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空の道


 暗い森の中に停まった一台の車、リアウインドウに映っていたシルエットは、長い髪の人物だった。女性に見えた。だから真由美は近づいて行ったのだった。
 氷の粒のように冷たい雨が激しくアスファルトを打ち付けていた。雨と闇が世界を包み、境界の曖昧になった風景の中にぼんやりと冬枯れの木立が浮かんでいる。乗客のまばらな最終バスに乗り込み、随分と長い間走って、たどり着いた場所だった。
 夜遅くに走り始めたバスが、一体どこに向かっているのか、真由美には見当もつかなかった。今自分がどこのどういう街にいるのか知らなかった。今日一日、でたらめにバスに乗り、降りた場所でまた来たバスに乗り、そうやって知らない道を縫うように進んだ。移動手段にバスを選んだのは、監視カメラやデジタルの追跡から逃れるため、そうした方がいいのでは、と、漠然と考えたからで、そうやって大都市の毛細血管を巡っているうちに完全に方向を見失った。重い雨雲の立ち込める寒い朝が薄暗い午後になり、そして街の中に次々と灯りが灯る頃になっても、真由美は移動し続けた。後戻りしているのか、先へ進んでいるのか、それともぐるぐる循環しているだけなのか…自分がどこに向かおうとしているのか、それすらも見失っていた。何も考えず、その場しのぎで見つけたバスに飛び乗った。ずっしりと重いボストンバッグを胸にしっかりと抱えて。
 よそよそしく見知らぬ土地で、この重さだけが現実味を帯びていて、これを抱えている間は、知らない街にたった一人彷徨っていても、怖くはなかった。夜の街を映し出す車窓に、いつの間にか雨粒がぽつぽつと当たり始めるようになっても、流れ落ちる水の筋を夢の中の風景のように眺めていた。けれどその奇妙な安心感は、バスのアナウンスが終着点を告げると、幻のように消えてしまった。ふと気がつくと辺りは街はずれの操車場で、建物の影すらない。だだっ広い空間に物置小屋のようなターミナルと頼りない電柱がぽつんと一本あるだけだった。まばらだった乗客も今は自分一人だ。そして雨は激しさを増していた。
 急いで小銭をかき集めた。平静を装い、確固たる目的のある足取りで、一刻も早くここを立ち去らねばならない。さざ波のように広がる不安を押し殺し、真由美は前方の出口に向かった。背をみせる運転手の傍らにある投下口に料金を入れ、制帽が儀礼的に傾くのを確かめる間もなく、車外に降り立った。アスファルトを打ち付ける雨は冷たかったが、コートのフードを被り、ためらいを見せず闇の中に踏み出した。
 瞬く間にずぶ濡れになった。行く当てなどなく、方向もでたらめだったが、小さなターミナルの灯りが後方に消えるまで、ひたすら先へと進んだ。誰かに見咎められないよう、誰も追いかけてこないよう、そんな不安が遠のくまで、雨の中を半ば走りながら進んだ。やがて道は背の高いうっそうとした木々に覆われた森にさしかかり、巨大な暗い神殿か、巨人の住む洞穴のような空間が闇の中にずっとに続いている様子が見えてきた。
 漆黒の森の中を一人、おあつらえ向きに土砂降り、頬を濡らしながら真由美は泣くに泣けなかった。我に返った歩調が緩み、誰もいない空間で自分の存在だけを感じた。そしてそれは驚くほど大きなものだった。この暗い森に一人きり、圧倒的な孤独感がひしひしと迫って来て、それはこの巨大な森でさえ凌駕するほどの大きさだった。道の両側から木々の梢が、そんな存在を物珍し気に見下ろしている。じっとこちらを見ている森の沈黙と対峙している孤立無縁の自分を感じて、真由美は涙を忘れた。
 雨には辟易していたが、不思議と、怖くはなかった。そのうち濡れることにも慣れてきた。
歩きながら真由美は、母のことを思い出していた。記憶の中の母は、いつも細いかぎ針を手に、毛糸を編んでいる。細い金色の毛糸は、母の指を通って、軽やかな羽衣のようなものになって落ちていった。しばらくすると母はその羽衣をほどき始め、同じ糸で別のものを編んでいる。そんなことを幾度か繰り返している。
 「ママ、またほどいているの」真由美は笑って声をかけた。
 「気が変わったのよ」母も笑って答えた。
 針を動かしながら、母は何かを考えている。そして、ぽつりと言う。
 「人生もこんな風に編みなおすことが出来るのかしらね」
 人生を編みなおす、そう呟いた母の編んだ金色の毛糸は、マフラーより軽い、光を透かす模様編みのストールに変わった。真由美は突然、今自分の頸に巻かれたその毛糸が、あの時母が編んでいたものだという事を思い出した。いつも無意識にまとっていたものだった。
 初めて喉に熱いものがこみ上げてきた。時々気道をふさぐ悲しみの塊。思い出に浸り、後ろから一台の車が近づいていることに気がつかなかった。そしてその車が静かに自分の横を通り過ぎた時、真由美は驚き、そしてはっと身構えた。
 車は少し先でゆっくり停まった。長い髪のシルエットは前を向いたまま動かず、車は雨の中でアイドリングし、明らかに真由美を待っている。雨脚は衰えず、濡れているのも嫌になってきて、少しづつその車に近づいて行った。助手席の窓の所までくると、ウィンドウガラスが静かにおりて、ハンドルを握るその人物が彼女を見つめた。
 「どうしたの どこへ行くの?」そう問いかける声に、戸惑いを覚えた。暗くて顔がよく見えないが、声の感じは、男の人みたいだ。でも、女の人のようにも思える…問い詰めるというより、優しい柔らかい声。
 後部座席にも人がいた。そちらは男性だった。痩せて、後部座席にぐったりもたれかかり、目を閉じてぴくりとも動かない。
 答えあぐねていると、長髪の人物がまた言った。「ずぶ濡れじゃない。とにかく乗って。行きたいところまで送っていくから」
 ドアロックががたっと外れる音がした。
 その音に体が無意識に反応したように、思わず助手席に乗り込んでいた。
 車の中は暖かかった。真由美は緊張が一気にほどけていくのを感じた。運転席の謎の人物は鍵を再びロックしようとはしなかった。不安を見透かされているようだったが、それはありがたい気がした。彼(彼女)はすぐに発車しようとはせず、白い長い指をするっとグローブボックスに伸ばすと、細長いタバコをするっと挟んだ。
 その様子をぼんやり眺め、その指の動きが、また母を連想させた。ママの指に似ている…そう思った時、また悲しみが襲ってきた。
 「タバコ吸うの」今泣いてはいけない…そう思ったとたん、自分でも驚くほど強い口調で彼(彼女)に詰問していた。
 相手もびっくりしたらしかった。しかしすぐ面白そうに、「タバコ嫌い?」と聞き返してきた。
 黒い髪の向こうで白い頬が笑っていた。しなやかな体つきはどう見ても若い男性のものだったが、髪も指も声も優し気だった。
 「副流煙って知らないの」引っ込みがつかなくなり、雨の中を救ってくれた相手に、憎まれ口を叩いていた。自分でも驚き、半ば不安もあったが、、もっと驚いたのは返ってきた反応だった。
  彼はクスクス笑い出し、タバコをしまった。
 「じゃあ、今は止めておくけど、時々そっちも我慢してよ。眠気覚ましなんだから。副流煙で死んじゃう前に、事故でオダブツなんて嫌でしょう?」
 ヘンな人。真由美は思った。相手の穏やかな物腰に、真由美の警戒心は徐々にほぐれた。その穏やかさは、嘘ではないような気がした。「どっちも同じよ。早いか遅いかだけ」
 「ワタシは嫌だよ。さてと、どこに行くの?」
 ワタシってことは、やっぱり女の人なのかな…そんな疑問で答えあぐね、「そっちはどこに行くの」とその迷いを誤魔化すように聞き返した。
 「ワタシ達は、この少し先の別荘に行くところ。今夜の宿だよ。もう大分遅いし、とりあえずあなたも来る? ずぶ濡れだしね。たぶん鍵のかかる部屋もあるよ」
 彼(彼女)は優しく言った。真由美にとってその提案はありがたかった。助手席に落ち着いたとたん、疲れを感じてきたのだ。眠りたい、濡れた体がそう言っていた。計算したり警戒する力が薄れてしまい、彼女は考えもせず頷いた。
 車はゆっくりスタートした。その間、後ろの人物は眠っているのか微動だにしなかった。
 彼の事も気になったが、あれこれ聞くのはやめる事にした。自分の事もこれ以上詮索されては困る。それにしてもなぜこんなに無関心でいられるんだろう。本当に生きているのかしら。この人達、夫婦なんだろうか。
 全然動かない夫? もしかして死体を運んでいる途中だったりして。でも、死体を運んでいる人が、こんな風に車を停めてくれるかしら…
 取り留めもない言葉が浮かんでは消えたが、そのうちどうでもよくなってきた。ハンドルを握る人物は、もう話しかけてこなくなった。しかしそれは気まずい沈黙ではなくて、優しい配慮のような奥ゆかしさを感じた。
 彼(彼女)は一心に前を見つめ、静かに車を駆っている。真由美は心地よい静けさの中に身を委ね、雨の中を走る車のエンジン音を聴きながら、いつの間にかウトウトしていた。
 しばらく経って、誰かが肩を揺り起こすのを感じた。「起きて、着いたよ」と声がした。
 一瞬、自分がどこにいるのか分からなかったが、気がつくと、木立の中に屋根が見えた。黒髪の人物が隣にいて、グローブボックスを漁っていた。
 「鍵を開けて、灯りを点けてくれる? ワタシは彼を部屋まで連れて行くから。」彼(彼女)は真由美に鍵を渡した。どうやら眠っている男性を介助したいらしい。
 ボストンバックを握りしめ、真由美は疾風のように車を飛び出すと、暗闇に佇む家のドアに向かった。扉をあけ放つと、湿った静けさが流れ出て行った。玄関にあるスイッチを全て押すと、家のあちこちに灯りが点いた。広い家のようだったが、その全貌を確かめる前に、2階に上がる吹き抜けの階段が見え、それを駆け上がった。
幾つかのドアがあった。その一番奥まったドアを開けると、施錠出来る部屋だった。灯りも点けずに、真由美は濡れて体に纏わりついた衣服をはぎとった。ベッドのシーツを引きはがし、髪や顔をごしごしこすった。そしてそのシーツをそのまま頭から被り、体に巻きつけると、そのままベッドに潜り込んだ。
 さなぎのように毛布に包まって、真由美は、ドアの外の一切を遮断するように縮こまった。
今日一日味わってきた、人、車、音、光の洪水、そんなものが全て吹き飛んで、今見知らぬ小さな部屋の暗闇に一人。ドアノブの頼りない小さな鍵に外界からの防御を願った。闇は暗く静まり返り、雨の音以外は聞こえてこない。
 全ての存在や煩わしい気苦労を締め出し、瞼を固く閉じて、今度こそ深い眠りに落ち込んで行った。


