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自分が自分の居場所になるって。

ミヒャエル・エンデのメモ書きやノートをまとめた「エンデのメモ箱」という本が岩波現代文庫で出版されている。

そのなかの文章の一つに、あるインディオたちの話が書いてあった。彼らは西洋人に荷物持ちとして雇われ、始めの4日間は黙々と、予定よりも早く旅の行程を進んでいったが、5日目になって急に一歩も動かなくなった。円陣をつくって座り込み、2日間。給料を上げると言われても銃で脅されても理由も言わずに動かなかった。
そしてまた急に立ち上がって、元の行程を文句も言わずに歩き出したという。
後に西洋人の何人かがインディオの彼らと仲良くなって、あのとき動かなくなった理由を聞いた。そのときの答えは下記のようなものだった。

「早く歩きすぎた」とインディオは話した。「だから、われわれの魂が追いつくまで、待たなければならなかった」

私はここ数ヶ月、奇妙な感覚を覚えていた。時間の進みがとても遅く感じるのだ。周りの大人たちは「もう●月だ、早いねー」と言う。歳をとると月日が経つのが早く感じるという。でも私は最近、「え、まだ夏も来てないの?気持ちは秋なんだけど、、」と思っている。
恐らく、仕事で新規のプロジェクトの立ち上げに多く関わっていて、何ヶ月も先の予定から今何をしなければならないか、と考えることが多いから、なのだと思う。

本当に?

私は何かチグハグな気持ちだった。

先月、病み上がりのなか、友だちに誘われて、丹沢方面に登山に行った。久しぶりの登山だし、まだ体調に不安があったので正直、怖かった。でも怖いドキドキは、ワクワクと少し近いところにあった。挑戦しようと思うと嬉しかった。ダメかもしれないことが、ちょっと面白かった。

登山は不思議なくらい上手く行った。ちょっとした予定変更が功を奏し、失敗が後の幸運に繋がった。びっくりするほどの青空で、富士山は美しかった。流れ星のように富士山に向かって堕ちていく飛行機雲を見た。後から、あれはイカロスだったのかなと思った。ギリシャ神話の風景を見ることができたのは、文学少女にとってはとてつもないご褒美だ。

そして先週、一泊でちょっと遠くに出かけた。今回はごく親しい友人たちに会っただけの、ほんとにちょっとした旅行だった。さおりに会いたい、と言ってくれた友だちに、会いに行っただけの。そこで友だちに甘えるだけ甘えた。「さおりは、ぶりっ子なんだけど嫌じゃないのはなんでだろう」と言われた。ぶりっ子とよく呼ばれる。でも、親しい友だちには、ぶりっ子と呼ばれても嫌じゃない、のはなんでだろう。

そこで私が、友だちのいる場所こそが、自分の居場所なんだ、とか言い出すかと思ったら大間違いなのである。「ああ、そうか」と思った。

どこかや、誰かじゃないんだ。

私は私の居場所になればいい。誰といたって、何してたって、自分でいられればいいんだ。嘘ついたって、傷ついたって、私が私であることが、何より大事なんだって。遠くに探しに行くのじゃなくて、今いる場所から始めればいいんだって。全てはそこからで、そこから、誰かを愛せるんだって。

過去の決断や恋や正義の答え合わせのために、あるいは自分が間違っていない証拠探しのために、誰かや何かを探して焦っていたから、私の魂は置き去りにされてしまったんだな。私という器にちゃんと、私を乗せていたいな。

自然に触れて、好きな人たちと会って、自分というあやふやな存在に、鼓動という輪郭を与えたら、ほら、自然と体が動いて、やっと一歩、動けたら、それはカレンダーには載ってない自分だけの365日のはじまり。


#エッセイ #自然 #自由

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