ショーセツ スナックぎんなんの災難 #2 ロシアンブルーとフグの毒
関東らしい冷たく乾いた風が吹いた。黄昏の空気は澄んで、東の空は淡いブルーとピンクのカクテルのような不思議な色をしている。
そんな風の中、戸外で遊ぶ子供たちの歓声がどこからか聞こえてきた。
「元気ねえ」 編み針を動かしながら虹子はため息をついた。
子供の体力は落ち、出生数も過去最低だという。
「そりゃそうよねえ。借金まみれで温暖化で、一億総活躍拡大路線なのに、子供を産む勇気も暇もないわよ」
「子はかすがい」なんて古い事言っている人もいるけど…分かってないわ。
かすがいだからこそ、可愛い我が子が負債を背負って苦労するのを見たくないんじゃないの。この相続は3か月放棄なんて出来ないんですからね。
黄昏時、虹子の妄想が始まった。
この世界が 「トゥモロー・ワールド」みたいにならない限り、子供のホントのありがたさなんか分かんないんだわ。
分かった時はすでに手遅れ、編み物婆あのワタシは、隔離された難民キャンプにいるんだろう。
そして、逃げてきたクライブ・オーウェンとキーをかくまい、世界に18年ぶりで誕生してきた赤ちゃんのため、暖かいおくるみを編んであげよう…
冷たい風を感じてふと我に返ると、扉が開いていて、例によって地味な中年男の堂下が困惑顔で立っていた。
今日は普通のメガネをかけているが、「ボーン・アイデンティティー」の孤独な殺し屋役で注目されたクライブ・オーウェンには似ても似つかない。
「いらっしゃい」虹子は苦笑いを向けるしかなかった。
大人しくて奥ゆかしい堂下は、ぼんやりと挙動不審な虹子の様子を見ても深く追求しない。
黄昏時にあらぬ妄想を抱いて座っている虹子の姿はさぞや間抜けに見えただろう。彼女は自分の醜態を無視することにして、さり気なく言った。
「今日はマーボ豆腐を作ったの」
「マーボか。いいね。辛い物好き?」
「ううん、嫌い。特に唐辛子は嫌いなの。でもなぜか今マーボブームが来てるの。寒いからかしら?」
「そうかもね。今年は雪も少なくて暖冬だっていうけど、やっぱり寒いね」
虹子はいつも食事目当てでやって来る堂下にマーボ定食を用意した。もちろんインスタントでしかも甘口なので、本域のマーボ愛好家には噴飯ものだろう。しかし堂下はカウンターの隅っこで、文句も言わず食べ始める。
するとまた扉が勢いよく開いて、比奈まつり・モモコ親子がどかどか飛び込んできた。
「うー さむさむ」まつりは震えて言った。「あけましておめでとう。今年もよろしくねえ」
「こちらこそよろしくお願いします。会頭さんは決まりました?」
「それがさあ~ もうますます混乱してるのよおー」親子はカウンターにどかどか座った。
「例の晋藤自動車のこと?」
「うん、それもある」
二人は駆け付け一杯のラムハイとカシスオレンジで一息つき、アルコールを摂取したまつりは、猛然と話し始めた。
「うちの幹事の一人で、晋藤自動車をそりゃあ嫌っている人がいて、あてつけに、影部ホールディングスに次期会頭の打診をそれとなくしてみたんだって」
「影部ホールディングスって、あの影部スポーツクラブの?それがどうして当てつけになるんです?」
「影部ホールディングスと晋藤自動車は、会社の敷地の件でずーっと揉めてるの」モモコが言った。
「ああ、そう言えば聞いたことある」
「そしたらさ、それが、ゼントルマン株式会社の耳に入ったらしくて、もう激怒されちゃったの。あそこが会頭するならうちは商工会議所離脱する!って、凄い勢いなのよ」 まつりは楽しそうにヒヒヒと笑う。
「ゼントルマン株式会社?時代遅れな名前…ゼントルマンホテルと関係あるんですか?」
「そうよお。バラ園で有名なあのホテルよ。時代遅れも仕方ないわよ、老舗だもん」
「影部さんとゼントルマンさんも揉めているんですか?」
「それがさあ、何か血生臭い話なのよお」まつりは身を乗り出して意味ありげな表情を浮かべた。
「ゼントルマンホテルに、招き猫がいたの知ってる?」
「招き猫?」
「そう、開業当時から代々、フロントで猫を飼ってるんだって。ねずみ退治が目的だったらしいけど、今じゃホテルの名物になっているのよ」
「へえ~」
「ところがさ、少し前、その招き猫が変死しちゃったのよ」