 夢もない眠りから唐突に目覚めると、雨の音がまだ続いていた。カーテン越しにぼんやりと薄明るい灰色の光が幻のように浮かんでいる。
 見慣れない天井と壁が、よそよそしく四方を取り囲んでいた。
 昨日の出来事を思い出し、真由美は慌てて起きあがった。今自分がいるのは、見知らぬ人のいる山の中の一軒家だ。闇と雨がそうさせたのだが、明るくなるとそれはいかにも無謀な行動に思えた。しかし、とにかく一晩、雨をしのぐことが出来たのだ。
 早くこの家を出たほうがいい、そう思うのだか、外を思うとその気持ちも萎えた。濡れた寒さを思い起こすと気が引けた。気怠い迷いで毛布に包まっていたが、徐々に気持ちが騒めいてきた。
 しきりに真由美を刺激する小さな不安に負けて、仕方なくベッドから這いだした。生乾きの服を着て、ボストンバッグを抱え、そっと部屋を出ると、家の中は静まり返り、生活の音がしない。ひっそりとした雨だれだけが辺りを包んでいた。
 コーヒーのふくいくとした香りが漂ってきた。忍び歩きを止め、思わず筋肉の緊張がほぐれていくような、豊かな薫りだった。見下ろすと誰もいないキッチンとダイニング、リビングが見渡せた。リビングの下に降りていくような造りになった家のようだった。広々とした空間にガスストーブがかすかな音をたてて暖気を送り出し、起きてきた真由美を暖かく迎え入れてくれているようだった。
 リビングの床に降り立つと、大きなガラスのサッシが半分ほど開いて、外のテラスに昨夜の長髪の人物が佇んでいた。
 今日はタバコを手にし、指から煙をくゆらせながら、ぼんやりと木立を眺めていた。雨に濡れた紫色の木々は、すっかり葉が落ちた細い枝を冷たい灰色の雨雲に向かって伸ばしている。所どころに立つ常緑の針葉樹の葉も、濡れて黒々と影のように広がっていた。冷たい朝の空気がみなぎっていて、彼(彼女)はその中にじっと佇み、何かを伺っているような気配を見せていた。
 明るいところで見ると、やはり男性のような気がした。肩に触れる真っすぐな黒い髪は豊かで美しかった。ボタンをとめていない白いシャツの袖口から、母に似た指が延びて、それが口元に向かい持っていたタバコをくわえる。しばらくして紫煙を吐いたあと、またぼんやりと戸外を眺めている。
 このまま立ち去ろうと思っていたのに、その様子に見入ってしまった。すると、その視線に気がついたのか、彼がこちらを向いた。真由美の姿を目にすると、黒い眉と瞳がにこっと笑い、若者らしく手を挙げて合図した。昨日と同じ、優しい動作だった。引力に引かれるように、思わず歩み寄り、開いているサッシにもたれて彼を見た。
 「おはよう」彼は言った。「外が好きなんだ。雨だけどね」
 そう言うとまたぼんやりと視線を泳がせて、何かを伺っている。真由美もつられて、辺りを見回さずにはいられなかった。
 「鳥が鳴いているよ。雨なのに。何ていう鳥かなあ。名前が分かったら楽しいのにね。鳥の名前に詳しくなりたいと思うよ」
 朝の空気を優しく震わせて、長い鳴き声が一つ、雲の下を渡って行った。それは何度も繰り返し、仲間を呼んでいた。確かに美しいが、しかし注意していなければ、何の意味も持たない、ただの音だ。変わった人、真由美は独り言ちた。
 「鳥は、シンプルでいいね。空を飛んで、咲き始めた梅の花の蜜を味わう。こういう所にずっと住んでいたら、鳴き声だけで名前が分かるようになるのかな。」彼は呟くように言うと、真由美の視線を察し、照れ笑いを浮かべてタバコをもみ消した。
 「そうだ、あなたの名前をまだ聞いていなかったね。ワタシは優。優しいの優だよ。どうぞよろしく」
 彼は相変わらず自分のことをワタシと言った。そしてその名前があまりにピッタリと彼を体現していたので、真由美は思わず吹き出しそうになったが、そんな笑いをかみ殺し、ぶっきらぼうに「真由美」と答えた。そして、彼が「どんな字を書くの?」と聞き返してきても、あまり面食らわなかった。世界は、彼のペースで動いているようだった。
 「いい名前だね。真実、ゆえに美しい、という意味かな」優はゆったりと動いて、室内に戻り、サッシを閉めた。「さてと、ミルクティでも飲む?」
 ダイニングのカウンターに座り、優が一つ一つの動作をゆっくり楽しむように紅茶を淹れる様子を、まるで催眠術にでもかかったように、ぼんやり眺めた。目覚めた時、一刻も早く立ち去ろう、と焦っていた気持ちは、すでにどこかに消えていた。そして、彼の動作が、なぜこんなに母を思い起こすのか、そんなことを考えていた。母に似た白い指が、真由美の前に暖かな湯気を立てた琥珀色のミルクティを置いたとき、思い出した。遠い以前、いつかの朝、母もこうやって、いつもいつも真由美の前に湯気のたつ食事を置いてくれていたのだった。もうそのことを、随分前に忘れていた…その短いようで長い間、自分はこの暖かさなしに、どうやって生きて来たんだろう…
 今度こそ涙が出そうになったが、喉にこみ上げてくる熱い塊を、薫り高くほのかに甘い紅茶と一緒に、注意深く飲み下した。
 そんな様子を知ってか知らずか、優はさりげなく言った。「今日は買い出しに行かなくちゃならない。彼を一日ゆっくり休ませてあげたいからね。食料を調達しないと」
 昨夜車の後部座席で、目を閉じてぐったりしていた人物を、真由美は思い出した。
 「あの人、病気なの」彼女は優に聞いた。
 「まあね」伏し目がちになって優は答えた。
 家の中が静かすぎて、人がもう一人いるという気配をとても感じることが出来ない。彼と優は、どういう関係なのだろうか…そんな疑惑がふと首をもたげ、その蛇のような疑惑に我ながらおののいた。そして、彼がもはや死体で、優がそれを運んでいる途中なのでは、という冗談めいた考えがよぎったのを思い出した。「もしかしてもう死んでるんじゃないの」真由美にはその恐れを憎まれ口で解消するしかなかった。
 「さっき様子を見に行ったら、まだ生きていたよ」優が肩をすくめ、屈託なく笑って答えたので、真由美は拍子抜けし、反面安堵した。
 「今日は彼をそっとしておきたいんだ。あなたはどこか行きたいところはある?」
 真由美は、生乾きの服が冷たくて気持ちが悪いのを思い出した。即座に、「服を買いたいの」と答えていた。
 優は頷いた。「確かこの近くに、大きなショッピングモールがあるよ」

 学校の帰りでも、休みの日でも、真由美はしばしばデパートやショッピングモールをうろついていた。時間があると、自然に足が向かう先だった。何が欲しいという訳ではないが、小さな理由をみつけては、何時間でも歩き回った。
 友人と一緒の時もあったが、最近は専ら一人だった。明るい照明、色とりどりの品々、人の顔の群れ、BGMと雑踏、そうしたものが視界をぼんやり流れて行き、疲れると流行のお菓子を食べた。一日そうしていると、ふと、自分の本当に欲しいものはここにはない、と感じることがあった。それでもまた翌日には、数々の商品が並ぶショッピング街に、習慣のように立ち寄っていた。
 森の真ん中の、雨の降る巨大な施設に、人影はまばらだった。街を模した通りに立ち並ぶショウウィンドウと、その中に飾られた品々が、嘘寒く見えた。けれど今は目的があった。人の少ない店内でさり気なく振舞い、怪しまれないよう、それも重要なことだった。余計な寄り道はせず、しっかりした足取りで、真由美は店を練り歩き、上から下まで、下着、靴下、靴も買い揃えた。大荷物で目立たないよう、買った品物をすぐに身に着け、今まで来ていた服はトイレのごみ箱に捨てた。それまでの自分を一枚一枚脱いで捨てていくように。過去の遺物は、母が編んだ金色のストール。「きれいな毛糸だね」と真由美が言うと、「イタリア製なのよ。もう売ってないの」と、母は答えた。それだけは捨てることは出来ない。鏡の中で、湿り気を帯びたその毛糸を再び首に巻いた。そして、優が、「その鞄、重そうだけど、車に置いて行ったら?」と声をかけてくれた、古びたボストンバッグ。
 さよならも言わず、お礼も言わず車から降りて、その車が立ち去るのを見届けた後、もう二度と再び会うことはないだろう、そう思っていたし、そうしなければならないとも思っていた。そしてそれは少し辛い選択だった。ほんのひと時を過ごしただけなのに、優の優し気なほほ笑みと穏やかな声を懐かしく思っている自分に気がつき、さらに大きな恐怖を覚えた。そんなこと、有り得ない。真由美は自分の考えを強く否定した。自分は先に進まなければ。でもどこに行こう?
 モールにバス停があったが、本数は驚くほど少なかった。あと二時間しないと、次のバスはやってこない。
 逸る気持ちがまた蘇ってきたが、思考は停止してしまった。雨の中の孤独がより侘しかった。でもまだ明るいうちに、またバスに乗らなければ…戸惑う真由美の視界の先に、大きな観覧車が見えた。
 巨大な敷地の巨大な丸い観覧車は、それよりもさらに広大な灰色の空に向かってにぽつねんと建っていた。大きな無機質な建造物が、深い森の奥に突如現れ、そこに足止めされ縛りつけられていることに何の疑問も抱かずに聳えていて、その姿は少しグロテスクだった。他に何も思いつかず、足が自然と観覧車に近づいていった。一周どのくらいかかるか分からないが、何もしていないより少しは時間が潰せるかもしれなかった。
 ガラスのゴンドラが、真由美をゆっくりと空中に運んで行った。灰色の空から冷たい雨の粒が絶え間なく打ちつけていた。少し上がると、広い森の全貌が徐々に見え始め、モールの東側には湖が木立の間から暗い水面をのぞかせていた。その先は、靄に包まれよく見えない。街はどっちだろう。三百六十度透明なガラスは、雨雲に阻まれて先の見通せないぼんやりとした風景しか見せてくれなかった。
 そのうちゴンドラは頂上に達して、空しか見えなくなった。空は雲以外何もなかった。天井に落ちる雨粒を、ただ見つめているより術はない。けれど、それならそれでいい、このままこうして、時が少し止まればいいのに…という思いがふとよぎった。
 見通しの立たない、宛のない行く先のことなど、何も考えず、ここに座って、冷たい灰色の雲と、ガラスに落ちてくる雨をずっと眺めていたい。そんな気がした。このまま、何もない空の中で。
 しかし、重力と動力が、ゴンドラを少しづつ、地上に戻しているのが分かった。雨の森が足元に迫ってきた。人気のまばらなモールの屋根が見え、アスファルトの敷地が近づいてきた。そして、そこには小さく、見覚えのある長い黒髪の人物が立っているのが見えた。
 真由美は心臓を何か大きな力でぎゅっと掴まれたような気がしてたじろいだ。そして早い鼓動のまま優の姿から目を離すことが出来なくなった。優が、じっと見下ろしている真由美の姿を認め、合図のようにさっと片手を挙げた時、真由美の喉にまた熱い塊がこみ上げていた。
 「観覧車なんていつぶりだろう」降りてきた真由美に、優は楽しそうに言った。「ていうか、乗ったことあるかなあ。あまりに普通で、当たり前にどこにでもあるから、案外乗った記憶が薄れているんだよね」そしていたずらっぽく真由美を見ると、「もう一周する気ある?」と聞いた。
 「いいけど、天気悪いし、空以外何も見えないよ」優の顔を見て、今にも溢れそうな感情を必死で抑えながら、また不愛想に答えた。なぜ真由美がここにいることが分かったのか、探し出してくれたのか、それともただの偶然か…そんなことを確かめる余裕もなかったし、それはどうでもいいことのようにさり気なく振舞った。
 「空以外見えないなんて、素晴らしいね。鳥の気分を味わえる」優は心から楽しんでいる様子で笑顔を輝かせた。

 二人はゴンドラに向かい合って座った。優は窓の桟に肘をつき、ゆったりと座って楽し気にほほ笑みながら遠くを眺めた。真由美は仏頂面で、逆の方向に目をやるしか術はなかった。
 沈黙が続き、そのうち自然に目が合った。優はにっこり笑い、「すてきなストールだね」と言った。真由美の首にかかっている、母の名残。「手編みなのかな」
 真由美は言葉を発することが出来ず、ガラスに額を押し付けていた。
 そんな様子を見て、優は静かに言った。
 「あなたを送って行きたいけど、もう帰らないと。遼一さんの様子が気になるんだ」
 「いいよ、ここで」真由美はやっと言った。「バスに乗るからいい」
 「バスに乗ってどこに行くの?」優は尋ねた。
 ゴンドラの中が再び沈黙で埋まった。
 「ホントだ」出抜けに沈黙を破ったのはまた優だった。「空しか見えないね」
 彼は椅子にもたれて空を仰いでいた。時が止まってくれるようにと願っていた観覧車の頂上に達していた。
 「人間って不便だね。こんな大きな機械の力を借りないと、鳥のようになれない」優は独り言のように呟いていた。「子どもの頃は、モノレールとか、大きな船とか、飛行機とか、そんなものが大好きでね。こういうものを造れる人間って凄い、と思っていた。でも、今は何か虚しいんだ」灰色の空に向かって、彼は訴えているようだった。
 「ある時、やっぱり子どもの頃のことだけど、ワタシは車に乗っていた。後ろの席で、外の景色を眺めていたよ。どこか知らない、田舎の山道だった。
 ずっと外を眺めていたら、緑の濃い木々の、深い谷間から、白鷺が一羽、、ふわっと舞い上がってきたんだよ。
 一瞬の出来事だったから、誰にも、何も話すことが出来なかったけど、白鷺は風に乗って、堂々と漂っていた。白い羽根を、ゆっくり動かして、それだけで遠く飛んで行けるんだ。
 あの光景は、今でも忘れられない。白鷺は、ひとりぽっち、だけど素晴らしく自由だった。人間なんて、何だか敵わないんじゃないか、そう思ったんだ。」
 真由美は聞くともなしに優の一人語りを聞いていたが、知らぬ間に自由な白い鳥の姿を、緑深い山の中に見ていた。それはどこか物悲しくて、しかし美しい光景に思えた。
 「遼一さんも、一体どこへ向かっているのか、分からないんだなあ」空を仰いだまま優は言った。
 「そうなの?」真由美は虚を突かれたような気持ちになった。
 「うん」
 「あの人、知り合いじゃないの?」
 「一昨日、初めて会ったんだよ。あなたと一緒。ワタシは彼に雇われているの。彼を彼の望むところまで連れて行くのが役目」
 「ふうん」
  邪推した二人の関係は、やはり邪推で、変わってはいるが、そういう事も世の中にはあるのかも知れない、そう理解した。少しほっとして、それと同時にある考えが急に閃いた。
 「仕事を掛け持ちする気ない?」真由美はとっさにその考えを口にしていた。
 「ええ?」優は面食らった表情で聞き返してきた。
 「あの人に雇われてるんでしょう。私もお金あげるから、連れて行ってよ。あの人の行くところまででいいから。」
 「でも、あなたは大人っぽいけど、もしかしたらまだ保護者が必要な年齢なんじゃないかな。」
 「保護者なんていないわよ、ホントよ。誰もあたしなんか探してない。」真由美はむきになって言い返した。「本当にいないのよ」
 優は黙って優しく真由美を見返していた。白い長い指が困惑の混じったほほ笑みを浮かべた顎の下で漂っていた。

