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【火曜日更新】ピリカの荒ぶりエッセイ~③


荒ぶる言葉、飲み込む火曜日

年に一度のピリカグランプリも終わり、ほっと一息ついている。
  私はすべての投稿をスマホで書いている。もちろん、このエッセイも。なので当日は冗談じゃなく指の感覚がなくなるほどだった。だけど、楽しかった。やはりお祭りはいい。

 さて、週も変わった。余韻を楽しみつつ、前を向いていこう。今日もまた、荒ぶりエッセイの始まりである。

先に謝っておく。

正直、今回の話題に関しては、身内のことだし、芯から荒ぶりすぎてコミカルに書けないのをお許しいただきい。ちょっと言葉も鋭いかもしれない。

先週荒ぶった案件としては、これにつきる。
母の諸々でのことである。

うちの母は、89歳。
しばらく私の家に同居し、自宅からデイサービスなどにいくときもあったが、仕事でいつも家にいない娘と、反対にいつも家にいる婿との生活は辛かったのだろう、同居は2年しか続かなかった。

母と主人とは特別仲が悪いわけではないが、チリツモで、まあ、いろいろあったのだ。

80代になってからというもの、入退院の繰り返し。ひとり娘の私としてはその度にいろんな役所や病院関係、ケアマネさんとの調整、お金の振込等をやらざるを得ない。

仕方ない。ひとりっ子ということは、いままで親の恩恵をひとりで受けて来たのだから。と自らを慰めるものの、メンタルはなかなかしんどい。

ただでさえ営業職はメンタルと体力の世界である。9時から17時までの仕事ではないぶん、こまめに動こうと思えば対応はできるが、「どうにかしてくれるだろう」と家族も甘える。

また家族に気持ちをひっぱられると、よほどぶれない軸をもっていない限り、営業活動が低下するのは、ある意味仕方のないことだ。

これは介護だけでなく、家庭の不和や子供の不登校など、支えるものが増えるぶん、しんどくなる。

アポをとるにしても、「このへん、病院に呼ばれたりしたらお客様に迷惑かかるな」などとモヤモヤしてしまい、おもいきって取れない。遠方への訪問もなんとなく控えてしまう。

そうやって活動が鈍ると、結果にすぐ反映するのがこの仕事の怖いところだ。
結果が奮わなければ給与も下がる。そんな時に、コルセット3万円(あとで健保から返金はあるとはいえ、まずは払わないといけない)、今回体況が合わなくなり、退去せざるを得なくなった老人施設の部屋の現状復帰代金14万円、など支払が嵩む。

そこでだ。

どうしても荒ぶってしまうのは、母が自分ですこしも貯金をしていないことなのだ。

それだけではない。
お金のことそのものに危機感がないのだ。
(あるのかもしれないが、私にはそこは見えない。)
昭和ひと桁あるあるなのかもしれないが、「最後は国がなんとかしてくれる」とぽわっとしか思ってないところである。

私の父は20年以上前に病気で亡くなったのだが、母の言い分としては、「だってお父さんがお金はぜんぶ使ってしまったから」。

がんで亡くなった父は、余命を悟っていたところもあったのだろう、早期退職して亡くなるまでの5年の間に、湯水のように退職金を使い果たした。

ほんとに気持ちいいくらいの散財っぷり。

毎週といってもいい国内旅行、ブランドの洋服、パチンコ。母はなにも言わず、旅行にも同行し黙ってそれを使わせた。

夫を立てる昭和の女、と言えば聞こえがいいだろうか。

専業主婦だった母は、父に「俺が稼いだんだから」と言われれば、まあ、使わせるしかなかったんだろう。

だが、将来自分が子供に負担をかけるかもしれない、とはちらりとは考えなかったのだろうか、と私は思うのだ。
安い掛け捨ての保険ひとつはいれなかったのか?父親のせいにして、自分の意思で何かに加入することすら、放棄していた母だった。

母の収入は遺族年金だけ。
貯金、生命保険の類いもなし。

基本、母の年金はすべて施設への支払で消えてしまう。施設代のほか、オムツ、被服費、おやつ、通信費などかかってくるものはたくさんあるが、それは私たち夫婦が負担している。

施設入居しているときは、施設の部屋をキープするために基本料は払い続けないといけないため、入院費と部屋代のダブルパンチである。でも、どうにかして払うしかないのだから、私はかき集めて払う。

払う、払うけどさ。

私も大学生の息子を抱え、日頃の営業活動のために資金も必要だ。会社員の主人のボーナスでなんとか回すしかない。

これが何年も続くとなれば、私たち自身の老後資金はいつ用意しろというのか。あと15年も働けないのだ。今がキャリア形成の最後の詰め、いわゆる働き盛りでもある。

いくら生活費を節約しても、ちょっと営業でいい成果を出しても、結局母の体調しだいでお金がどんどん飛んでいくのである。


だが、誰も悪くはないというのも十分わかっているのだ。

母だって好きで弱っているのではないし、過去に戻って貯金しとけと言えるわけもない。
仕方ない。なにも変わらないのだ。

何もかも、言ったところでどうにかなるものでもないから、結局こらえてしまう。

母に面会したとき、請求用紙が来たとき。病院から呼び出しの電話がかかってきたとき。


そのたびにぐっ、と荒ぶる言葉を噛み締めるしかないのである。

また今日も、ポストに白い封筒が届いている。

私はそれを見たくなくて、ポストにいくまでの足が重くなっている。

自助努力、ということばは最近になって聞かれ出した言葉だ。残念ながら、母の時代にはそういう言葉はなかった。時代がそうだったから、と言ってしまえばそれだけだ。

いつか出口は見えてくるのだろうか。

介護の出口に来たとき、私は一体何歳なのだろう、とぼうっと思うのだった。









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