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人は、少しずつ悪魔になるわけではない、と思った日。

先日のこと。

同級生が、廻りにお金を借りまくったあげく、よからぬことをして行方をくらましたと聞いた。

警察のお世話になるような類いのこと。


正直あまり強い印象は、彼女にはない。

集合写真の真ん中にいる感じではなく、後ろの列でほんのり笑っているタイプ。よくも悪くも、目立たない子だった印象。

私もそんなに交遊範囲が広かったわけでもないので、学校で会えば挨拶をするくらいの間柄だった。

この年になるまで、彼女の名前を意識することもなかった。

そういえば彼女から年賀状をもらった年もあったな、と思い出し、昔の葉書の束を漁ってみる。

端々が茶色っぽく変色した葉書。

束ねていたゴムが溶けてくっついていた。すこしベタっとして、私は慌てて手を洗った。


「明けましておめでとう。お餅を食べすぎないように、お互い気をつけようね☆」

丸っこい文字の上には、その当時の干支のスタンプが押してある。昔流行った、「プリントゴッコ」というやつだ。


彼女のことを思い出す。

あまり、自分の意見をいわない子だった。遊ぶときも、みんなのルールにうん、いいよ、と笑顔で従うような。


彼女のその悪事の顛末を聞いて、

「あの子、中学のころからなんか不思議な感じはしてたよね」

「うん、ニコニコ笑ってたけど、腹の中ではなに考えてるかわかんなかった」

「時々、親に叩かれてたの、見たよ」

などと、さも子供の頃から、今回に通じる悪の芽が出ていたような噂が流れた。不穏な噂は、伝わるのは早い。


本当に、そうなのだろうか。

中学のとき不思議な子だったから、いまの彼女の悪行があるのか?

それは、こちらが見たいように人を見る、ということじゃないのか。

善人ぶるわけではない。私はこの悪い噂が耳に届くまで彼女のことを忘れてたのだから、誰よりも冷たいと思う。


でも、それでも。

人は突然、悪魔に豹変することがある。いわゆる、「魔が差す」ということだ。

どんなに清廉潔白な人物であろうと、健全な心体をもった人であろうと、その「魔」に引っ張られるときがある。

人は、善から悪へ準備万端整ってから、悪行をおこなうわけではない。

魔に魅入られる前の瞬間までは、一点の曇りもない善人だった、ということだって十分にあるのだ。

この年賀状をくれた時の彼女は、本当に「お餅を食べすぎないように気をつけようね☆」という優しさを持った少女だった。

その思い出にまで、バツをつけてはいけない。

私は同級生の噂話に同調しそうになった自分を恥じる。


人は危ういものだ。

私だって今は、ガハガハ笑って音声配信なんてやっているが、ほんの10年前は声に出して笑えない日々だった。

光と闇、自分もどちらに転ぶかわからない。そんな思いを、私も常に持っている。


だからこそ。

だからこそだ。


光の方に顔を向けるよう、自分から努力しないといけないのだと思う。

完全な闇に見えても、そこにひとつでも出口はないのか。

別の考え方をすることで、闇の端っこに見えてくる光はないのか。


自分に見えない時は、人に頼ればいいんだ。

友人にいえないときは、家族。

それも難しければいわゆる「いのちの電話」でも。

二つの目、ひとつの脳が、二人に話せば六個の目、みっつの脳で考えられる。


私も過去、いろんなことに対峙してきたが、ひとりで抱え込んでうまくいった試しは、残念ながら、ほとんどない。

光は、ちゃんと探せば、見つかる。

完全な闇を作り出すことのほうが、難しいんだから。


未来は、「今ここ」の連続した先にある。光ある場所に到達したいなら、

今を、一生懸命に生きよう。

すこしでも、明るい場所を探しながら。


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