 保護者なんていない、そう言ったのは真由美にとっては真実だった。
 古い大きな家、広い庭があり、木蓮の梢が、ひときわ高く空に延びている。青い空の中に咲く、白い木蓮の花、あの下に、家がある。あんなにきれいなのに、私は帰りたくない…
 山の中の家に戻り、昨夜過ごした部屋にまた鍵をかけ、深い午睡の中で、真由美は家の門の脇にあった木蓮の夢を見ていた。
 目が覚めるともう夜の帷が降りていて、辺りは闇に包まれていた。何の音もない夜の闇。山の中の見知らぬ家の、鍵のかかった部屋。そこはつかの間安全だった。あの白い木蓮の下にある自分の家よりは。ここはあの残酷で寂しく美しい花の咲く家ではない。
 真由美は奇妙なやすらぎを覚えた。優と、あの遼一という男性が、全く怖くないという訳ではない、しかし、病人らしい男と、自分をワタシという男。もうあまり危険を感じなかった。そしていざとなったら、肌身離さず抱えているボストンバッグの中に、スタンガンを忍ばせている…
 真由美はバッグを開けた。鈍く黒光りする武器があり、電力はマックスにしてある。こんな力で感電させたら、あの病人などひとたまりもないかもしれない。その時は、その時だ…そして、スタンガンの下に並ぶ、ずっしりと重い幾つもの札束。
 仮に、優が真由美の依頼を断ろうとしても、その意思をくじいてしまうかもしれない額。彼を承服させることが出来るかも知れないものがここにある。
 薄暗い部屋の中で、真由美はバッグの中身を確かめ、そしてそれをベッド下の床に厳重にしまい込んだ。
 家の中は相変わらずひっそり静まり返っている。音のない世界は、真由美にとっては異質なものだった。いつも雑多な音に取り囲まれ、それを聞かずに過ごしているが、山の家の静けさは、聞こえない音を聴いているような気がする。階下のリビングも、灯りはついていたが人の気配がない。ふと思い立って、大きなガラスのサッシを見やると、外のデッキにタバコの煙をくゆらせた優が立っていた。
 優は真由美の姿を認めると、手を挙げて合図した。
 彼は、闇の中に立ち、謎めいたほほ笑みを浮かべていた。それは悪戯好きな子どものような表情だった。そして、「分かる?」と真由美に聞いてきた。
 「何が?」
 「風が変わったよ。空気が変わった」
 真由美は、狐につままれたような気持ちで、闇に包まれた木立に目を凝らした。
雨は上がっていた。
 「不思議な夜だ」優は呟いた。「まるで世界中に魔法がかかったみたいだ」
 「何それ」真由美は鼻で笑った。「魔法って何。どんな魔法よ」
 「春のマジックさ」優は答えた。
 確かに、寒く張り詰めていた外気の緊張が、少し緩んでいるような気がする。しかし、どこと言って変わらない、ありふれた夜のように思えた。
 「ちょっと暖かいけど、それだけよ。マジックなんて大袈裟」
 「そう、分からないかなあ、この空気。カードをひっくり返したみたいに、いきなり変わった。誰かが、ワン、ツー、スリー、で、指を鳴らしたみたいに」優はそう言うとマジシャンのように指をパチンと鳴らした。「妖しい気配があたりに漂っているよ。妖しくて、どこか猥雑なんだ。」
 「猥雑って?」
 「初めはびっくりしたよ。あれっと思ったんだ。よく知ってる人が、いきなりイメージチェンジをして現れた感じだ。ざわめきが起きてる。陰でこそこそ噂するみたいに。こういうのを、息吹っていうのかな。木の芽や、虫たち。それとも他の何かかな。よく分からない」
 彼はその妖気を満喫するように、深くタバコを吸い込んだ。オレンジ色の灼熱の光が、闇に瞬き、そして、灰色の煙がゆっくり吐き出された。煙は確かに妖しく夜に漂った。古い童話の、魔人を呼び出す煙のようだった。
 「ワタシのこと、ヘンな奴だと思っているでしょう」優は笑った。
 「まあね」真由美もつられて笑った。
 「ほら、もう魔法の効果が現れた」優は顔を輝かせた。「そうやって笑った方がいいよ」
  真由美はすぐに後悔した。説教臭い物言いは我慢ならなかった。そして減らず口で答えた。
 「笑いたくないのに、ヘラヘラ笑える訳ないでしょう。バカみたい」
 「そう、あなたと遼一さんに比べたらワタシなんかまともな方だよ。二人して、笑いを忘れてしまっているんだもの」やれやれと言った感じで、優はため息をついた。
 「また大袈裟。ヘンな奴」真由美の減らず口は止まらなかった。
 「そう、彼はヘンな奴だよ。でも、僕らを助けてくれている」出抜けに違う声が響いた。
 二人が驚いて声のする方を見ると、痩せて背の高い、遼一と呼ばれる男の姿が、蛍光灯の下でカゲロウのように揺れていた。白いYシャツが眩しく反射して、彼自身も室内の灯りが眩しそうに目をしばたせている。
 「ほら、魔法がもう一つ。」優はにっこり笑った。

 「久しぶりに、ゆっくり休めたよ」遼一はそう言うと、ソファにそっと腰をおろした。ソファは空気か何かを乗せたように、何の反発もしなかった。「そしたら、少し汗をかいてね」
 「熱い風呂に入るといいよ。さっぱりして疲れも取れるんじゃないかな。用意してくる」
優はそう言ってきびきびと部屋を出た。
 真由美はデッキの暗がりから、遼一という人物を観察した。この人物が動き、声を発するのを初めて見たが、今はゼンマイが切れたようにまた、動かなくなった。白髪の少し混じった髪は針金のようにぼさぼさで、青白い顔は無精ひげが目立っていた。若いのか、年を取っているのか、判別できなかった。存在感の薄い、本当にカゲロウのような遼一は、膝の上に肘をのせ、ごつごつ骨ばった両手を組み、そのままあらぬ方を見るともなしに見ていた。
 優が人を引き付けるような不思議な磁力を持っているとすると、遼一はその真逆だった。N極同士反発しあうように、人を寄せ付けない雰囲気を発していた。真由美はその雰囲気に逆らわないことにした。遼一も、真由美の視線を知ってか知らずか、もう会話を続けようという素振りも見せなかった。暗い、洞穴のような自分の世界に、いつでも帰っていけるのだろう。そういう場所には、興味本位で近づかない方が無難だ…学校の級友の中に、そういった世界に土足で踏み込み、あれこれ詮索するのがどういう訳か好きな人物が、何人かいる。
 なぜそんなことをするのか、真由美には分からない。けれど彼らは、自分の見てきたものを、自分の主観であれこれ面白おかしく脚色し、自分達を拒絶する世界に住む人々をからかって貶めるのだ。洞穴に飾られていた宝物が、いかにガラクタであったことか! 真由美も面白がって笑ったことがあった。そしてその洞穴に踏み込んだ後、日の当たる快適な部屋に住むように、説得したがる人物もあった。それは主に教師だった。
 真由美はそのどちらも嫌いだった。そして優は、そのどちらでもないような気がした。
 その優が戻ってきた。「お湯を張っているよ。入ってきたら? そのあと食事にしよう。」溌溂と明るい口調に促され、遼一はのろのろと面倒そうに立ち上がった。
 キッチンに立った優は、一つ一つの動作を確かめるように、ゆっくりと、食事の用意を始めた。真由美は、部屋に戻り、後ろ手に窓を閉めながらその様子を眺め、この人、慌てたり焦ったりすることはないのかしら、と思ったりした。自分のガサガサした今までの生活が、ホコリだらけで煤けて見えた。そして、優のゆったりとした手の動きを見ていると、波が引くように気持ちが凪いでくるのが分かった。
 テーブルに三人分の席が用意され、湯気の立つ食事が並べられていった。髭を剃った遼一が戻って来て、夕食が始まった。
 長方形のテーブルの短い辺、上座に優が陣取り、左に遼一、右に真由美が着席した。「いただきます」自分で作った優が言った。あとの二人は無言だった。ご飯に、味噌汁、数品の惣菜、しかし真由美はどことなく緊張して、あまり味わうことが出来なかった。ふと見ると、優が調理をしていたのと同じ調子で、一口一口ゆっくりと、味わって食べている様子があり、この人、いつもこんななんだわ、と、思わず可笑しくなった。
 「何?」優がにやにや笑いをかみ殺す真由美に気がついた。
 「別に」真由美は慌てて言った。
 遼一も、少しリラックスした表情になった。そして、ぽつりと、「酒はあるかな」と言った。
 優と真由美はびっくりして箸を止めた。二人とも、大人の男性の日常に晩酌があるということを、すっかり忘れていたのだった。
 「今日は用意がないな」優は済まなそうに返事をした。
 「いいんだ。確か荷物の中に、ポケットウィスキーがある」遼一はそう言って立ち上がろうとした。
 「せっかく作ってくれたんだから、お酒なんか飲まないで、食べたら」真由美はむっとして思わず強い口調で言った。
 今度は遼一が面食らう番だった。優と真由美を見て、きまり悪そうに座りなおした。「そうだな、食べよう」
 「別に構わないよ。取ってこようか?」
 「いや、いいんだ」遼一は首を振った。「君は酒に縁がないみたいだね」
 「タバコばかばか吸っているんだし。これでお酒飲んだら、サイアク」真由美はまた減らず口をきいた。思わず言ってしまったことを後悔している時の癖だった。「こっちはタバコ、あっちはお酒、サイアク」
 「そういうけど」優が面白そうに減らず口に応戦してきた。「正式な洋食のコースでは、アペリティフっていうのがあるんだよ。食事の前に、軽いアルコールを摂ると、胃腸の動きが活発になって、消化を助けるんだ」
 「そういう作法に詳しいのかい」今度は遼一が助け船を出すように言った。
 「ううん、テレビで観た」優は笑いながら言った。「そして紳士は、晩餐が終わると、タバコ室に行って、葉巻を飲む」
 「サイアク。それにめんどくさい」真由美はやけになり、勢いでご飯を一膳平らげていた。そして優の醸し出す雰囲気を壊さないよう、自分なりの賛辞を贈った。「おいしいからお代わりもらう」
 「うん、たくさん食べて」優は嬉しそうに微笑んだ。
 「料理が上手なんだね。誰に習ったんだい」遼一も、さして興味もなさそうだったが、紳士然と食卓での社交辞令を発揮しているようだった。
 「母だよ。看護師だったんだけど、色んな事何でも出来る人だったな。うちは母子家庭でね。夜勤もあったし、忙しい職業だったから、手伝っているうちに覚えた。
 ワタシも本職は看護師だよ。何でも母の真似をしているうちに身についた。この髪もね」優は自分の髪を一房つまんだ。「母の真っ黒な長い髪が、とてもキレイで、大好きだった。ごく小さい頃から、ワタシは髪を切るのが嫌で、ずっと伸ばしていた。母は最初困っていたけど、いつも自由にさせてくれた。」
 「小さい頃から、ずっと伸ばしてたの?いじめられたりしなかった?」真由美はたくあんをぼりぼり噛みながら、出来るだけさりげなく聞いた。優が自分のことを話し始め、好奇心がむくむく湧いてきたのだ。
 「まあね」優はにやりと笑った。「学校は、早い段階から、行かなくなってたな。看護師になるなら、勉強しないと、と思って、大検は取ったけど。それから、医療大学に行った。そこでも少し浮いてて、友達はあまりいなかったけど、一人は嫌じゃなかったし、母がいたから平気だった。
 母は去年亡くなったんだ。ワタシは、看護して、最後を看取ることが出来た。そして今は、ちょっと違う仕事をしてみようと思ってね。本職は休業中」
 不思議に優しい青年の身の上話は少しせつなかった。真由美はそのせつなさを誤魔化そうと、また減らず口が出てしまった。
 「看護師さんなら、人に禁煙しろっていう立場なのに」
 「そう言わないでよ。孤独な戯れの成れの果てなんだ。誰でも弁慶の泣き所ってあるでしょ。」
 「孤独な戯れの成れの果て、か」遼一は一膳のご飯を持て余していた。
 「無理に食べないで残して」その様子を察した優は真由美とは逆のことを言った。「お酒も葉巻もないけど、デザートがあるよ。イチゴが出ていたんだ」
 「いや、いい」遼一はそう言って立ち上がった。「ご馳走様。うまかったよ」
 キッチンを出ていく遼一の背中を見送り、真由美は小声で優に囁いた。
 「きっと部屋でお酒を飲むのよ」
 「そうかもしれないね」優は気がかりな視線を、遼一の消えたドアの方向に向けていた。
「急にどうしたんだろう。疲れてしまったのかな」
 「平気よ。飲みたくなっちゃっただけよ」真由美はうそぶいた。
 真由美には、遼一が不意に席を立った理由が、何となく分かる気がした。彼は、優が羨ましかったのだ。優と、母親の思い出。何でも真似ていたという記憶。辛い別れも全うし、あまり学校へ行かなかったという過去でさえ、勲章のように輝いていた違いない。

