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【小説】雨上がり

雨が降っている。

こどもの頃から、雨がふると居場所がなくなるから嫌だった。
濡れるから、とか外で遊べないから、とかの理由ではない。

物理的に、居る場所がなかったからだ。


2009年6月1日 

学校からの帰り道、私はいつもひとりだった。
友人がいないわけではなかったが、あえてひとりで帰るのを好んだ。

学校から私の家はわりと近く、誰かと一緒に帰るとなると「バイバイ」と手を振って玄関に入らないといけない。

「マイちゃんちで、ちょっと遊んでいっていい?」なんて声をかけられた日には、断る理由も考えなければならないから面倒だ。

私は、そうっと玄関の引戸に手をかける。

よかった。今日は空いていた。


そして、あいつの革靴がないことを確認して、ほうっと息を吐き出す。
ママの華奢なサンダルが、だらしなく脱ぎ捨てられ、片方はころん、と横向きに転がっていた。

夜勤から帰ってきて、そのまま寝てしまったのだろう。

私は台所の小さな椅子にランドセルを起き、テーブルの上を見る。
小さなおにぎりがみっつ、ラップされてちんまりと置かれていた。

これは、私が食べてはいけないものだ。


一度、給食のおかずが少なくてお腹がすき、ついついつまんでしまったことがある。
ママは美しい顔を冷たくひきつらせ、三日間ほど目も合わせてくれなかった。


このおにぎりは、夕方にうちで必ず休憩をとる、あいつのためのもの。

てらてらとした細かい縞の背広を着て、尖った茶色の靴を履いたあいつ。
ワックスで髪を撫で付け、高そうな車を駅裏のパーキングに停めてからやってくるあいつ。
日曜日にはなに食わぬ顔をして、小さな男の子とアンパンマンショーに行くあいつ。

