の日だけのニッチな風俗とか……不倫とかさ。雨の日しか会えない相手が別にいるんじゃないの。いやごめん、ごめんって!冗談だよ」
僕が真顔で睨んだので、坂本は慌てた。
「雨が降らなきゃ、普通なんだろ?考えすぎだよ。偏頭痛がひどいとか、生理痛とかさ。女はいろいろあんだろうさ」
「まあ……なあ」
ビールがまわってきたせいか、彼女の温かな体温と吐息を思い出す。
頼りなげに僕を見つめる目、しっとりとしたきめの細かい肌。隣で無防備に眠る彼女は、まるで子供のようだった。付き合い初めて長くはないが、性を売れるような捌けた感じはまったくしない。
「ひっかかるなら、別にその子じゃなくていいんじゃないの?次に行け次に」
坂本はその話題に飽きたようで、いつもの上司の愚痴を言い始めた。
僕はその話に相槌をうちながら、坂本の仮説を反芻する。
そんなこと、あるわけがない。
ありえない、馬鹿馬鹿しいと思いながら酒の勢いでここまで来てしまった。
いつもふたりで来るコンビニの灯りに、小さな虫がたくさん集まっている。
今日はひとりだ。
なんだか違う店のようにも思える。
坂本の言葉を全否定しながら、知らない誰かに抱かれる彼女の映像が離れない。
まったく、自分の想像力にあきれてしまう。
彼女は連絡なしで部屋に来られることを嫌った。僕もその気持ちはわかるので、今まで強引に押し掛けるようなことはしなかった。
あなたのそういうとこ、大好き。
彼女はいつも褒めてくれた。
だから今夜、禁を犯すことに迷ってしまう。
僕はついに走り出す。
店をでた時から強まった雨は、じっとりとワイシャツの肩を濡らし、またそれが急かすように僕を駆り立てた。
電車を乗り継ぎ、彼女の部屋へと急ぐ。
今日くらい、一回くらい、許してくれるだろう。少し彼女の機嫌を損ねたとしても、このまま帰れない。どうしても会いたい。
いまどきオートロックでもない年季の入ったアパートは、いつも居心地がよかった。
彼女はあまり部屋に物を置かないのもあるが広々としてベッドは温く、そこで僕らは幸せな時間を過ごした。
気持ちのいい風が窓辺のカーテンを揺らす。やわらかい朝日、こまめに洗濯された寝具と安いインスタントコーヒー。
「苦い」と顔をしかめる僕を、笑う彼女。
いつも微かなベルガモットの香りがする、あの部屋。
アパートへついたとき、もう23時を過ぎていた。もう寝ただろうか、と見上げると微かに電気がついている。
よし、と意を決してエレベーターに乗る。
どくどくと心臓が高鳴り、ふとエレベーターの中の鏡を見ると、汗でぎらついた目付きの悪い僕が映っていて、あわてて目をそらす。
罪悪感がないわけじゃない。
彼女を抱き締められれば、いや、ひとこと言葉を交わせばそれだけでいい。
203、と書かれた部屋の前へ。深呼吸し、息を整えブザーをならす。
ごめんね、急に会いたくなったんだ。
迷惑なのは解ってるよ、すぐに帰るから。
ほら、君の好きなシュークリーム買ってきたんだ。夜中にシュークリームっていうのもアレだけどさ。
どの言葉も陳腐だなと思いつつ髪を整える。整髪料が汗と雨でベトベトになっている。もし中に入れたら、シャワーだけ借りれたらありがたいな。
靴も濡れてしまった。靴下は大丈夫だろうかと、靴に指をいれてみる。
ガチャリ、と音がしてドアが開いた。
「あんた、誰」
出てきたのは腹の突き出た、大柄な男だった。
それからは、あまり記憶がない。
警察を呼ばれそうになり、あわてて彼女の名前を告げる。住所もまちがいなくあっている、ここにタナカミワコという女性が住んでいるはずだ、と。
はあ?俺はもう10年ここに住んでる。足の悪いばあちゃんといっしょさ。もう寝てるけどな。若い女?知らねえな。あんた騙されたんじゃないのかい。
最初は三角につりあがった目をしていた男も、さいごは憐れむように僕を見ていた。
変な女にひっかかったな、まあそんなこともあるさ。悪いが明日早いんだ、あんたもさっさと帰らねえとこれからひどく降るらしいぞ。
正直、どうやって帰ったのか覚えてない。
目がさめたら昨日の格好のまま、自分のベッドに寝ていた。汗と雨でひどい匂いだ。
悪い夢でも見たか、と思ったが溶けてつぶれたシュークリームが、昨日のことは本当だと物語っている。
僕は彼女に電話する。
あの部屋の男性が嘘をついてる可能性もあるだろう。もしかしたら田舎の父親かもしれない。
いろいろと選択肢を並べると同時に、彼女とはもう会えないのだろう、という予感もする。
それはたぶん、間違いないのだろう。
きっと、彼女はもういないのだ。
あの部屋にも、この街にも、どこにも。
カーテンの隙間から、鉛色の空が見える。
夕方には雨は上がるでしょう、とラジオから軽やかな声が聴こえる。
コール音が空しく響く。
ねえ、約束を破って悪かったよ。
夕方には晴れるから、会いにいっていいかな?
溜まった洗濯物、一緒に干そうよ。
そしてまたあのコーヒー淹れてよ。インスタントの、苦いやつ。
決して繋がることがないとわかっていながら、僕はずっと、ずっとコール音を聴いていた。
ベルガモットの香りが、
ふと鼻先をよぎって消えた。
今朝、お友達の記事にこの曲が紹介されていて。なつかしい!と曲を聴いたら、するするっとお話が降りてきました。
名曲なんですー!
梅雨にキリンジ(兄弟時代)お勧めです。
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