 
 真由美は母が好きだったが、母を真似て編み物を習おうとはしなかった。母の編み物は母の悲しみだった。
 母は現実逃避のように、一人数字と模様の世界に没頭していた。その世界に、真由美の入り込む余地はなかった。それは昨夜、不意に自室に戻ってしまった遼一の住む穴倉に似ているのかもしれなかった。
 あの人は何が悲しいんだろう、そんなことを思ううちに眠りが訪れ、翌朝は快晴だった。
 木立の合間から、真っ青な空が覗き、眩しく晴れ渡った光の中に様々な鳥の声がこだましている。優はやはり外にいて、タバコを片手にデッキにもたれ、日の光りを浴びて満足そうに微笑んでいた。
 「不思議な夜が開け、全てを明るみに晒す、朝が来た」
 真由美の顔を見た優は、芝居がかった口調で、目の前の光溢れる森を指し示してみせた。
 「今日、真実は白日のもとに明かされる。」
 「真実って何。どういう意味」真由美は急に不安になった。自分の脛についた深い醜い傷が、白日の下に晒される時が来るような気がして、それを考えただけで身震し、竦む思いだった。明るい朝を、優のようには喜べなかった。
 「生きている不思議、美しさ、ってことかな」優は目を細めて眩しい空を見つめた。
 「何それ」真由美はほっとし、鼻で笑った。しかし、優は何を言い出すか分からない、謎めいたところがある。再び鎧を装着しなければならなかった。
 「こんな美しい朝は、褒め称え、満喫しなければ、生きてる甲斐がないよ」優はタバコをもみ消した。「何か楽しいことをしたいな」
 「楽しい事って?」
 「散歩したい。ただぶらぶら歩くんだ。景色もいいしね」
 「それが楽しいの?」
 「ただぶらぶら歩くこと、こんな贅沢な時間はないよ。大人になれば分かります。」優はくすくす笑った。「もっともワタシは、子どもの頃から、ただぶらぶら歩くのが、好きだったな。時間はいくらでもあった。」
 「そうでしょうね。」真由美は本気とも冗談ともつかない優の態度にだんだん腹が立ってきた。彼が鎌をかけているような気もした。その場を離れ、自室に戻って鍵をかけた。
 ベッドの下からバッグを引っ張り出し、胸に抱えた。天気も回復し、暖かい。出て行った方がいいかもしれない。今日なら自力で遠くまでいけそうな気がした。
 相変わらずひっそり静まり返った廊下に出ると、真由美は忍び足で階下に降りた。優はまだデッキにいる。彼に見咎められないよう、音を立てず、素早くリビングを抜け、玄関にたどり着いた。もどかしく靴を履くと、ドアをそっと開け、外に出た。
 ほんの小さな不安が、水に滴ったインクのように広がり、体中をどす黒く染めていった。それは刹那的に真由美を外へと駆り立て、晴れた空の下は、眩しい自由と宛てのない混迷が交錯した、広い森とそれを貫く一本の道が続いていた。道の果てはまだ道で、まだ森だった。木立は白い光を浴びて続いていた。真由美は木漏れ日の中を歩きだした。
 ただぶらぶら歩くなんてことが、そんなに楽しいことなのか。自分はいつも何かに駆り立てられるか、義務や目的、何かに縛られ、否応なしに歩いている気がする…そして今は、その呪縛から逃れるため、やはり仕方なく歩いている。
 あいつ、どうかしてる。おめでたい、ってやつね。真由美は自分の行動を正当化するように、胸の中で独り言ちた。男のくせに、女みたいだし、訳の分からないことばかりいうし、
 苛立ちと怒りが推進力となって足を前に進めた。
 どの位そうして歩いたのか、山の中の家を出て、大分経ったように思えた。一体いつになったら、この森から抜け出せるのだろう。真由美は疲労を感じ、息が上がってきた。思った以上に深い森で、自分は迷ってしまったのだろうか。道は相変わらず真っすぐ続いていたが、次第に辺りを覆う冬枯れの木立がまばらになり、先の方が少し開けてきた。遠くにキラキラ光りを反射する湖面が見えた。
 観覧車から見えた湖らしかった。
 シーズンオフの湖にも、やはり人影はなく、水面に弧を描いて滑る野鳥が数羽、静かに漂っているだけだった。世界中の人間が消えてしまったら、こんな感じなのかな、真由美はふと思った。人類の最後の生き残りのようになって、バス停を探した。滅びてしまった世界に走るバス。静かな湖の周りにそれらしき標識は見当たらなかった。疲れと戸惑いを感じ、誰もいない湖畔のベンチに、何となく腰を下ろした。
 落ち着いたとたん、空腹を覚えた。昨日のように、一刻も早く、もっと遠くへ、ここではないどこかへ行きたい、そう思っていたが、暖かな日差しの下で、静かにきらめく水面を眺めていると、それもどうでもいいような気がしてきた。
 「どうだっていいや」真由美は声に出して呟いた。
 明るい日の当たる静かな湖の周辺は、一時的な平穏を装っていた。その平穏の中に身を置いても、それがかりそめの世界だということを、真由美は感じていた。自分に付きまとう不安、その姿を、真由美は夢の中で見たことがあった。
 不安はいつも忍び足で、鍵をかけた筈の窓から、するりと入って来る。まず最初に、窓の隙間から伸びる長い灰色の腕が見える。灰色の指は触角のようにひらひら動いて、何かを探している。そして、アメーバのように全身が滑り込んでくる。近づいてくる不安は、嫌らしい目つきをして、へらへらと薄笑いをしている。そんな時、自分は丸裸で、いつも無防備だ。不安の侵入をどうしても止められない。
 怖くなって耐えきれず応戦する。不安に飛び掛かり、なぎ倒し、傍にあるもので手あたり次第、その灰色の嫌らしい存在を殴り続ける。空気の入った大きなボールを殴っているように手ごたえがない。不安はされるがままに、抵抗せずにいる。真由美は、闇雲に殴りながらも、自分が手加減をしているのが分かる。息の根を止めてしまうのが怖いのだ。こんな奴でも、自分が手を下してしまうと、もっと取り返しのつかない事態を引き起こす気がする。不安は、おそらくそんな真由美の心理を見抜いている。ぐったりと動かなくなっても、それはカムフラージュで、決して油断してはいけない。不安は狡猾だ。いつまたむっくりと起き上がり、ぞっとするほど嫌な薄笑いを見せて、近づいてくるか分からない。
 その灰色の不安から逃れるため、真由美はバスに乗り続け、進み続け、動き続ける。
 白いチョウが一羽、ひらひらと飛んできた。風もなく、静止した湖の岸辺で唯一動いているものだった。真由美はぼんやりその動きを眺めた。チョウって、なんだか頼りない。あんなフラフラした飛び方で、どこに行くんだろ。でも、飛べるっていいな。真由美はふとに立ち上がり、チョウを追いかけてみた。どちらが早いのか、比べてみようと思った。こんな頼りない存在が、自由に空間を移動するなら、自分もこのまま立ち止まっていたくない。
 しかし競争にならなかった。頼りない動きのチョウは、真由美の頭のずっと上を、まるでからかうように、軽やかに舞った。真由美は白い羽根を見失わないように、必死で追いかけた。幼い頃のことを思い出した。そういえばあたし、小さい頃、チョウを見つけると、いつも追いかけてた。捕まえられた試しなんてなかった。白い羽根は真っすぐ飛ばす、上に下に、右に左に揺れながら、それでもいつも先に進んでいく。そして突然、もうお遊びは終り、とばかりに、急に空高く飛び去って行く。今もそうして、白い羽根は去っていくところだった。 
 チョウの進む先に人影があった。長い黒髪の人物だった。
 「あれ、こんなところでチョウと追いかけっこ?」優は笑って言った。
 真由美は、驚きというよりは呆れた顔で、何も言えず優の顔を見返した。
 優は、真由美の追いかけていたチョウの飛んでいく方向に目をやり、やはりその姿を追った。「今年初めてチョウを見た。昨夜生まれたのかな。それにしては元気だ。冬を越したのかな」そして真由美を振り返り、また笑った。
 「ねえ、知ってる? 生まれたばかりのチョウって、ずっと小さくて、地面すれすれに、必死で飛んでるんだよ。あれたぶん、練習をしてるんだと思うな」
 「詳しいんだね」真由美はため息まじりで、皮肉を込めて答えた。そして、優の後ろから、遼一がゆっくり近づいてくるのを見た時は、さすがに驚いた。
 「こんなところに、こんなキレイな湖があるんだね」優は遼一に言った。「静かでいいところだ」
 「桜のシーズンは大変だぜ」遼一はぼそっと言った。
 「今は貸切状態だね。ピクニックに最適だ。おにぎりを持って来たんだよ。」そして今度は真由美に嬉しそうに言った。「ぶらぶら歩きも実現しそうだ。ちょっと待ってて」
 元来た小径を走って戻っていく優の姿をぼんやり見送っていた遼一は、「あいつは、天使かな、悪魔かな」と独り言のように呟いた。
 「僕たちに天罰を与えに来たんじゃないのか」
真由美はまた驚いて、黙って遼一の顔色を伺い、続きを待った。しかし遼一は、傍にあったベンチにのろのろと腰を下ろし、黙り込んでしまった。

日が高くなると、気温がぐんぐん上がってきた。三人とも上着を脱いで、ゆっくり湖の外周を歩いた。
 「君はどうして、自分をワタシと呼ぶんだい」出抜けに遼一が聞いた。前を歩く二人の背中を見比べ、ついに言ってしまった、と真由美は思った。
 しかし、優の答えはあっさりしていた。「うーん、物心ついたころから、僕、とか、俺、とか表現するのが、凄く抵抗があったんだ。そうとしか言いようがないよ。」
「なぜなんだい」
 「なぜだろうね。自分を表現するのに、適当な言葉が見当たらない。ワタシっていうしか、他にないんだ。折衷案かな」
 「君はきっと、色んなことに抵抗してきたんだろうな。自分を枠に閉じ込めようとする何かに。
 僕は逆だ。素直に枠にはまってきたよ。そのしわ寄せが今来ている。」
 「枠ね」優は感慨深げに言った。「枠って、人間の感情をコントロールしようとする仕組みだよね」
 「バカな話だ。人間を石っころみたい無機質なものにしちまう。世の中は、枠からはみ出た感情で溢れかえっているよ。権力を持つ人間だけが、感情を欲しいままに表現出来る。でもそれすら枠組みに隠されている。彼らの作ったグロテスクな枠に」遼一が激しい口調になったので、真由美は驚いた。
 「感情を押し殺してしまうと、真実は見えづらくなる」優は答えた。
 「真実なんて、どうだっていいのさ。辻褄を合わせるために、ぴたっとした枠組みが重要なんだ。学校なんかいい例さ。理不尽な、訳の分からない校則で、思春期の子どもを縛りつける」
 遼一はそう言うと、自分の激情を抑えるためなのか、ふと立ち止まった。そして、路傍の石を一つ拾うと、それを湖に向かって、勢いよく水平に投げつけた。石は水面を飛び、幾度がジャンプした。
 「上手だね」楽しそうに優が言った。
 「枠を作る奴ら、守る奴ら、従う奴ら、彼らはいつも不安なんだ。もっとも恐れているのは、君みたいな人だ」遼一は同じ動作を繰り返した。「君は決してこんなふうにコントロールされない」
 「ワタシは人畜無害だよ」優は笑った。「やり方を教えてよ」
 遼一は石を拾って優に渡した。「なるべく平たい、すべすべした石を選ぶんだ。サイドスローで、出来るだけ湖面すれすれに、遠くに飛ばすようにイメージするんだよ。」
 男二人は、それから湖に向かって、しきりに石投げに興じた。その大きな子どものような後ろ姿を、真由美は黙って見つめた。
 枠を作る人達の不安って、一体どんなものなんだろう。真由美は夢の中の嫌らしい不安の姿を思い出し、それにコントロールされないという優の笑顔を、へらへらした薄笑いに対峙させてみた。不安がその薄笑いを引っ込め、恐怖に歪んだ表情になるとしたら、それは優のマジックかもしれない。マジシャンのようにパチンと指を鳴らしたら、不安は断末魔の悲鳴を上げ、跡形もなく消えてなくなるかもしれない。そんな想像をするのは楽しいことだった。

 日が傾きかけた頃、三人は岐路に就いた。今日は遼一が助手席で、真由美は後部座席にうずくまった。優に再び発見されてから、真由美は抵抗力を失ってしまい、黙って彼らについて行った。
 木立を抜け、森の中に屋根が見えてきたとき、不意に遼一が叫んだ。
 「スピードを落とさないで、そのまま通り過ぎてくれ」
 優はとっさにハンドルを握り直した。
 見ると、玄関前の敷地に、見知らぬ車が横付けされていた。
 真由美はその車から目が離せなかった。辺りに人影はないか凝視したが、誰の姿も認められなかった。三人は黙ってその車をやり過ごした。
 「誰だろう。いいのかい?」バックミラーを確認しながら優は遼一に聞いた。
 「警察?」真由美も言った。
 「いや、違うと思う。」遼一は言った。「君達、何か大事なもの、置いてきたかい?」
 「いや、ワタシは着替えだけだし、そっちはしっかり持ってるみたいだし」優はミラー越しに、ボストンバックを抱えた真由美を見た。目が笑っていた。
 「でも、ワタシ達、着たきりスズメだよ」
 「僕もだ」遼一は自虐的に笑った。「だけど、もうあそこには戻れない。すまないが、このまま走ってくれないか」
 「大丈夫よ。着替えなんかいくらでも買えるわ。お金ならあるの」真由美は言った。ボストンバックから札束を一つ掴むと、後部座席から二人の間に差し出した。
 「ほら、何でも買えるし、どこだって行けるわ」
 真由美の持っているものを見て、二人の背中に緊張が走り、固まってしまったのが分かった。二人ともミラー越しに一瞬真由美を見たあと、前を向いたまま黙り込んだ。
 そんな二人の様子を察して真由美はもっと不安な気持ちになり、むきになって続けた。「盗んだんじゃないわよ。これは、もらったの。ちゃんともらったのよ。だから、あたしのお金なの。ホントに、あたしのお金なのよ」

 車はそれから、長い時間をかけて、連なる山のへりに沿って縫うように造られた長い長い一本の道を走り抜けた。カーブの先に、ずっと同じように蛇行して這っていく道が遠く続いていて、何台もの車が同じように進んでいるのが見えた。不思議な行列だ、と真由美は思った。みなそれぞれに、違う目的で同じ方向に進んでいる。バスの窓から眺めた、闇に流れるたくさんの窓に似ていた。夕方になり、すぐに夜が訪れ、山々は夜の影になり、行列はライトになって彼方まで続いた。三人は言葉少なに闇を進んで行った。
 山の中のサービスエリアにさしかかり、灯りと賑わいに満ちた広い敷地の一角に、ようやく車は停止した。真由美は車外に出た。ふと見ると、もの凄い数の星が、ヘッドライトや照明に負けず、夜空を絢爛と彩っていた。こんなこぼれるような星空を見るのは初めてのことだった。真由美は驚きを持って飽かずに星々を眺めた。
 優が、二人に飲み物を持って戻ってきた。
 「運転、代われなくてすまない」遼一は目を閉じて言った。顔に疲労の色が漂っていた。
 優はにっこり笑った。「ワタシは、運転が好きみたいなんだ。何時間走っても疲れたことがない」
 三人はおのおの、暖かい飲み物を飲んだ。しかし、会話は途切れがちだった。真由美は悲しい気持ちで夜空を眺めていたが、視線をそのままにして、二人に言った。
 「分かってる。あなた達が言ってた枠の中に、女の子が大金を持っている、というのはないんでしょ。」静かに瞬く星を見ていると、落ち着いた声を出すことが出来た。「あたしは枠からはみ出ているってことね」
 優は吹き出した。「言えてる。でもワタシが考えてたのは、今夜の宿をどうするか、ということだよ。車中泊、なんて嫌でしょう?」
 「最悪、それでも構わないさ」遼一はその言葉とは裏腹に、シートにぐったりもたれていた。
 「この車がキャンピングカーだったらよかったのにな。一度運転してみたかったんだ。楽しそうだよね、あれ」
 「面白そうじゃない。キャンピングカー。便利だし。探そうよ」真由美は言った。お金ならあたしが出す、という言葉は、二人の顔色を見て飲み込んだ。
 「うん、でも、これから行くところは、大きな車はちょっと難しいんだ。登坂走行がずっと続くからね」彼はパーキングの敷地を、あちこち見回しながら言った。そして、「ちょっと待ってて」と、二人を残してどこかへ立ち去った。
 真由美は仕方なくまた星空を眺めた。目を閉じてシートにもたれていた遼一が、その姿勢のまま何か言っていた。
 「何?」
 「君はあの車が警察のものだと思ったんだね」
 真由美はどきりとしたが、「普通そうでしょう」と誤魔化した。
 「僕は、僕の家のものだと思った。焦ったよ。どうやら僕たちは、自分にとって一番怖いものをあの車に見たんだな」
 「家が怖いの?」
 「うん、警察なんかよりよっぽど怖いよ。大の大人がみっともないだろ? 普通、逆じゃないか」
 「枠にはめちゃいけないんでしょ」
 「そうだな」遼一は自虐的に笑った。
 その様子があまりにも疲弊していたので、真由美は彼が気の毒になった。彼の恐れは自分にも覚えがあった。「どこまでも逃げればいいのよ」真由美は言った。
 「そうだな」遼一は繰り返した。
 優が走って戻ってきた。「この近くに、ホテルがあるみたいだ」
 