ママがあいつの腹の上で悲しそうな獣の声を上げるときがある。
私は当然ここにはいられない。
いたくもない。

そのときのママは完全に私の存在を忘れているだろうから、いても気づかないかもしれないけれど。


あいつと顔を合わせたくもないから、
ランドセルを置いたら、テレビの横のポストの形の貯金箱から小銭をつかんで外に出るのがいつもの日課だ。


こんなときだ。

雨が降ると、時間を潰せる場所がすごく限られるから本当に困る。

図書館や児童館も、粘れてせいぜい5時までだ。

アーケードにいくと屋根があるから濡れないけれど、いかにも小学生の私がうろうろしていると人目につく。

ママは私に関心がないだけで、あいつがいないときは少しはごはんも食べさせてくれるし、お風呂も自分で沸かして入れる。

殴られもしない。

殴られさえしない、というべきかもしれないが。


保護されて、話が大事になるのはめんどくさかった。

施設に入ればまたそこのルールを守らないといけないから、それよりは自分で自分の世話をしたほうがまだ自由だ。


あと三年。

三年だ。

中学を卒業したら家を出ると決めていた。

ただ、住む部屋は考えなければならない。

ホショウニン?シキキン、レイキン?
そういうの、よくわからないから本で調べなくちゃ。

はやく中学生になれたらいいのに。
部活にはいれば、夜まで家に帰らなくてもいい。

中学を卒業したら、夜間の定時制高校にいこう。私は頭は悪くないのだから。

私は、図書館の窓から物憂げに外を見上げる。

閉館の音楽がなっている。
夜までどこで時間をつぶすかで、私は頭がいっぱいだった。
ひろげていた本を、ひとつずつ棚に戻す。


「もしかして、帰るところがないの?」

その人の声が聴こえた。



2022年6月1日

「横田さん、ホールの掃除おわりました」
私が声をかけると、横田さんが眼鏡を外してにっこりと微笑んだ。

「ああ、ありがとう。マイコさんは仕事が丁寧だから助かるわ」

横田さんが、とんとん、と書類をまとめて椅子から立ち上がる。

誉めるのがうまいひとだな、と思う。

「ごめんね、いつも夜遅くまで残ってもらって」
「いえ、私・・早く帰ってもやることないから。残業代出してもらえるなら、そちらがありがたいんです」

私は正直にそう伝える。

ここにいれば、食事の賄いも出るし、ひとりの部屋にいるよりは寂しくなくていい。


横田さんは、あの日私に声をかけてくれた図書室の司書だった人だ。帰るところがないのか、と直球で聞かれた。

そのとき、「家はあります」と、私は反抗ぎみに答える。

「そう。それはよかった」
横田さんはにっこり笑った。

「でも、居心地はよくなさそうね。いつもぎりぎりまでここにいるから、気になってたの。なにか事情があるんでしょうけど、最近この辺も物騒だし、この雨なら行くとこも限られるでしょう。・・ちょっと待ってて」

