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ピリカ目線~ありがとうマスター

2月某日、その日私はかなり疲れていた。

そしてご機嫌のほうも、斜めを通りすぎてほぼ垂直、という状態であった。

営業職にとっての正月は、年間の数字の締め日である。私の会社でいうと3月中旬。やっといま、一息つけているというわけだ。

来年のボーナス率が決まる月で、皆それなりに受験生さながらのピリピリ具合なのであるが、今年度私は、数字を作るのに苦戦した。

理由としては主力商品の単価が下がったこと。

昨年と同じように動いても、7割程度の売上でしかなく、更に数をこなすか大口契約を狙うしかないのだが、まあそううまくは行かない。

アポのキャンセル、クーリングオフ、中途解約。いろんなマイナスがどんとまとめて来たのがその日だった。

連日睡眠もよく取れずに仕事しているため、目の下には隈がひろがり、肩に力もはいってガチガチ、スカートの下は浮腫んだパンパンの足。

なんでこの年齢になって、こんなに命削って働かないといけないの?
仕事って、もっと楽しいもんじゃないの?
毎日毎日長距離を運転し、神経をすり減らし、どんどん体に老廃物が溜まっていく。

私なんて、私なんてとネガティブのかたまりになってしまい、何もかも投げ出したくなってしまった。

プチン、ときた。

思いきってアポをすべて先延ばしにし、喫茶店でぼーっとすることにしたのだ。

ここのマスターは、私の顔は覚えてくれているようだが常連、というほどでもない。親しく話したこともない。

それくらいの距離感が、いまの気分だ。

時刻は10時40分。
モーニングメニューには遅く、ランチには早すぎる時間である。

60代くらいのマスターが営む、昔ながらのお店で、カウンターのほかは席が3つだけ。
まだ私が学生の頃からあるから、もう何十年もこの場所で頑張っている。

今は少なくなった喫煙OKのお店で、今日もおじさんたちがカウンターで新聞を広げながら煙草をくゆらせて、野球の話をしていた。

普段商談でよくカフェには入るものの、お客様と仕事の話をしているときには、緊張しているからかまったく味わえない。
追い込まれているときには、まるで泥水を啜っている気にもなるくらいだ。

今日はちゃんとしたコーヒーを飲みたい。
とりあえず一息つこうと、メニューを探す。

中途半端な時間のせいで、頼めるものは限られている。
ここのホットサンド(ツナと卵焼きのサンド)は私の大好物なのだが、それは11時半からのメニューだ。

仕方なく、「すみません」とマスターを呼び
「ホットケーキセット」とオーダーする。

するとマスターが、目をくるん、とさせて言った。
「時間は気にせんで、好きなもん頼まんね。いつもならホットサンド食べらすやろ?」

その瞬間、涙が込み上げてきて私はごまかすのに一生懸命だった。

「あ、ありがとうございます。じゃ…玉子とツナで」
すこし、声が震えた。
恥ずかしい。いい年して。

「はい、玉子とツナね。コーヒーはブラックでよかとね?」
マスターはくしゃっ、と笑ってカウンターの中に入っていった。

私のこと、覚えててくれてたんだ。
心にほわあっと、優しい灯りが点る。

ホットサンドは、相変わらず美味しかった。
食べながら、一口毎に元気になっていくようで、何度も噛んで、味わって食べた。コーヒーもすっきりとした味で、胃にもたれない。

いい食事だった。

お会計をするときには、私はすっかり気分が整っていた。

「ごちそうさまでした」
千円札を出す。

「はい、150円のお返し。あんまり無理したらダメばい。人間ちゃあんと食べんば、よか仕事はできんもん」

マスターがにっ、と笑いながらお釣りをくれる。

「はい、ほんとそうですよね」
頭を下げて、階段を降りる。

これでまた、仕事ができそうだ。
我ながら単純だけれど、もう先程までのなげやりな気分はなくなっていた。

よし、また初めから仕切り直しだ。

私はパソコンを持ち直し、歩きだした。
















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