 
 明日の朝、八時にロビー集合、と打ち合わせ、三人はおのおの別々の部屋に引き込んだ。真由美は、彼らが自分を残して立ち去るのではないか、という疑いが、ふと頭をもたげた。あの札束を見た後では、優の気持ちも変わってしまったかもしれない。それを考えると少し悲しかったが、それならそれでもいい、と自分にうそぶいた。ここからなら、どうにでもなる。そう言い聞かせ横になると、思いのほか疲れているのに気がついた。そのまま泥のような眠りが訪れた。
 深い眠りは電話のベルで破られた。目を開けると、ホテルの素っ気ない部屋の天井があり、寝ぼけまなこは自分が何を見ているのか分からなかった。音は、ベットサイドの白い電話からけたたましく鳴り響いている。真由美は受話器を取った。
 「起きて。八時だよ。下で待っているから」優の声がした。
 真由美は瞬時に全てを思い出し、飛び起きた。バッグを掴むと、風のように廊下に走り出た。
 朝の光が白く充満するロビーの一角で、二人はコーヒーを飲んでいた。エレベーターから飛び出してきた真由美の姿を、優の笑顔が出迎えた。
 「春眠、暁を覚えず、だね」優は言った。
 「若い証拠さ」遼一は眩しさに目を細めながら呟いた。
 二人に出し抜かれたような気がして、真由美は苛立ちを覚え、何も言い返せずに睨みつけるしかなかった。
 優がハンドルを握り、真由美は助手席に、遼一は後ろの席にもたれ、車は出発した。
 「今日もいい天気だね」フロントガラスに眩しく反射する空を仰いで、優は言った。
「ドライブ日和だ」
 「どこに行くの?」真由美が尋ねた。
 「君は、不安に思ったりしないのかい?」真由美の質問の答えを待たず、遼一が後ろから優に聞いた。
 「不安って?」ハンドルを握り、前を向いたまま、優は聞き返した。
 「僕ら二人のことさ。僕らみたいなのと一緒に行動することが、君には危険なことかもしれない。しかし僕たちの事情を、君は聞こうともしない。」
 その質問に真由美が不安になり、その答えも怖かった。彼が、自分をホテルに置き去りにするのでは、という昨日の疑惑を思い出した。しかし、そうはならなかった。
 「うーん、そうだなあ。ワタシは自分の心の声に従っている」優は言った。「あなたたちに危険なんか感じない。不安なんかないよ」
 「心の声、ね」遼一は少しうんざりしたような口調になった。「君は宗教か何かやっているのかい」
 優は高らかに笑った。「宗教ね」彼は言った。
 「今まで知り合った人の中に、何人か熱心な人がいたなあ。みんな、一生懸命だよ。ワタシには友達あんまりいないけど、いい人だな、と思って一番仲良くしてる人が、やっぱり何かの団体に入っていたよ。知り合ってずいぶん経って、ワタシも勧められた。
 いい人だから、話を聞いてたんだけど、写真を見たら、なぜかゾッとしちゃってね。断った。でもその人は気にしなかった。今でも友達だよ」
 「どんな写真を見たんだい」
 「何の変哲もない、集合写真だったけどね。大勢の人が、何かに向かって、一心に祈ってた。何であんなに怖かったのかよく分からないよ。」優は前を向いたまま答えた。
 「ワタシのことより、あなたたちは、自分のことを第一に考えた方がいいんだ。とくにあたなは、そんなに弱っているでしょ。もっと利己的になっていいんだよ」優はバックミラーを眺めながら、優しく遼一を諭した。
 遼一にはその優しさが、返って戒めのように感じるらしかった。
 「君と出会ったことが、僕には天罰に思える時があるよ」
 「ラッキーだと思えばいい」優は笑った。「まったくあなたって人は、自分にはいいことなんて起こらない、と思ってるみたいだ。
 どんな人の上にも、雨は振り、日が射すのと同じだよ。仮に、善人や悪人がいたとして、厳密にはそんな区別はないけどさ、悪人には悪い事しか起こらない、なんてことはないよ。誰にだって、いいことも、悪い事も、同じように起こるんだ。
 悪い事は嘆き、いい事は楽しめばいいんだよ」
 助手席にもたれて、二人の会話をききながら、自分にいい事が起こるなんて、有り得ない、と真由美は思った。たぶん、灰色のあいつが邪魔をする。けれど、優の話をもっと聞きたい、とも思っていた。
 「僕には、自分のことを考える気力が、もうないんだ」遼一の声は沈んでいた。
 「なら、考えなくていい。成り行きに身を委ねてごらんよ。大丈夫。」
 「君のそういう考えは、やっぱりお母さんの影響なのかい」
 「そうだね。母にはいろんな大切なことを教わった気がするよ。
 自分の身に何か降りかかった時、怒ったり憎んだり、恨んだり嘆いたりしていいんだよ。それは当然の反応だし、生きてる証だ。その感情を溜め込んだりしちゃいけない。どうにかして吐き出すんだ。
 ワタシは、紙に書いたりするよ。母もそうだった。
 そして、その気持ちを見つめるんだ。冷静に、とことん見つめる。そうすると、その色んな感情の奥に、一つだけ優しさから来る感情を見つけることが出来る。泥のような感情の中に、まるで宝石のように輝いている。それが自分自身の真実なんだ。あるいは他の何かへの赦しの時もある。
 それを見つけたら、泥の中からそれだけ拾って、後は捨ててしまうんだ。時には苦しいし勇気がいるけど、結局楽になる。その宝石が、本当の自分だからさ。本当の自分って、自然の姿のように、単純で美しくて、ありのままなんだ。泥のような感情は、不自然に歪んでいて、宝石を隠してしまう。泥沼にはまって動けなくなる前に、本当の自分を救い出してやらないといけないんだ。
 その宝石だけを選んで、大切に持っていればいい。そして、その他はきれいさっぱり捨てて、忘れてしまう。この宝石が自分なんだと、それを手にしたら、決して後悔しないこと。そして二度と手離さないこと。例えうまくいかなくても、決して自分を責めないこと。それが出来れば、泥沼から自由になれるよ。」
 「繰り返し泥沼にはまってしまったら、どうすればいいんだい」
 「離れるのも一つの方法だよ。今みたいにね。選んだら、後悔しない。そして自分を責めない。これは凄く大事なことだ。自分を責めても、いいことなんか一つもないんだ」
 「大事なことを教えてくれた、いいお母さんだね」遼一は言った。
 「羨ましいよ、凄く羨ましい。
 僕ははっきり言って、人から羨まれる人生を送ってきた。でも本当は、何一つ持っちゃいなかったんだ」
 吐き捨てるように言うと、彼は両手で顔を覆って、すすり泣いた。
 真由美は驚いて振り返り、思わす、遼一の膝に手を触れた。そして引っ込みがつかなくなり、しばらくそのままそうしていた。
 母のすすり泣きを思い出した。母は時々、一人で泣いていた。真由美に見つかると、母はすぐに涙を拭いて謝るか、誤魔化した。謝ることないのに…訳を話して。真由美はそう思ったが、何も言えなかった。
 遼一は泣き止まなかった。額に押し付けた指が白くなって、震えていた。優は前を向いたままだった。見ると彼も今にも泣きだしそうな顔をして、唇を噛みしめていた。真由美は優のその表情にも驚いたが、どうすることも出来なかった。車内に寂しい沈黙が流れた。


 車はまた郊外へ進んだ。信号機が間遠となり、建物も少なくなって、辺りは空き地や雑木林、枯れた田園が目立つようになった。
 優は、真由美の見知らぬ土地へすいすいと車を走らせた。
 「ナビ使わないのに、道が分かるんだね」真由美は見知らぬ風景を車窓に眺めながら言った。
 「一度通った道は、何となく覚えているんだ」
 「へえ、凄い。あたしは凄い方向音痴だよ」二人は笑った。
 「そうしたら、あの白鷺を見た、あの谷も、覚えてる?」
 「うーん、どうかなあ」
 「そこには、お母さんに連れて行ってもらったの?」
 「ううん、たぶん父だ。殆ど覚えてないけど。不思議だよね。白鷺のことは凄くよく覚えているのに、父の記憶がない」優はまたふふふと笑った。
 「あたしのお母さんは、消えてしまったの」真由美はふと漏らした。
 優は頬に笑顔の後を残したまま、横目でちらりと真由美を見た。黙ったまま、先を促しているようだった。
 「ある日突然、いなくなってた。本当に消えてしまったみたいに」
 「お父さんは何て言ってるの」優はそっと聞いた。
 真由美は答えられなかった。思考に鍵がかかり、もう話すな、と言っていた。
 「この道はどこに行くの」話を逸らすつもりではなかったが、思いついたまま真由美は聞いた。どこに向かっているのか、さしたる興味はなかった。
 「先へ」悪戯っぽく優は答えた。「あとのお愉しみさ」
 再び車内を沈黙が満たした。
 「お腹が空かない?」しばらくして優が沈黙を破った。「この先に、ドライブインがある。ドライブインって、知ってる? そこのラーメンが美味しいんだ」
 「食べたい」真由美は答えた。急に空腹を覚えた。
 「じゃあ、行こう」
 そこは、踏み固めた粘土質の土と砂利のでこぼこした駐車場の中の古びた建物で、板ガラスの引き戸の上に暖簾がかかり、かろうじて食堂と分かるような店だった。造りは古ぼけていたが、店内は整然として清潔感があった。何人かの客が三々五々食事をしていた。
 丸い緑色の達磨椅子に座り、遼一はビールと冷奴を頼み、ちびちびやり始めた。「ニラレバもおいしいよ」と優が勧めたが、首を振った。
 優と真由美は、暖かい醤油ラーメンを食べた。優と遼一、会ったばかりの二人と、見知らぬ土地で何度か食事を共にしたが、まだ慣れることが出来ず、気恥ずかしくて妙な気持ちだった。遼一は殆ど無言だったし、優はいつも楽し気だったが、自分はどう振舞っていいのか分からなかった。会話はまた途切れがちになった。しかし反面、真由美はとても楽しかった。店内に設置されたテレビがニュースを伝えるまで。
 聞くともなしに音として聞き流していた野球のデイゲームが終り、ニュース番組になった。幾つかのニュースの後、アナウンサーが、男性が頭を殴られ、意識不明の状態で見つかった、と告げていた。「事件に巻き込まれた模様…」その報道は数秒で終り、場面が切り替わった。
 真由美は放心し、コンクリートの床にコップを落としていた。ガラスのコップが砕ける音で、我に返った。見ると、優が割れたコップの破片を集め、遼一はテーブルの水を拭いていた。「いいんですよ、怪我しなかったですか?」エプロンをした年配の女性が聞いていた。
 「あいつ、生きてた」店を出て、広い駐車場の一角で、真由美は堪らず叫んだ。「死んだと思ったのに」
 優と遼一は、何も言わず、様子が変わってしまった真由美を心配そうな面持ちで見つめていた。
 「死ねばよかったのに」真由美の目は憎しみの狂気でぎらぎら光っていた。脇の国道を何台ものトラックが走っていき、騒音と風を送っていた、午後の眩しい光が走る車のボンネットやバンパーを照らし、踊っては消えた。