横田さんは図書館の中にもう私たちだけしかいないのを確認して、ぱちんぱちんと電気のスイッチを切って、玄関の鍵を閉めていく。

「何時になったら帰れるの?」
横田さんはうつむいたままの私に聞いた。


「・・ママが仕事にいってから」
「夜のお店?」

ぶんぶん、と私は首をふった。

「あの・・山の上の、パン工場・・」
横田さんはああ、と頷いて、ふと思いついたように私に言った。

「ねえ、よかったら手伝ってくれない?」



その一言を聞いてから、私はずっとここで横田さんの仕事を手伝っている。

「まちなか食堂」は、今で言うこども食堂のはしりだった。商店街の隅っこにあるちいさな食堂。なかには、ここで宿題をしていく子もいた。

いただくのはひとり300円。
家でお腹いっぱい食べれないこどもや、ときには親子も訪れる。

今では似たような施設も見かけるが、当時はまだ珍しく、横田さんはよく新聞やテレビに取材されていた。


小学生の私にはできることといえば掃除くらいだったが、
横田さんは何度もうちに来てくれて、ママと話してくれた。

平日の放課後から夜までの間と土曜日、「まちなか食堂」で私を預かること。
ママが夜勤にでる三十分前までには、家に帰らせること。

「私は教員免許もありますから、宿題もこちらでさせられます。・・だから、せめてマイコさんが帰る頃には、お母さま一人でこの家で迎えてあげてくれませんか」

ママは相変わらず、関心無さそうに指でくるくると髪の毛をいじっていた。

「偽善ね」

ママの吐き捨てるような言葉に、
横田さんは、にっこり笑った。

「はい、やらぬ善より、やる偽善です」



結果、ママは横田さんとの約束を守った。おかげで私はあいつと出くわすこともなくなって、ほっとした。
単純に、反論するのがめんどくさかったのかもしれないけれど。

私に、居場所がやっとできたのだ。

私は食堂のカウンターで受験勉強をし、公立の昼間の高校に通った。
奨学金を受けて大学進学をすすめる横田さんを押し切り、卒業後もここで働くことに決めていた。

夕方からはここでこどもたちの遊び相手をした。横田さんがアルバイト代をつけてくれたので、人並みに学校帰りに友人とマックにいくこともできた。

楽しかった。

自分の居場所があるって、こんなに素敵なことかと思った。

もう10年以上、幾多の資金難にあっても、いろんな人たちの応援のおかげでなんとかやりくりできているのは、

横田さんや他のスタッフの人脈といままでの積み重ねのおかげだろう。仕入れ先を確保するのだって、大変な苦労だと陰ながら心配だった。

私財を投じたスタッフも何人かいるとのことで、もちろん、横田さんもその一人だった。



私はまちなか食堂のごはんで大きくなった。


あまったごはんやおかずは、翌日のお弁当になったし、日曜日に家で食べることもあった。

美しく華奢だったママは、長年の夜勤の無理がたたってか、
ある朝「うーん」と唸って起き上がれなくなり、そのまま救急車で運ばれることになる。

そして、あっけなく、死んだ。

ほんとうに、私はひとりになった。


優しかった時もあったのかもしれない。
私に、その美しい顔で微笑んだ日もあったのかもしれない。

でも、私が覚えているのは、
あいつの気をひくために着飾り、
華やかな香りを纏い華奢なサンダルを履く、あわれな女の姿だった。


「横田さん」
私は白髪が多くなった横田さんの後ろ姿に話しかける。
横田さんはふわっ、と笑顔で振り向く。


さっきから、デスクトップのexcelのカーソルがずっとおなじ位置で点滅している。どうやら決算書のようだ。

「まだ帰らないの?お母さんの一周忌もそろそろ近いんだから、無理しないで帰りなさい」

だいぶ疲れているのは、簡単に見てとれた。

「あの・・ここ、もう無理なんですか?」
私が言うと、横田さんはふう、とため息をつく

「うーん、正直、かなり厳しいわね」

予想していたことだけど、ずきんと心が跳ねた。

横田さんはコーヒーメーカーから熱いコーヒーを注いで、
私たちは、おずおずと向かい合った。

「去年までは、市の助成金があったからなんとか回ってたんだけど、それがコロナ支援のほうが急務ってことで、なくなったの。
・・売れ残りの野菜を寄付してくれてた、和屋さんも、二代目になられて・・今までのようには難しいみたい。簗場ミートさんも、来月でお店閉めるって」

「そうですか・・」

私はうつむいた。


最近は、ほんとに支援が必要な家庭の子より、「食費を浮かすため」に訪れる親子の利用が目立つ。

「まちなか食堂」でひとり300円の食事をし、駅前のスーパーで大量に買い物をして車で帰っていく親子連れの背中を、苦々しく見送ることも多くなった。

「もう、潮時なのかもしれないわね」

横田さんはコーヒーを飲み干した。

「ここね、借地なのよ。スタッフの安田さんのお母様の土地をご厚意で、格安で借りさせていただいてたんだけど、ほら、安田さんのお母様、先月・・」

「・・ああ、亡くなられましたもんね・・」

私は安田さんから聞いた話を思い出していた。
兄が土地は相続することになりそうだ、兄はここにコンビニ出店したいといっている、と苦い顔をしていた。

しかたないことだ。

人の支援で成り立っているものは、人が変われば状況がかわる。

ここで踏ん張ってきた月日は、周りの人間関係が変わるのには充分な長さだ。

「法律上、安田さんのお兄さんがやることを私たちは止められないし、しかたないことなのよ。続いて当然、ということはないからね」

横田さんは、んーっ、と腕をあげて伸びをした。

「私もね、母から一緒に住もうって前々から言われてるの。そう、新潟よ。雪深い土地だし、ひとり暮らしもしんどいみたい。・・そういうこともあってね」

横田さんは、ふと、申し訳なさそうに微笑んだ。

「今まで、マイコさんにもすっかり甘えてしまってたけど・・マイコさん、いくつになった?」

「25です」

私は言った。

そう。

25年も、生きてこれたのは横田さんのおかげだった。
そして、ここのごはんのおかげだ。

「まだまだ、仕事はたくさんあるわ。ここでの経験で、学童の仕事に紹介できるかもしれない。いまから通信制の大学にいく手もあるわよ」

「いいんです」

私は、ぬるくなったコーヒーをぐっと飲み干す。
「私、まちなか食堂をつづけます」

「でも、それは無理よ」
横田さんはすこし厳しい顔になる。

「申し訳ないけれど、私も万策つきたの」

「ママ・・いえ、母の保険金があるんです」
私は、バックにしのばせた通帳を取り出す。横田さんが眉をひそめた。


そう。
私にまったく愛情をしめさなかったママが、不思議と生命保険には入っていたのだ。
しかも、一般的に見てもかなり高額の。

残念ながら、
私のことを心配してのことでは、たぶんない。

あいつ。

ママを狂わせたあの男は、生命保険の営業マンだった。

数字が足らなくなると、ママの機嫌をベッドでとりつつ、ちょこちょこと契約をさせていたのだった。
私はママが死んでから、通帳を見て愕然とした。かなりの保険料が月々引かれていた。ママは必死だった。
払えなくなるとあいつが去っていくようで、怖かったのかもしれない。