「えっ! 変死ってなんですか?」
「猫いらずがばらまかれたって話」モモコが口を挟んだ。猫好きらしく、その表情は悲しげだ。そして、虹子に自分のスマホ画面を見せた。
ブルーグレーの毛並みと流線形の体が美しい猫の画像があった。
「これ、ロシアンブルーっていう種類なの。こんな可愛い猫を殺すなんて許せない」モモコは憤懣やるかたないようだ。
「殺すって、誰が猫を殺すんです?」
「影部ホールディングスの浦地見社長だって話なのよ」まつりが言った。
虹子は驚いた。にわかには信じられない話だ。「本当なんですか、それ?」
「ゼントルマンホテル側はそう言っているわよ。防犯カメラに影部の従業員が映っていたって。」
「でも、そんなことしたら捕まりません?」
「それがさあ、状況証拠っていうの? あと、ホテル側も外聞を気にして、警察沙汰にはしなかったみたいなのよね。それで、浦地見さんに直接抗議に行ったみたい」
「わ~… それでどうなりました?」
「もちろん、はい自分がやりました、なんて言う訳ないじゃない?こんな従業員はうちにはいないとか、のらりくらりでかわされたみたいよ」
「そりゃそうだ…」虹子はため息をついた。
「全く、なんでそんなことしたのかねえ」まつりも呆れ顔だ。
「あの社長、秋田犬飼っているのよ」モモコは悔しそうに言った。
「? つまり、猫嫌いってこと?」まつりは娘に聞いた。
「うん」モモコは答えた。「ネットで調べたらさ、あの猫ちゃん、行動範囲が結構広くて、それでもって、結構お外で粗相しちゃってたって話。もしかしたら、影部んとこでうんちとかしちゃって、それがあいつの逆鱗に触れたとか、そんな感じじゃないかな」
「うそ~」まつりと虹子は声を揃えた。
「どんな人なんですか、浦地見社長って?」虹子はまつりに聞いた。
「そうねえ、柔道の黒帯で、一見紳士だけど…でも正直言って、何考えてるか分からない感じの人ね。
うちで招いた会議に遅刻してきた事があって、みんな凄い慌てたんだけど、悪びれもなくしれっと現れたのよ。薄ら笑いを浮かべてさ…
あれ、わざとじゃね?って言う人もいるのよ。いろいろあるけど、何といっても大手だし、我々が何も言えないことを見越してるんだって。老獪だわ」
「薬の問題もあるじゃない」モモコが口添えした。「所属してるスポーツ選手に禁止薬物を勧めてるから、もうあそこの選手は公式試合に出れないんでしょ」
「…何か……ちょっとワタシみたいな凡人と感覚が違いすぎるみたい」虹子は自分も食あたりを起こしたような気分になった。
「ホントよねえ」まつりも呟いた。「あーいう人とどうやって付き合ったらいいのか、ホント分からないわー」
「ゼントルマンホテルはその後、どうしたんですか?」
「ああ、あそこはね、今度はホテル協会から離脱する!ってことになって、それどころじゃなくなっちゃったのよ」
「今年もいろいろありそう」
女三人は向かい合ってため息をついた。
「ママ、ウィスキーくれる?」店の隅からおずおずと声がした。
いきなり聞こえてきた声に驚いたまつりは飛び上がった。
「あんた、いたの?今年も影が薄いわねえ」
堂下は相変わらずニコニコしている。
「ねえ、あんたはどう思うのよ。同じ男として浦地見社長みたいな老獪と、どう付き合うわけ?」まつりは大人しい堂下の傍に座って詰め寄った。
「どうって言われても」堂下は詰め寄られてタジタジとなりながらも、笑顔で言った。「昔から言うでしょ。毒を食らわば皿までって」
「何言ってんのかしらこの人は」まつりは絡んだ。
「じゃあ、毒を以て毒を制す、はどうですか」
「アタシは毒を使うのも食べるのもごめんよ」
「日本人は昔から、フグ喰ってるじゃないですか。腕のある調理師に頼めば、うまく喰えますよ」
「ヘンなやつ。もういいわ」
堂下もまつりの扱いに慣れてきたようで、二人は漫才コンビのようになっていた。
「そう言えば、ぎんなんも喰いすぎると腹こわすね」唐突に堂下が虹子に言った。
堂下どうした、そんなボケをかますことが出来るのか。虹子はそう独り言ちてまた苦笑いを返していた。
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