 
 真由美は、自分の四方を壁が囲い、そして、その壁が徐々に迫ってきた日々のことを、思い出したくはなかった。そしてそれを、二人に全て話す気も、毛頭なかった。出来ればこのまま忘れてしまいたかったのだ。しかし、父親が生きているという事実を知った時、体中を憎しみと恐怖がないまぜになった竜巻のような激しい気流が吹き荒れた。
 いつの間にか存在し始めた目に見えない壁は、有刺鉄線を張り巡らせていた。それは体に傷をつけ始め、セーフティゾーンはじわじわと狭まり小さくなっていった。そしてある夜突然、壁はついに決壊し、粉々に砕けて暴風が襲い掛かってきた。
 辺りはガラスの破片だらけになり、あちこちにはみ出た釘が容赦なく肉に刺さった。それは真由美に深い傷を負わせた。白い木蓮が美しく咲く古い家は、倒壊した危険な残骸が散乱する廃屋となった。体中から赤い血を滴らせ、うずくまる真由美を吞み込んで完全に倒れ、瓦礫と共に埋めてしまいそうだった。飛行機が突っ込んだタワービルが、土埃を上げて倒壊していくように。
 しかし、真由美は、その危険からどうにか抜け出した。これ以上黙って傷を受ける訳にはいかなかった。
 「あたし、隠し撮りしてやったの。あいつのしたこと。ドライブレコーダーが事故を記録するでしょ。それで思いついたの」
 それは自分にとっても身を伐られるような辛い作業だった。それでも、この危険な均衡から抜け出す方法を、他に思いつかなかった。
 「あいつにそれを見せて、家にあるだけのお金を渡せ、って言ったの。そしたら黙っててやるって。あいつは怒り狂った。でも、慌てていた。
 あいつ、お金を持ってきた。結構あったから、驚いちゃった。だからあたし、映像のデータを渡したの。
 そしたらあいつ、コピーはないんだろうな、って言った」
 真由美が黙っていると、父親の目に、狂気と殺気、そして恐怖の色が閃いた。
 「あいつ、あたしに襲い掛かってきた。だからこれをおみまいしてやった」真由美はバッグの中から、黒光りするスタンガンを取り出した。電力はあの時のまま、マックスに設定されたままだった。
 「頭を殴られたなんてうそ。あいつ飛び上がって、自分で何かの角に打ったのよ。そのまま動かなくなったから、あたし、死んだと思ったの。
 怖かったけど、凄くホッとした。だけどあいつ、生きてた。
 あいつがいる限り、あたし、自分が無事に生きていけると思えない。」
 車の後部座席で、真由美は膝を抱え黙り込んだ。重い壁が、また自分の周りを取り囲み、じわじわと迫ってきているように感じていた。
 前を行く二人も、何も言わなかった。遼一は優を見た。ハンドルを握る優は、静かに涙を流していた。


 車は薄闇が辺りを包む頃ようやく、小さな平屋の前で停まった。街灯の少ない平野の静まり返った田畑のへりに、生垣に囲まれた古びた家が、暗い窓を見せて佇んでいた。
 「母が産まれた家なんだ。」優は二人を、かすかにカビとホコリの匂いがする家の中へ誘った。「先月少し整理をして、そのままだから、散らかっているけど、雨露はしのげる」
 茶の間の灯りがつくと、本やアルバム、食器類がテーブルの上に重ねられた台所が見え、次の間には、衣類や布団が畳んで床に広がっていた。役目を追え色褪せた数々の日用品が、人気のない家でひっそりホコリを被り、古い仏壇の上から年老いた人々の遺影が三人を見下ろしていた。
 真由美は布団を見つけると、闇雲に眠くなり、一枚の毛布を体に巻きつけ、そのままネコのように丸まって横になった。
 しかし眠りはなかなか訪れなかった。外界を遮断しつつ、頭のどこかのアンテナが、絶えず四方を警戒し、シグナルを張り巡らせているようだった。闇の中の天敵に身構える野生の生き物のように。
 見知らぬ古い家のガラス窓から、灰色のあいつが侵入して来そうだった。危険な廃墟から
闇に乗じてつきまとい、知らぬ間にずっとここまで追いかけて来ていた。そして今にも出抜けに現れそうな気がしてならなかった。
 隣の部屋の灯りの下で、グラスの鳴る音がしていた。
 遼一は胡坐をかき、床に置いた瓶を傍らに、ウィスキーを煽っていた。
 「泥まみれの奴が多すぎる」彼は言った。「泥の中でもがいてる奴もいれば、誰かを同じ沼に引き込もうとする奴もいる。泥の中が快適な奴だっているんだ。彼らは、泥に溺れる連中を見て笑っている。なぜ溺れるのか、可笑しくてたまらないんだ。」遼一は、アルコールの混じった怒りを、傍らの青年にぶつけているようだった。
 「君はこんな泥だらけの世界で、それでも宝石を探せっていうのかい」
 「自由のために、戦わなきゃいけないときがある」優の声は暗かった。「そして、ほんの子どものうちに、その戦いをしなければいけないこともある」
 「負け戦さ。子どもに何が出来る」
 「子どもの戦いには、盾になってくれる大人が必要だ。」
 「そんな大人がホントにいるのかい」遼一の声は、すでに酩酊しているようだった。
 「みんな泥試合をしてるのにかい? 金が足りない、エネルギーが足りない、武器が足りない、資源が足りない、生産性の指標も足りない、誰が好き好んで子どもの盾になる? 仕事だから仕方なくやってる奴はいるだろう。でもそれだって単なる枠組みさ。それどころか、子どもを石っころみたいに従順にするのに躍起になってるんだ。辻褄合わせの枠組みシステムに、誰も逆らえないのさ」
 「泥の中が快適な人なんて、いないよ」優は遼一をなだめるような口調になっていた。
「泥自体に怯えてるんだ。不安に怯える不安みたいにね。でも、そこから出られない。泥の先にもっと深い泥があるような気がして、出られないんだ」
 タバコの煙が香っていた。 
 そういえば優は、真由美に初めて会って、窘められてから、車の中でタバコを吸わなくなった。半分眠りながら二人の声を聞き、それを思い出して少し可笑しくなった。ヘンな人だ…しかし、その香りが、優の存在を確実なものにしているようで、今は心地よかった。そして、なぜ遼一がアルコールを求めるのかも、少し分かる気がした。お酒の力を借りれば、この辛い気持ちを乗り切れるのかな…そんなことを思ううちに、ようやく眠りの幕が降りてきた。


 
 翌朝雲一つない金色の夜明けがやって来て、太陽が登ると澄み渡った青空が広がった。風も穏やかで、気温も上がりそうだった。庭に出て、しばしば空模様を眺めていた優は、二人を外へ誘った。「鳥の気分を味わいに行こうよ」と彼は言って、寝ぼけまなこで不機嫌な顔をした遼一と真由美を促した。
 真由美は浅い眠りのせいで、遼一はアルコールの残りで、鳥の気分などどうでもいい気がしていたが、優に諭されるまま、顔を洗い身支度をした。
 三人は車に乗り込んだ。相変わらず優がハンドルを握り、遼一が助手席、真由美は後部座席に陣取った。車は田舎の小さな集落を抜けて、田園の中の国道へ入った。車内は気怠い沈黙が続き、優一人が溌溂とした笑顔を浮かべている。大分走って、行く手に遠く山並が見えてきた。
 山が近づくにつれ道は次第に登っていき、建物が徐々に減っていった。雑木林を走る道は見通しよく整備されていたが、両サイドの路肩が広く取られ、スケートボードのジャンプ台ような盛土が、所どころに設置されているのが目についた。
 「あれは何」真由美がやっと口を開いた。
 「長い坂道で、ブレーキが効かなくなった時、あそこに逃れて緊急停止するんじゃないかな」遼一が答えた。「そういう土留だろ?」
 「そうだよ」優が笑って返事をした。「ここはずっと、登りか下りが続くんだ」
 「危なくないの」真由美は反りあがった小さな壁のような盛土が何となく恐ろしくなった。
 「大丈夫だよ。ワタシのドライビングテクニックを持ってすればね」優は運転席でゆったりハンドルを握っていた。「ここは何度も走ったことがあるから、心配しないで。好きな道なんだ。もうじき森を抜けて見晴らしがよくなるよ」
 優の言葉の通り、木立が途切れ、視界が開けて来た。道はいつの間にか随分と標高が上がっているようで、山の上にずっと続いていた。行く手には空が広がり、冬枯れの薄紫色の枝が所どころまばらに伸びていた。
 「スカイラインって、いい言葉だよね」優はぽつりと言った。「ちょっと飛んでいるみたいな気分にならない?」
 遼一も真由美も、黙って四方を取り囲む空と森の風景を眺めていた。道の両側はなだらかに下って、足元に深い森が広く見渡せた。光溢れる天空の世界が、三人を取り囲み、迎え入れていた。車窓を流れる空と山を眺めながら、真由美の心はゆるゆるとその風景に溶け込んでいった。無機質な車に乗った自分たちが、風のように空と山の間を渡って行くのが心地よかった。
 山の道はどこまでも続いているように思われた。次第に登っていき、後にしてきた平野や市街地も小さく遠く見えてきた。時々通り過ぎる、駐車スペースのような広い路肩に、車が数台停まり、人々が見晴らしを楽しんでいた。
 「どこかで停まらないかい?」遼一が言った。
 しばらくして車は停まった。低山の山頂のようになっている敷地だった。   太陽は南の空に高く登り、右手の遠方に、今いる山よりも数倍高い山が一つ、広々したと山裾を従え堂々と聳えていた。裾野の周辺一帯に、田園を走る幹線道路や人々の陣営がへばりついていて、山の向こうはさらなる山並みが連なっている。左手は崖になり、針葉樹の森の先に海が青く見えていた。彼方に白く煙る水平線が、空の下に真っすぐな境界を作り、遥か海上では、太陽に熱せられた水面が雲を呼んで、幾つもの白い行列が小さく遠く並んでいた。空は高くどこまでも広がり、その全てを包括していた。
 車を降りた真由美は、いつの間にか駆け出していた。もっと見晴らしのよい場所を求めて敷地の真ん中に来ていたが、三百六十度、どこを眺めていいか分からなかった。海なのか、山なのか、どちらも圧倒的だった。自分の真上で輝いている太陽に向かって、思わず両手を広げていた。
 「本当に鳥だ!」真由美は太陽に向かって叫んでいた。
 こうやって両手を伸ばしても、掴みきれない広い世界が、真由美を取り囲んでいた。その真ん中で、真由美は自分が本当に鳥になれたと思った。そしてそれは、まるで自分がこの世界を独り占めしているような気分だった。
 優もその隣に駆け寄った。そして二人して、両手を広げ、その場でぐるぐると周り始めた。眩しい光の下で、二人はゲラゲラと笑った。
 「鳥って、ホントにこんな気分なのかな」真由美は優に言った。
 「どんな気分?」優は聞き返してきた。
 「世界はあたしのもの、っていう気分」
 「きっと、そうだよ。あんなにちっちゃいのに、空を飛んでる時、彼は王様なんだ」
 二人はまたゲラゲラと笑いながら鳥の真似をした。
遼一はそんな二人の様子を、車にもたれて黙って眺めていた。そして、眩しさに目を細めながら、そっと噛みしめるように、遥かな眺望を見渡した。
 広い空の頭上に高く、鳶が悠然と羽根を広げ、風に乗っているのが見えた。
 笑い疲れた二人が、遼一の側に戻ってきた。そして、遼一の見ている方向に目をやり、そこに輪を描いて漂う本物の鳥に気がついた。三人は黙って、その姿を眺めた。
 「あんなふうに自分の力で飛べるとしたら、本当に王になれそうだね」優は空を見上げて呟いた。「この広い空で、小さいけれど、唯一無二。世界と対等なんだ。」
 三人は揃って車にもたれ、しばらく自由な翼の滑空に見入った。太陽の光が充満する空は、その翼のために存在していた。
 「あの自由は、命がけだ」遠い翼を見つめて遼一が呟いた。
 鳶はしばらく旋回し、そしてふと向きを変え、海の方へ姿を消した。「あんなところに道がある」鳥の行方を追っていた遼一は、左手の針葉樹林の間から見える一本の道を見つけて指し示した。
 崖を下り降りる、かなり急勾配の道だった。数台の車がゆっくり進んでいくのが見える。
 「本当だ。知らなかった」優が言った。「凄い坂だね。海に降りていけるのかな」そして二人を振り返るといたずらっぽく笑った。
 「行ってみる?」
 「でも、凄い道だよ、あれ」遼一が懸念の声を発した。
 「うん、怖い」真由美も言った。
 「大丈夫だよ。ワタシの運転、もうかなり信用してくれてるんじゃない?」優は笑いながら二人を促した。「さあ、乗って。下界へ降りよう。海に行くんだよ」
 海というキーワードが、遼一と真由美の冒険心をそそった。二人はまた、遼一は助手席に、真由美は後部座席に黙って乗り込んだ。
 道に戻り、しばらく進むと森の中に左折する分岐が見えてきた。車は左に折れ、ゆっくりと坂を下っていった。
 「うわ、怖え」遼一が叫んだ。真由美も笑いながら悲鳴を上げた。「ジェットコースターみたい」「これ、登るのも下るのも大変だよ。何でこんなところに道造ったかな」「近道だからだろ」車内は大騒ぎになり、爆笑に包まれていた。優は徐行しつつ坂を下っていき、ようやく平らかな道に降りた。針葉樹の森を抜け、大きな海岸通りに交差した先をそのまま真っすぐ進むと、民宿や商店、民家が増え、駐車場や海水浴場の看板が見えてきた。
 彼らは駐車場に車を停め、歩きだした。松林の防風林が海岸に沿ってずっと続いていた。松の根本の草地に、水色の羽根と長い尾を持つ鳥が群れを作っていた。彼らが近づいて行くと、鳥はぎゃーぎゃーと喚くような鳴き声を上げ、松の梢に次々と飛び、姿を隠した。
 「あれ、見た? キレイな鳥だね」優が言った。
 「うん、頭が黒っぽかった。帽子みたいでかわいい」真由美も言った。「でも、ヘンな鳴き声。なんだか文句言ってるみたい」
 「オナガだよ」遼一が言った。
 「詳しいね」優と真由美は驚いたように遼一を見た。
 「よく見かける鳥だよ」
 「そうなんだ? 初めて見た。鳴き声で鳥の名前が分かったりする?」真由美が遼一に聞いた。
 「シジュウカラくらいならね。毎朝鳴いてるし」
 「へえー」二人が感心した表情をしたので、遼一は少し面食らったが、「よかったね先生がいて」と真由美が優に笑いかけ、優もにっこりと頷いたので、得心したようだった。
 足元にだんだん砂が混じって来て、松林が途切れると、目の前に海が横たわっていた。海は午後の光を集めてウロコのような水面をキラキラと輝かせ、小さな波頭が白く海岸を縁取っていた。穏やかな凪の海は、黄金色をしていた。
 眩しい海岸にも小さな白い鳥の群れがあった。遼一は問われるまま、ミユビシギ、と答えた。白い鳥は彼らと同じく、波と戯れていた。
 「渡り鳥だよ。春だから、もうすぐ北に渡って行くんじゃないかな」
 「鳥が好きなんだね」優が言った。
 「そうだ、子どもの頃は、しょっちゅうバードウォッチングに行ってたな。虫も好きだったよ。シートンみたいな生物学者に憧れてたっけ」遼一は水平線を眺めながら呟いた。「鳥や虫じゃ喰えない、って、親に窘められて、経済学部に行ったんだったな。ヘンなこと思い出しちまった」
 真由美は岸辺に遊ぶ鳥の姿を見ていた。鳥達は、砂をくちばしでつついていたかと思うと、不意に飛び立ち、一羽が飛ぶと全ての白い羽根がそれに習って、水面すれすれに弧を描き、旋回を始めた。
 あんな小さい体で、この海を渡って行くのかな…真由美はその力を不思議に思った。「鳥って、空の道を知っているのかな」渡りの準備に余念がないような、白い群れの動きを眺め、そう呟いた。
 「知っているだろうね。僕たちには見えない道を」遼一が答えた。