そう、慣れない工場の夜勤までして。

家では、青い沖縄ガラスのグラスに、ビールを注いで飲むのだけがママの楽しみだった。

そのときのママは、側で見ていても確かに美しかったのに。



「俺のおかげで、いい暮らしができるじゃないか、マイコちゃん」

死亡保険金の手続きをしにきたあいつは、ママのお気いりのグラスに、煙草の灰を落としながら言った。

ねっとりとした眼で私の上半身を眺めている。

気持ち悪くて、吐き気がする。


「保険金が振り込まれたらさ、オレにちょっと貸してくれないか?ちょっとでいいんだよ。若い女が大金持ったって、ロクな使い道しないからな。ママもさ、それがいいって言うに違いないんだ。ママはオレに惚れてたからな。それが供養ってもんだよな」

虫酸が走った。

全身粟立ちながらも、
私はゆっくりゆっくりサインをする。



「馬鹿言わないで」

私はペンを置き、冷ややかに笑った。

「私はママほどバカじゃないわ。遺族に出した保険金を貸せですって?」

私の剣幕に、あいつはカッとした。

「なんだよ、言ってみただけじゃないか。ひとつの例えだよ。そんな感情的になるなよ。親子そろってアホだなあ」


私が手元のスマホの再生ボタンを押す。


「保険金が振り込まれたらさ、オレにちょっと貸してくれないか?」

あいつの声。

「お前、な、何を・・」
顔を真っ赤にして、スマホを奪い取ろうとする。私はそれを制した。
コピーをとられている可能性くらい、こいつだってわかるだろう。

「このお金は、すべて私がいただきます」
私は言った。
「あなたが私にたいしてやってきたことの賠償金としては、安いもんでしょ」

あんぐりと口を空けたあいつは、何かよくわからないことを呟き、
ついにママに線香の一本もあげずに、捨て台詞を吐いて帰っていった。

ママ。

あんたの愛した男は、あんな下衆なんだよ。
虚しくない?



仏壇のママの写真が、泣いてるように見えた。



「このお金を、新しいまちなか食堂に使いたいの。場所は、うちを改装します。私しか住んでいないし学校の近くにあるから、場所は便利だと思うの。玄関の位置を変えれば、出入りは目立ちません」

私は必死に、横田さんに訴えた。

横田さんは、あきれたように首を振る。

「でもマイコさん。あなたはまだ若いのよ。いまから結婚だってするんだし、マイコさんのお母さんが、・・その、大変な思いをして残したお金でしょう。そんなお金、もらえないわよ」

「はい、横田さんには、あげませんよ」
私はにっこり笑った。

横田さんがよくわからない、という顔をする。

「私がオーナーになります。そして、横田さんをスタッフとして雇います。もちろん、希望があれば安田さんや他のスタッフさんも。この資金だけでやってはいけないから、もちろんやりかたをかえて、将来的には銀行の融資が通る形態にしないといけませんけど・・」

「マイコさん、あなた・・」

「ずっと考えてたんです。私は、横田さんのためにじゃない、私のために居場所を失くしたくないの。私を育ててくれたのは、この食堂なんだから」

「だめよ」
横田さんはきっ、と私を見つめた。

「あなたは今、自分に酔ってるだけ。事業をやるのは甘くないのよ。それは偽善よ」

言われると思っていた。

「やらぬ善より、やる偽善です」
私は、かつての横田さんのセリフを呟いた。
偽善でもなんでもいい。
私は、私のためにここにいるのだ。

「あなた、でも・・」
横田さんの表情がくずれる。目に涙を浮かべている。

窓の外は、雨が降っている。

そぼそぼと、体温を確実に奪っていく雨。

世界中で誰ひとり、私に見向きもしてくれないような気分にさせる雨。


そうだ。
私はもう、雨降る日に行き先がない小学生ではない。

自分の身を守れる傘を持っている。

傘を自分のために使うか、
大事な人を守るために使うのか。


私は一歩、外へ出てみた。
雨は小降りになり、雲間からかすかな光が差している。

「止まない雨は、ないんだから」


私はつぶやいて、傘をたたんだ。

























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