 夕焼けの海岸線を岐路につき、祭の後のような、気怠い寂しさが車内を包んでいた。三人ともその寂しさに抗うことが出来ず、交わす言葉も途切れがちだった。真由美は、想像の翼をたたみ、空から降りて、重力のある現実の世界を再び歩かねばならないのが恐ろしく、煩わしかった。空から切り離され、広い世界は遠のいて行った。
 あの白い鳥に混じって、自分も北へ飛んで行きたい。ふとそう思い、海岸で群れの旋回を飽きずに眺めていた。彼らの現実の方がずっと恐ろしいかもしれないのに、そんな未来をさほど気に病んでいる様子もなく、軽やかに飛翔している。鳥たちは、自由で、自然の一部だった。世界と対等だと優は言った。しかし真由美は、空と海と鳥と、どこかで繋がっている、そんな気がした。彼らにはそれが分かっていて、だからきっと旅も不安ではないのだ。オレンジ色に染まる空と海を眺めながら、白い鳥の姿をいつまでも思い返していた。
 優と遼一とはもう離れなければならないかもしれない。真由美は突然思い立った。白い小さな鳥が北へ向かうように、自分は南に行こう。暖かい所なら、一人で過ごすのがさほど難しくないかもしれない。渡り鳥のように、渡って行こう。
 明日、旅に出よう。
 助手席に座っていた真由美は、ちらりと優を盗み見た。すると優はなぜか視線を返してきた。そしてにっこり笑った。その笑顔はまるで、「あなたの望むとおりに」と言っているような気がした。悲しみがちくりと針のように射した。


 
 翌朝、まだ暗いうちに、真由美は小さな家を後にした。家の近くに線路が通っているのを見つけたのだった。始発の電車に乗って、とにかく南下するつもりでいた。
 暗い田畑に走る道を駅を目指して歩きながら、真由美の心に後にしてきた数日間が去来した。不思議な出来事だった。そして、鳥になった昨日の光輝く一日。その思い出から離れるのは寂しいことだった。つかの間の自由に羽ばたいた心。今また、重力に縛られ、いつものように、何かに追い立てられるように歩いている。
 しかし、今までとは少し違った。昨日の鳥達の姿が、真由美を鼓舞していた。
 これまでの時間を全て、破いて捨てる。自分の感情でさえ、一つずつ、捨ててしまうのだ。悲しみも怒りも喜びも。記憶をなくしてもいい。自分が自分であることさえ忘れて、あの白い鳥のようになりたい。身軽になって、空と海と繋がって、迷わずに進んでいきたい。
 線路沿いに歩いて行けば、駅が見つかるだろう…そう考えて、線路の脇の細い道を、少し明るくなりかけた空に向かって進み続けた。どれくらいそうして歩いたか、その向かう先に、停車している一台のパトカーが見えてきた。
 真由美は愕然として足を止めた。
 恐怖が一気に全身を駆け巡った。思考も停止し、動けなくなった。制服の警官が二人、車のそばに立ってこちらに視線を送っていることを、麻痺した脳がぼんやり感知していた。
 踵を返して逃げたかったが、怪しまれるだろうか…進むのも退くのもリスクが大きすぎた。果たして警官は、顔を見合わせ、こちらに近づいてきた。
 終った。真由美は絶望を抱いて立ちすくんだ。
 灰色のあいつが、灰色の手を回して、自分を捕えようとしていた。あいつの目的は果たされた。心臓が早鐘を打った。
 あいつの世界から派遣されたような二人の警官が、不信な表情で近づいてくるのを、なす術なく見つめていると、後ろから走って近づいてくる足音が響いてきた。
 「真由美ちゃん」と声がした。しかしそれは優の声ではなかった。
 遼一だった。
 警官二人は、後から登場した人物に目をやった。
 「すみません」遼一は息を切らせて警官に言った。「どうかしましたか?」
 「お知り合いですか」警官は隙のない視線を二人に交互に走らせた。
 「姪なんです。法事でこちらに来ているのですが、両親と喧嘩になりまして。どうも先に帰宅しようとしたらしいんです」遼一は淀みなくすらすらと言った。そして、財布から、免許証と名刺らしきものを取り出した。
 警官は渡された名刺を懐中電灯で照らし、遼一を眺めた。そして真由美に向かって、「そうなのかい?」と聞いた。
 真由美は頷くしかなかった。
二人の警官はしばらく考えていたが、年長らしき一人が遼一に免許証と名刺を返して言った。「こんな時間に、女の子一人でうろうろしていたら、物騒ですからね。お気をつけください」
 「すみません」遼一は頷き、真由美に「行こう」と促した。
 二人は背中に警官の視線を感じつつ、来た道を引き返した。なぜ警官を納得させることが出来たのか、とにかく、真由美は一言も弁解することなく、その場は収まり、解放されたのだった。彼らの気が変わらないうちに、走って逃げたい気分だったが、真由美は遼一に従ってゆっくり歩を進めた。
 しばらくして遼一が言った。「嘘は得意なんだよ」彼は自嘲的に笑うと、指先で白い名刺を玩んだ。
 真由美は何も答えられなかった。
 「あいつ、変わってるよな」遼一は独り言のように続けた。優のことを言っているらしかった。「看護師だっていうのは、知らなかったよ。どうやってあいつと知り合ったのかも、もう忘れちまった。ここが」彼は自分のこめかみを人差し指でつついた。「もうスカスカな感じだ。でも、嘘はすらすら出てくる。習い性、ってやつかな」
 二人の頭上で鳥が鳴き始めた。
 「以前、お袋が、なんか大したことのない病気で、ちょっと入院したことあったな。その時、男の看護師が大勢いて、僕が、そういう時代なんだね、って言うと、お袋何て言ったと思う」遼一は、真由美の答えを待っている様子もなく、苦々しく続けた。「男の仕事じゃないわよ、なんて言いやがった。信じられるかい? でも今でも、そういう考えは蔓延っているんだ。
 僕のお袋は、自分の安全で快適な生活のために、人をコントロールしたがる、ある意味、人を人とも思わない、冷たい人だったよ。偏った考えに満ちていて、それが否定されるような、自分で制御できない事柄は、拒否するのさ。男の看護婦もその一つなんだろう。」
 真由美は黙って彼の独演を聞いていた。自分を追いかけて来たらしい遼一に、戸惑っていた。警官に怯える自分を救い出してくれた、お礼をいうべきだろうか…そして、山の家で遼一が、自分の家族の幻影に怯えて逃げるようにそこを去ったことを思い出した。今度は真由美の一番恐れるものを、嘘で取り去ってくれたのだった。
 遼一の不安は、どんな姿をしているのだろう。彼もどこまでも逃げたいのだろうか。
 だったら、逃げればいい。でも、彼にその力が、残っているだろうか…とても痩せて、いつも痛々しく疲れた様子は、優の力なしではどこへも行けないであろうことが頷けた。優はどこまで彼に付き合うのだろうか。そして自分はどうすればいいだろう。彼の力になってあげるべきなのだろうか。しかし自分は、下手をすると二人の足手まといになる可能性があった。思いは同じ所を巡り、真由美はひたすら迷っていた。
 背後に日が登ってきた。
 「君のお父さんは、取返しのつかないことをした」朝日に背を焼かれながら、遼一は呟いた。
 真由美は冷水を浴びせられたようにぎくりとし、体中が慄然とおののいた。そのことに、二度と触れられたくなかった。だから二人と離れようとしたのかもしれない。しかし、警官の姿を見て、その気持ちは簡単にくじけてしまった。自分ももはや、一人で行動することが出来なくなってしまったのだろうか、そんな危惧もじわりと沸いてきた。
 「僕もなんだ。取返しのつかない嘘をついた。そのせいで人も死んだ。しかし僕は、それを憐れむことも、後悔することも、懺悔することも赦されない。僕の周りの人間は、僕に忘れろと言う。今まで通りの僕でいることを望んでいる。それが僕のためだと言うけど、それも嘘っぱちだ。僕を思いやる振りをして、結局自分達のためなんだ。そんなお為ごかしはもううんざりだ。みんな生きながら地獄を見ているよ。
 君のお父さんも、きっとそうだろう。父親という立場に胡坐をかいて、娘を好きに出来ると思っている。その辺は、僕の母親と一緒さ。それぞれ生きたまま地獄にいて、それに気がつかないか、気づいていても、その考えに目を背け、無視し、拒絶する。そして、地獄を逃れようとする者を、何人たりとも許さない。ひどい人生だ。そんなふうに生きてる人がたくさんいる。君はそんな人生の犠牲になる必要はないんだ」
 遼一の言葉は、トンネルに響く虚ろなこだまのように、真由美の耳を通り過ぎていった。父親と、灰色のあいつがいる限り、自分にに平安は訪れない、そう感じていた。遼一の未来も暗澹たるものであるらしいことが、言葉の端々から感じられた。二人とも、その暗闇から逃れる術を知らず、こうして歩いている。遼一もそれを自覚したのか、その後は黙りこくり、二人は沈黙のまま、大分歩いて、優の小さな家にたどり着いた。
 優は開け放された縁側に座り、庭の敷石に足を置いて、朝日を浴びながら、タバコの煙をゆっくり空に立ち昇らせていた。戻ってきた二人を見て、彼は何も言わずにっこり笑った。笑顔に日差しが輝き踊っていた。

 
 
 その日一日、遼一と真由美は、優の指示に従って、小さな家の片付けを手伝わされた。家の手伝いなど殆どしたことのない真由美は、何をするにもへどもどし、手つきが覚束なかった。しかし今日は悪態をつかず、黙って優の言う通りに黙々と作業をした。
 不要なものが次第に片付けられ、隅々のホコリが拭われ、部屋は掃き清められた。窓ガラスを拭き、布団を叩いて、洗濯したシーツを干しながら、優は、満足そうに日の光を顔や髪に受けていた。
 晴れた小さな庭は生垣に囲まれ、その先は家に並行して畦道が通り、すぐに田園が広がっていた。
 「夏は稲穂が風に吹かれて、すごくキレイだよ。緑の波みたいに」優は言った。
 「ここに来ると思い出すのは、ネコのことなんだ。ネコがこの畦道に座って、草を食べているので、びっくりした。ネコが草を食べてるって、母に報告した。ネコは消化の悪いものを食べると、草を食べて吐き出すんだって、祖母が教えてくれたよ。慌てて戻ったら、クックッって、何か吐いてた」真由美はその光景を想像して笑った。他の二人が物思いに沈み、言葉を発しなくなってしまって、優は一人で自分の記憶を語っていた。
 家の後ろは集落をぐるりと取り囲む用水路が走っていて、家の裏口に続く欄干もない小さな石の橋がかかっていた。「小さい頃は、この用水路が怖くてね。」優は幼い頃の物語を話し続けた。「ワタシはそそっかしいから、落ちるんじゃないかって、母も祖母も近寄らないよう口を酸っぱくして言ってたせいだよ。でもこの橋を渡らないと、家に入れないしね」橋は信号のない一車線の農道に繋がり、狭い道はカーブして見通しも悪かった。一人でこの道を渡らないように、とも注意を受けていたが、橋の向かいにある神社の長い階段を眺め、いつもあそこに行きたくて、家族の目を盗んでは一人で渡っていた、と語った。白い鳥居の先の石段が、こんもりと盛り上がった鎮守の森に続いていた。「宗教はあんまり興味ないけど、神社は好きだよ。緑が多くて静かで、謎めいていて、子どもにとっては最高の遊び場だ」小高い森を見上げながら優は言った。
 
 
 小さな家は程なく整頓された。「ありがとう。おかげで大分片付いたよ。お礼に美味しいものでもご馳走しなくちゃね。」優は晴れ晴れとした笑顔を二人に向けた。「何か食べたいものはある?」
 二人は何と答えていいか分からず、上機嫌な優の笑顔を見返した。
 「ワタシは、鰻が食べたいな。」二人の答えを待たず優は、庭を眺めながら呟いた。
 「鰻は好きじゃない」真由美の悪態が始まった。
 「そう?」優はにっこり真由美を見た。「じゃあ、お雑煮はどう? 消化がいいし、大好きなんだ。今年のお正月は食べてないしね。」
 二人の答えを待たず、優は勢いよく縁側に跳ね起きた。「決めた。お雑煮にしよう。買い物に行ってくる。少し休んでいて」
 風のように飛び出していく優の背中を見送り、居心地のよくなった茶の間に、遼一はごろりと仰向けに横たわった。手を頭の後ろで組んで、天井をぼんやり眺めている。今日一日、二人は殆ど言葉を交わさず、遼一はのろのろと大儀そうで、また反発する磁石の極を纏ってしまった。
 その様子を見た真由美は、優が自分達をこの家に連れてきて、こうして片付けた目的が分かったような気がした。この人を、匿うつもりなのかもしれない。自分と同じで、自分のしたことに怯え、何かから逃げているこの人。この家は最適な隠れ家かもしれない。ずっとここにいればいい。夏の美しい稲穂や、密やかに鎮座する森が、彼を元気にするかもしれない。
 でも、自分はどうしよう? 真由美には分からなかった。
 開け放された縁側の引き戸から、冷たい風が吹き込んで来て、真由美はガラス戸を閉めた。空にはいつの間にか雲が出ていた。灰色の重たい雲だった。


 
 雨は真夜中に降り出した。闇の中に、屋根を打つ雨音が、次第に強く響いてきた。
 今度は遼一が、朝まだきに起き出す番だった。
 暗闇の中で身支度を整えると、それぞれの部屋で休んでいる他の二人を起こさないよう、忍び足で茶の間に行き、暗い部屋のテーブルに、優が置いた車のキーを見つけると、それを手に玄関に向かった。
 上がり框に座って靴ひもを結んでいると、果たして背後に気配を感じた。振り返ると優がそっと近寄ってきた。
 「どこに行くの」優は遼一に聞いたが、その口調はどこかおざなりだった。聞いても無駄だろう、と思っているような調子だった。
 遼一は暗い玄関に立ち上がった。暗がりが彼の表情を消していた。輪郭だけになった黒い影が、優を見ていた。影の後ろでガラス扉が、雨だれの波形に揺れていた。
 「誰のせいでもないんだ」影は言った。「僕が悪い」
 優は頷いた。「あなたのせいでもない。ただの反応だし、ただの出来事だよ。物事は変わっていくよ。同じ状態でいる事は有り得ない。」
 影が動いて、上着の内ポケットから財布を出し、名刺を一枚優に差し出した。「知り合いの弁護士だ。僕が信頼している数少ない人間さ。あの子の力になってやれよ」
 「ありがとう」優は中指と人差し指のピースサインに名刺を挟んだ。
 「ただの出来事だけど、僕は怒りたいし、恨みたいし、泣きたいんだよ。そして後悔したい。それだけなんだ。
 もう心の中をいじくりまわされるのはごめんだ」
 遼一の言葉に優はまた頷き、返事をしかけた唇を結んで躊躇っていた。
 影はしばらく佇んでいたが、やがて背を向けると、格子戸を開け、雨の中に消えた。
 優は、遼一の去った上がり框に座り込むと、そのまま石になったしまったように動かなくなり、遼一によって閉じられた格子戸をじっと眺めた。そうやっていれば、遼一の気が変わり、彼が戻って来るかもしれない、とでも言うように。そんな一縷の望みは突然優に沸き起こり、彼は祈るようにガラス戸を睨みつけた、ほどなく、エンジンを回す音がして、車がゆっくり走り出す気配を聞いた後は、軒を打つ雨の音だけが響いて来た。優はひたすら耳を澄まし、その中に、遼一の戻って来る音を待ち続けた。
 夜が明けて、真由美が目を覚ました後も、優はそのままの姿勢でそこにいた。ピースサインに白い名刺を挟んだままだった。
 「何してるの」真由美は優の背中に声をかけたが、優は何も言わず、振り向きもしなかった。雨音だけが響いた。
 どこかいつもと違う優の様子に、真由美はただならぬものを感じ、訳もなく辺りを見回した。そして、静まり返った薄暗い家の中に、遼一の姿が見えないことに気がついた。一人の存在が欠けた狭い家の密度は驚くほど小さくなり、寂しさと虚しさが大きく両手を伸ばして空間を支配しているように思えた。
 「あの人どこに行ったの」真由美は玄関に座り込む優に聞いた。しかし優は答えなかった。真由美は玄関を勢いよく開けた。車がなかった。
 「車はどうしたの」真由美は詰問口調になっていた。
 「あれは彼のなんだ」優はやっと口を開いた。
 「あの人、一人で行っちゃったの?」
 また沈黙が返ってきた。
 「どこに行ったの」
 優が答えないのは予想出来るような気がした。真由美は独り言のような自分の問いに悲しい痛みを感じていた。
 突然消えた母の時と同じ痛みだった。それを思い出し、痛みは恐怖へと変わっていった。
 「追いかけようよ」恐怖に耐えられず、言葉は懇願するようになっていた。その懇願は口にするとはっきりした願望になった。
 優と遼一に何度も追いかけられ、探し出してもらってここにいる、そのことを思い出した。
 「探しに行こう」真由美はもう一度優に言った。
 石のように動かなかった優の顔に、不意に決意が閃き、彼は素早く立ち上がった。
 雨は土砂降りになっていた。二人は家にあった古い錆と穴だらけの傘を差し、濡れ鼠になって、早朝の人気のない小さな集落を走り抜けた。真由美は優の背中に必死について行った。優は無人駅の改札をくぐり、ホームの軒で、真っすぐ伸びる線路の先を眺めながら苛立たし気に電車を待った。真由美は濡れてがたがた震えていたが、それは寒さだけからくるのではなかった。
 母のことを繰り返し思い出していた。誰に聞いても、何も答えてくれない、母の行方。
 真由美はその晩、ただひたすら待っていた。自分の部屋のベッドの中で、布団に包まり、闇に目を凝らし、耳を澄ませた。今に玄関の扉が開き、母が戻って来る。夜の間中その希望をともしびのように抱いていた。朝になって、それは潰えた。
 母がいなくなった家に、ぽっかり開いた大きな空洞。異様な静けさ。その屋根の下は異質な空間に変わってしまった。
 それでも、戻らない母を、真由美は赦し、待っていた。そして、自分には母を引き止めることが出来ないことも、おぼろげに分かっていた。
 優は遼一の行く先を知っているのだろうか。いつになく険しい表情をした彼は、何も言わなかった。二人はやってきた電車に乗り、優が目的とする駅につくまで、一言も言葉を交わさなかった。二人ともそれぞれ別の窓を見ながら、雨に濡れる風景を無言で眺めた。
 少し大きな駅に降り立つと、優はレンタカーを借りた。
 真由美は黙って車に乗り込んだ。ワイパーを動かし、激しく方向転換した優は、沈黙のままハンドルを握りしめ車をスタートさせた。街には人々の往来が始まっていた。信号が点滅し、傘をさした大勢の人の靴が目の前を過ぎていった。いつもと変わらない日常の風景が流れていた。
 優は街を抜け、やがて道は郊外に入り、山に続いていた。行く手に山並みが迫ってきたとき、真由美は車の向かう先が分かった。
 遼一の目的地はそこなのだろうか。それをなぜ優は知っているのか。しかし真由美には疑問を持つより先に、愕然とした絶望感が襲っていた。自分もそれを知っている、知っているが必死に否定していた。
 二人は押し黙り、フロントガラスを激しく打ちつける雨に阻まれ、もどかしいような時が流れた。やがて車窓に路肩に置かれた例の土留めが見えてきてた。見覚えのある風景がぼんやり霞んで、冷たい雨に沈み見通しがきかなかった。同じ道を走っているのに、今日は全く違った顔を見せていた。遼一は一人でここを走ったのだろうか。彼の後を追って彼の悲愴な道筋をなぞっている、それが二人を悲愴な追跡者にしていた。
 森を抜け、灰色の空が開けてきて、やがて見えてくる右に聳える大きな山。今日は雲を被っていた。、彼らが車を止めた敷地にさしかかると、前方に障害物があった。警察車両が何台か停まり、片側の道を塞いでいた。右側の針葉樹林の森に向かって、大きなクレーン車がクレーンを伸ばしていた。
 真由美はサイドボードにかじりつき、その光景を見極めようとした。
 優は雨の車外に出た。同じように車を停めている運転者がいた。真由美もつられてドアを開けた。「事故みたいだよ」そう話す運転手の声を聞いた。優のそばに立つと、その時クレーンがゆっくり上がり、車の残骸を持ち上げた。
 三人で過ごし、三人をここまで運んできた、かつては車だったものの残骸だった。
 雨の中に潰れた鉄の塊となって吊られていた。
 雨に打たれた二人はその光景を前に立ちすくんだ。
 「停まらないで、移動してください」雨具を着た警官が怒鳴っていた。

 
 灰色の雨の道は、緩やかに下っていた。優は涙で霞む目を凝らしながら、唇を噛みしめ、どうにかハンドルを握っていた。傍らで、真由美は顔を両手で覆って泣いていた。
 二人を乗せた車は、あの日の帰り道に寄った海岸の、松林の手前の広い駐車場に辿り着いた。他に一台も車のない、濡れてがらんとしたスペースに、優は車を停め、サイドブレーキを引いた。
 そしてその音が合図だったように、彼はハンドルに突っ伏して激しく嗚咽した。
 「何で止めなかったの」真由美は涙に濡れた顔を優に向けて、強い口調で言った。「何で引き止めなかったの、ねえ」
 優は答えず、そのまま泣き続けていた。
 真由美も、答えを待っていたわけではなかった。大声で泣くきっかけを作っただけだった。
天井を仰いで、オオカミの遠吠えのような泣き声を上げた。この世にたった一匹、生き残ったオオカミが、絶えてしまった仲間を呼んでいるような、孤独な泣き声だった。狭い車内を叫び声が充満し空気を引き裂いた。
 二人は長い間声を上げて泣き続けた。誰もいない静かな海辺にぽつんと停まった車の中に、、悲しみが繰り返しこだました。
 しかし二人とも、それを頭のどこかで、冷静に聞いていた。泣いている自分自身を見ている他の自分がいるようだった。遼一を追って家を飛び出した瞬間、こういう結末が訪れるであろうこと、雨の中の追跡で、じわじわと察知していた。間に合うかもしれないという、一縷の望みが潰えた衝撃への、感情の爆発をもう一人の自分が赦していた。悲しく不思議な時間が流れた。
 雨が小降りになり、ようやく気持ちが落ち着いてきたとき、優が言った。
 「すごく引き止めたかった。でも出来なかった。どうしても止めたかったけど、どうしても出来なかった。彼の苦しみが増すだけのような気がして
 ただ戻って来てくれるよう、それだけを願っていた」
 「後悔してるよ」真由美にはまだ責めるような口調が残っていた。しかし、優を責めるのは間違っている、とどこかで感じていた。自分の悲しみを、優にぶつけているだけだった。優はそれを許してくれる、とも思っていた。
 二人はもうその場から動けないように思えた。しかし、雨が止む頃、涙も枯れてきた。二人は涙に疲れたため息を何度もついた。そして真由美がドアを開けて、海に向かって歩きだし、優もその後に続いた。
 灰色の空の下で、灰色の波が荒くうねっていた。二人はとぼとぼと砂浜を歩いた。歩いては立ち止まり、風に煽られ、また歩いた。
 誰もいない海岸の波打ち際に、あの日遊んでいた白い鳥の群れの姿がないことに、真由美は気がついた。海を渡って、他の国に行ったのだろう、と思うと、また涙が出てきた。彼らと同じように、別のどこかへ旅立つのは、自分のはずだった。
 「あの人、どうなっただろう」真由美が呟いた。
 優は何も答えられなかった。
 「今、どこにいるかな?」今度は真由美ははっきり優に語りかけた。
 「分からない。警察に行けば、教えてくれるかな」優は確信のなさそうな声で返事をした。暗い波が、少しづつ凪いできて、その向こうに見えてきた水平線を眺めていた。
 「会いに行こうよ」真由美が言った。「警察に行こう」
 優は振り返り、真由美をじっと見つめた。そのまなざしに、いつもの優の穏やかな優しさが、徐々に戻ってきた。
 「あの人を探そう」真由美は優のまなざしを受け止めながらもう一度言った。
 「警察、怖くない?」優は優しく尋ねた。「いろいろ事情を聞かれるかもしれない。それでも大丈夫?」
 「いいよ。聞かれたら話すから。」今度は真由美が水平線を眺め、その方向に向かって宣言した。
 「本当のことを、全部話す。それから」
 「それから?」言い淀んだ真由美の言葉を優が促した。
 「あたし、世界に復讐する」
 それは、灰色のあいつが待ち構える灰色の世界だった。脳裏にあの薄笑いがよぎった。
 二人の立つ後方の雲の切れ間から、日が射してきた。すると海も空もフラミンゴの羽根のような不思議なピンク色の光に包まれた。オレンジとピンクの混じったような色の絵具が、空に残る重い雨雲を一面に染めてゆき、波や砂浜も、海岸の岩にも反射して、辺り一面が不思議なピンク色の世界に変貌した。
 突然現れたその世界は、優と真由美を取り囲んだ。
 真由美は、瞬く間に変わってしまった光景を不思議とも思わず、ぼんやり眺めていた。そしてもう一度、自分の気持ちを確かめた。
 「あたしやあの人を苦しめた世界に復讐する」
 優は頷いた。
 しかし、ピンクの光の中で、風に吹かれて、その言葉はどこかに飛んで行ってしまいそうだった。真由美は不意に不安になった。そんなこと、あたしに出来るのだろうか? じっと海を見つめて、その約束を果たすためにはどうすればいいのか、漠然とした未来への不安と戦い、自問自答した。あの恐ろしくおぞましい薄笑いと対峙できるのか、自信はなかった。
 まるでそれを察したかのように、優が穏やかに言った。
 「あなたが、自分にだけ忠実で、自分だけの宝石を探し出し、それを手離さないで生きること。それが、一番の方法だよ」
 真由美は黙ってその言葉を噛みしめた。分かったような気もしたし、全く分からないような気もした。そして、やってみるしかない、そう思った。
 ワン、ツー、スリー、で指をパチンと鳴らし、あいつを消滅させる。フラミンゴの羽根の世界が訪れる。
 「ワタシは、あなたが宝石を見つけるのを手伝える」優は静かに言った。
 フラミンゴの羽根のような、ピンク色の空の、ピンクの光に染まった雲の中に、うっすらと、虹が浮かんでいた。ピンク色の雲の中で、よく目を凝らさないとそれと分からないような、しかし確かな七色の帯が、今にも消えそうになりながら、幻のようにぼんやり漂っていた。
 二人はそれに気がついて、じっとその光の帯を見つめた。二人とも、その光景を目に焼き付け、心に刻み込んだ。そして、虹がついに雲の中に溶けて消えるのを見届けると、遼一を探すために浜辺を後にした。


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